22話「二つの気配」
翌朝。
無月が居間へ入ると、白嶺はソファで眠っていた。
昨夜から同じ場所である。
スーツ姿のまま。
毛布から片脚を出し、白い髪をソファの下まで垂らしている。
彩華は白嶺の隣にはいなかった。
無月が起きたときには泣いていたため、すでにおむつを替え、ミルクも与えている。
今は黄色い鳥を持って、床に敷いた布の上へ座っていた。
「白嶺様」
返事はない。
「朝です」
『……聞こえている』
「では、起きてください」
『起きているわ』
「目を閉じておられます」
『身体が起きていないだけ』
「それを眠っていると申します」
無月はカーテンを開けた。
朝の光が部屋へ差し込む。
白嶺が毛布を頭まで引き上げた。
『眩しい』
「会社へ行かれるのでしょう」
『行くわよ』
「間に合うのですか」
『間に合わせる』
白嶺は毛布の中で答えた。
そこから数分、動く気配はなかった。
「白嶺様」
『あと五分』
「昨日、会社へ行く姿だけを見れば完璧だと思いました」
『褒めている?』
「今、その評価を改めております」
『会社に着いてから戻して』
無月は毛布を剥ぎ取った。
白嶺が不満そうに片目を開く。
『横暴ね』
「このままでは遅れます」
『遅れたことはないわ』
「遅れそうになったことは?」
『毎朝』
無月は、心の底から引いた顔をした。
◇
それでも白嶺は、定刻より前に会社へ到着した。
寝癖は残っていない。
スーツにも皺はなく、昨夜そのまま眠ったことなど誰にも分からない。
机へ鞄を置き、始業前に予定を確認する。
届いていた連絡へ目を通し、その日の優先順位を組み直した。
始業時刻を迎えたときには、すでに二件の指示を出していた。
「加藤さん、昨日の資料です」
美咲が修正した企画書を持ってきた。
白嶺は受け取り、内容を確認する。
『説明を削った分、見やすくなったわね』
「はい。加藤さんが言っていたとおり、数字の根拠を前へ出しました」
『これなら会議で使える。午後までに共有しておいて』
「分かりました」
美咲の表情が明るくなる。
白嶺に認められると、胸の奥まで温かくなる。
仕事を褒められただけだ。
それでも先日、白嶺の家を訪ねたことで、以前より少しだけ近い場所に立てたように感じていた。
白嶺が一人で彩華を育てていること。
会社では見せない姿があること。
それを知っている。
美咲にとっては、二人の間に小さな秘密ができたようなものだった。
「佐藤さん」
自分の席へ戻ろうとした美咲へ、玲奈が声をかけた。
「随分と機嫌がいいのね」
「そうですか?」
「少し褒められただけでしょう」
「褒められたから喜んだわけでは……」
「では、何?」
玲奈は笑っている。
だが、その目には笑みがなかった。
「最近、加藤さんに近づきすぎじゃない?」
「近づいてなんていません」
「そう。ならいいけど」
玲奈はそれ以上追及せず、画面へ視線を戻した。
美咲も自分の席へ戻る。
白嶺は二人の会話を聞いていたが、仕事へ支障が出ているわけではない。
口を挟まず、自分の業務へ戻った。
その沈黙を、美咲は信頼だと受け取った。
玲奈は、自分など意識されていない証拠だと受け取った。
◇
午前の会議を終え、白嶺が廊下を歩いていると、一人の男性社員が向こうから近づいてきた。
営業部の鈴木陽太だった。
手には複数の資料を持っている。
「加藤主任、少しよろしいですか」
『何?』
「先方から届いた実績値です。営業企画部にも共有してほしいと言われまして」
白嶺は資料を受け取った。
一枚目へ目を通す。
『先月分と集計方法が違うわね』
「はい。先方にも確認しました。今月から対象店舗が三店増えています」
『その説明は資料のどこに?』
「最後の頁です」
白嶺が頁をめくる。
対象店舗と集計期間がまとめられている。
『分かりやすいわ。こちらでも確認しておく』
「お願いします」
『鈴木君』
「はい」
『次からは、最初の頁にも変更点を書いて。最後まで読まない人もいるから』
「分かりました。修正して、もう一度共有します」
『そこまでしなくていい。今回はあたしが追記しておくわ』
「ありがとうございます」
鈴木は軽く頭を下げ、営業部へ戻っていった。
白嶺もそれ以上気に留めることなく歩き出す。
数分にも満たないやり取りだった。
それでも鈴木陽太という名前は、その日、営業企画部へ共有された資料の担当者として残った。
◇
午後になっても、白嶺の仕事ぶりは変わらなかった。
昨夜、自分の過去を無月へ話したことも。
虹結家を裏切ったと認めたことも。
置いていった無月へ謝ったことも。
すべて家の中へ残してきた。
胸の内側には、五つの色が沈んでいる。
赤。
橙。
黄。
褐色。
そして、緑。
スイガロを封じたことで、ふとした瞬間に昔の記憶が浮かぶ。
雨の日。
