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23話「眠りの内側」

翌朝。


 白嶺は、彩華を抱かずに玄関へ立っていた。


 通勤用の鞄には、昨夜記入した休園届が入っている。


 彩華は居間の床に座り、黄色い鳥を両手で掴んでいた。


 その隣には無月がいる。


 白嶺から借りたシャツは、袖を折っても手の甲へかかっていた。ズボンの裾も二度折り返してある。


『昨夜は眠れた?』


「はい」


『本当に?』


「眠っていない人間へ娘は任せられないと、おっしゃったでしょう」


『覚えていたのね』


「御命令でしたので」


 無月は夜半まで白嶺の眠りを見張り、その後は言われたとおり布団へ戻った。


 眠りは浅かったが、数時間は休んでいる。


 白嶺は無月の顔を見てから、鞄を肩へ掛け直した。


『保育園へ寄って、休園届を出してから会社へ行くわ』


「承知しました」


『外に誰かいても、様子を見に行かないこと』


「虹結の者であっても、ですか」


『ええ。向こうがあなたの居場所を知らないなら、こちらから教える必要はないでしょう』


 無月は窓へ目を向けた。


 昨日、建物の外にいた男。


 姿を見せずに帰したが、諦めたとは思えなかった。


「侵入された場合は」


『彩華を守って。必要なら刀を抜いて構わない』


「逃げた相手は追わずに?」


『追わないで。あなたに任せるのは、この家の中よ』


「……承知しました」


 白嶺は居間へ戻り、彩華の前へしゃがんだ。


『今日は無月とお留守番』


「あぅ」


 彩華が白い髪へ手を伸ばす。


 白嶺は掴まれる前に髪を肩の後ろへ払った。


『帰ってからにして』


「髪を引かせる約束をなさるのですか」


『毎朝交渉しているのよ。ほとんど負けるけれど』


 彩華は今度は白嶺の襟へ手を伸ばした。


 白嶺はその手へ指を握らせ、しばらく待ってから離した。


『お昼は冷蔵庫の上段。温め方は、さっき見せたとおりでいいわ』


「はい」


『知らない人が来ても出ないで』


「分かっております」


『それから――』


「白嶺様」


 無月が台所の方を指した。


「朝食が残っています」


 皿には、半分だけ食べたパンが置かれていた。


 彩華の食事を用意する途中で手を止め、そのまま忘れていたものだった。


『もういいわ』


「御自分の分だけ、扱いが雑すぎませんか」


『帰ってから食べる』


「硬くなります」


『では、あなたが食べて』


 白嶺は立ち上がった。


 無月は呆れた顔をしたが、それ以上は言わなかった。


 玄関へ向かう白嶺の背中を見る。


 追いかけようとはしなかった。


 足元には彩華がいる。


 無月はその隣へ膝をついた。


『夕方には戻るわ』


「行ってらっしゃいませ」


 扉が閉まる。


 鍵のかかる音がした。


 彩華はしばらく玄関を見ていたが、やがて手の中の黄色い鳥を振った。


 小さな鈴が鳴る。


 無月は折った袖を直した。


「今日は、私がお傍におります」


「あー」


 返事をしたように聞こえた。


          ◇


 白嶺は保育園へ休園届を提出した。


 理由の欄には、家庭の事情とだけ記してある。


「当面は、ご自宅で見られるのですね」


『ええ』


「彩華ちゃんにも、また会えるのを楽しみにしていますと伝えてください」


『ありがとうございます』


 白嶺は頭を下げた。


 園を出るとき、いつも彩華を受け渡す場所へ目が向いた。


 今日は、その小さな身体を抱いていない。


 無月が家で守っている。


 白嶺は鞄の中へ書類の控えをしまい、駅へ向かった。


 後ろからついてくる気配はない。


 胸の奥で、緑がかすかに揺れた。


 帰りたい。


 そう思った瞬間、古い屋敷の廊下が浮かびかける。


 白嶺は歩みを止めなかった。


 帰るのは夕方だ。


 彩華と無月が待つ、あの部屋へ。


          ◇


「加藤さん、おはようございます」


『おはよう』


 美咲が白嶺を見上げた。


 いつもと同じ時刻だった。


 白嶺は席へ着くと、その日の予定を確認し、資料を開いた。


 前夜、夢の中へ色霊が入り込んだことも、彩華を今日から休園させたことも、誰にも話さない。


 午前中の会議は予定どおりに進めた。


 修正の必要な企画書へ指示を書き込み、担当者へ返す。


 美咲が持ってきた資料にも、普段と変わらない調子で目を通した。


『ここの根拠が弱いわ。結論を変える必要はないけれど、資料を一つ追加して』


「はい。探してみます」


『見つからなければ、鈴木さんに確認して。営業の方で、似た調査を使っていたはずだから』


「分かりました」


 美咲が席へ戻る。


 白嶺は画面へ視線を向けた。


 白い余白の端に、藍色が滲んで見えた。


 瞬きをする。


 消えている。


 文字も、数字も、先ほどと変わらない。


 それでも、意識の奥へ誰かが触れようとしている感覚は残っていた。


 アイム。


 眠りと秘密を司る色霊。


 白嶺はその気配を測りながら、手元の作業を続けた。


 目を覚ましている今も、近づこうとしている。


 昨夜の夢だけで終わる相手ではなかった。


          ◇


 午前十一時を過ぎた頃。


 無月は窓から離れた場所に座っていた。


 耀彩はすぐ手の届く位置に置いてある。


 カーテンは閉じたままだった。


 昨日と似た気配が、建物の向かいにある。


 一度遠ざかり、また戻ってきた。


 足音を消す直前の歩調にも覚えがあった。


 同じ男だろう。


 無月は彩華の方へ視線を戻した。


 彩華は床へ落とした黄色い鳥に手を伸ばしている。


 届くまで待つ。


 指先が翼を掴み、手元へ引き寄せた。


「あぅ」


「取れましたね」


 無月がそう言うと、彩華は玩具を持ち上げた。


 鈴が鳴った。


 外の男が足を止める。


 無月は息を潜めた。


 この距離で、室内の小さな音まで聞こえるとは思えない。


 それでも気になった。


 彩華を窓からさらに遠ざける。


 抱き上げたところで、呼び出し音が鳴った。


 無月の身体が強張る。


 壁にある小さな画面へ、男の顔が映っていた。


 建物の入口に立っている。


 男は画面の向こうで何かを話していたが、無月はどのボタンにも触れなかった。


 知らない相手には応じない。


 白嶺から言われている。


 彩華を抱いたまま、玄関へ続く廊下を見た。


 耀彩は傍らにある。


 男が中へ入ってきたなら、ここで止める。


 呼び出し音がもう一度鳴った。


 彩華が音の方を向く。


 無月はその背中へ手を添えた。


 やがて画面が暗くなった。


 外の気配が動く。


 建物から離れ、道の先へ遠