一つの傘。
初めて、白嶺自身が何を望んでいるのか尋ねた男。
思い出へ意識を向ければ、仕事の手が止まる。
白嶺は資料へ視線を戻した。
思い出さないのではない。
今は、思い出す時間ではない。
それだけだった。
午後三時を過ぎた頃、白嶺はわずかな違和感を覚えた。
眠いわけではない。
視界も、思考も明瞭だった。
それでも、自分の意識の奥へ誰かの指先が触れたような感覚がある。
言葉にしなかったこと。
誰にも見せなかった記憶。
眠りの中へ沈めた秘密。
それらを、遠くから探られている。
白嶺は手を止めなかった。
資料へ数字を入力しながら、その気配だけを測る。
藍色。
まだ遠い。
だが、確実に近づいている。
◇
同じ頃。
無月は、白嶺の家で一人座っていた。
彩華は保育園にいる。
家に残されたのは、無月と耀彩だけだった。
白嶺から借りた大きな服を着たまま、無月は窓際へ視線を向ける。
先ほどから、外を歩く者がいる。
同じ道を三度。
一度目はゆっくりと通り過ぎた。
二度目はアパートを見上げた。
三度目には足音を消していた。
一般人ではない。
色霊でもない。
無月は立ち上がり、カーテンの隙間から外を見る。
道の向こうに、黒い服を着た男がいた。
買い物袋も持っていない。
誰かを待っている様子でもない。
男がわずかに顔を上げる。
無月はカーテンを閉じた。
「分家の者か」
顔に覚えはない。
だが、立ち方と気配の消し方には覚えがあった。
虹結家に仕える者。
白嶺の居場所を確かめに来たのか。
失敗した無月の行方を探っているのか。
どちらにしても、偶然ではない。
無月は耀彩を手に取った。
今すぐ外へ出れば、男を捕らえられる。
目的も聞き出せる。
だが、ここで自分の姿を見せれば、無月が白嶺の側にいることまで知られる。
任務に失敗しただけではない。
標的の家へ入り、娘を守っている。
その事実が虹結家へ伝われば、次に送り込まれる者の目的は監視では済まない。
無月は耀彩から手を離した。
今は動かない。
相手が何を知っているのか分からない以上、こちらの情報を与えるべきではなかった。
窓から離れ、室内に人がいると分からない位置へ移動する。
外の男は、しばらくアパートを見ていた。
やがて気配が遠ざかる。
無月は追わなかった。
代わりに、男が去った方向と歩き方を記憶する。
「すでに、探り始めている」
虹結家は、白嶺からの返答を待つつもりなどない。
家紋のついた封書は、警告だった。
従わなければ、別の手段を取る。
その意思が、形を持って近づいている。
◇
夕方。
白嶺は保育園へ彩華を迎えに行ってから帰宅した。
『ただいま』
「お帰りなさいませ、白嶺様」
無月が玄関へ出てきた。
今日も白嶺から借りた服を着ている。
長い袖は何度か折られ、ズボンの裾も足元で余っていた。
『まだ慣れない?』
「何にですか」
『その服』
「動きづらいですが、支障はありません」
『そう』
「新しいものを購入する必要もありません」
『まだ何も言っていないけれど』
「白嶺様が私の服を用意しようと考えておられるように見えました」
『考えていないわ』
「そうですか」
『欲しいなら自分で選んで』
「必要ありません」
『なら、そのままでいいでしょう』
白嶺は靴を脱ぎ、彩華を床へ下ろした。
彩華は黄色い鳥を持ったまま、無月の方へ這っていく。
無月はすぐに腰を落とし、彩華を抱き上げた。
「彩華様、お帰りなさいませ」
「あぅ」
『あたしには言わないの?』
「先ほど申し上げました」
『そうだったわね』
無月は彩華を抱いたまま、表情を改めた。
「白嶺様。本日、家の周囲に虹結家の者と思われる気配がありました」
白嶺の目が変わる。
『姿は?』
「黒い服の男です。顔に覚えはありません。しかし、足運びと気配の消し方は家の者と同じでした」
『接触した?』
「しておりません。私がここにいることを知られているか判断できなかったためです」
『正解ね』
「この家の場所は、すでに知られています」
『封書が届いているもの』
「であれば、彩華様の保育園も調べられている可能性があります」
『そうね』
白嶺は即座に答えた。
迷う様子はなかった。
『彩華は明日から保育園を休ませる』
「よろしいのですか」
『よくはないわ。でも、虹結家が動き出した以上、通わせる方が危険よ』
「白嶺様がお仕事の間は、私がこちらでお守りします」
『そのためにあなたがいる』
「はい」
白嶺は携帯電話を取り出した。
保育園の連絡先を開く。
『今から連絡を入れる。明日、当面の休園届も出してくるわ』
「理由はどのように?」
『家庭の事情とだけ伝える。詳しく説明する必要はないでしょう』
「保育園まで、私も同行します」
『駄目よ』
「なぜですか」
『あなたの姿を家の者に見られたら、こちらの手の内まで知られる』
無月は黙った。
『休園届はあたしが出す。あなたは彩華と家にいて』
「一人で向かわれる方が危険です」
『会社へ行く途中に寄るだけよ。それに、狙われる可能性が高いのは彩華の方』
「……承知しました」
『今日から、窓の近くへ彩華を連れていかないで。玄関を開けるときも、先に外の気配を確かめること』
「お任せください」
『知らない人間が来ても出ないで』
「それくらいは分かります」
『宅配便も』
「たくはいびん」
『分かっていない顔ね』
「敵ですか」
『違うわ。でも出なくていい』
「承知しました」
無月は彩華を抱く腕へ、わずかに力を加えた。
「次は監視だけでは済まない可能性があります」
『ええ』
「虹結家の者が来ても、彩華様には指一本触れさせません」
『頼りにしているわ』
無月の目がわずかに動いた。
すぐに表情を戻す。
「契約ですので」
『そうね』
◇
夜。
白嶺は布団へ入った。
昨日のようにスーツのままソファで眠ろうとしたが、無月に寝室まで追い立てられた。
彩華は隣のベビーベッドで眠っている。
無月は居間にいる。
耀彩の気配が近くにあるため、白嶺にも分かった。
目を閉じる。
昼間から感じていた藍色の気配は消えていない。
むしろ、眠りへ近づくほど濃くなる。
意識がゆっくりと沈む。
雨の音が聞こえた。
◇
白嶺は、駅の近くに立っていた。
雨が降っている。
あの日と同じだった。
まだ虹結家を出る前。
傘を持たず、軒下で雨を見ていた日。
「入りますか」
隣から声がした。
振り向く。
傘を差し出す男がいる。
だが、顔が見えない。
雨に滲み、輪郭だけがぼやけている。
『あなたは誰?』
「忘れたのですか」
『忘れていない』
「なら、名前を呼んで」
白嶺は口を開く。
声が出ない。
男の名を知っている。
今でも覚えている。
だが、その名前だけが喉の奥へ沈み、言葉にならなかった。
「教えて」
男の声が、女のものへ変わる。
「あなたしか知らないことを」
傘の下に、藍色の髪をした女が立っていた。
優しい顔をしている。
「秘密を聞かせて」
女が白嶺へ手を伸ばす。
「誰にも言えなかったことを、全部」
指先が、白嶺の額へ触れる。
◇
白嶺は目を開けた。
部屋は暗い。
彩華の寝息が聞こえる。
額には冷たい汗が浮かんでいた。
夢だった。
だが、ただの夢ではない。
白嶺は身体を起こす。
『……アイム』
藍の色霊。
眠りと秘密を司るもの。
相手の秘密から記憶を読み、人格まで複製する。
深く入り込まれれば、目を覚ましたあとも夢は終わらない。
奪った記憶を使い、現実の景色へ偽物を重ねて見せる。
まだ姿を現してはいない。
それでも、すでに白嶺の夢へ入り始めている。
寝室の扉が静かに開いた。
「白嶺様」
耀彩を持った無月が立っていた。
「今、何者かの気配が」
『分かっている』
「色霊ですか」
『藍よ』
白嶺はベビーベッドを見る。
彩華は眠っている。
異変はない。
無月が寝室へ入り、窓と彩華の様子を確認する。
「御自身の夢へ入り込まれたのですか」
『少しだけね』
「何を見られました」
白嶺は答えなかった。
雨。
傘。
顔の見えない元夫。
そして、秘密を求める女。
「……話せないのであれば、話さなくて結構です」
無月はそれ以上聞かなかった。
代わりに耀彩を抱え、寝室の戸口へ腰を下ろす。
『そこで何をしているの』
「夜が明けるまで、ここにおります」
『寝なさい』
「再び入られる可能性があります」
『あなたがいても、夢の中までは守れないでしょう』
「外から起こすことはできます」
『そう』
白嶺は再び横になった。
目を閉じることには、わずかな抵抗がある。
その気配を察したのか、無月が静かに告げた。
「何かあれば、すぐに起こします」
『お願い』
「はい」
無月は戸口に座ったまま、白嶺の呼吸へ耳を澄ませた。
しばらくは藍色の気配が寝室の周囲を漂っていたが、白嶺が再び眠りへ落ちても、先ほどのような異変は起こらなかった。
夜半を過ぎた頃、白嶺が薄く目を開けた。
『無月』
「はい」
『もう寝なさい』
「ですが、再びアイムが現れる可能性があります」
『明日から、昼間はあなたが彩華を見るのよ。眠っていない人間へ娘は任せられない』
「私なら問題ありません」
『あるわ。彩華を守ることまで含めて、今は眠りなさい』
無月は反論しようとした。
だが、白嶺が彩華の安全を理由にしている以上、それを退けることはできなかった。
「……承知しました」
無月は耀彩を傍らへ置き、居間に敷かれた布団へ戻った。
眠りは浅かった。
それでも、朝までに数時間は身体を休めることができた。
虹結家の監視。
夢へ触れた藍の色霊。
二つの気配が、白嶺たちの暮らしへ近づいている。
それでも今夜、白嶺は一人ではなかった。




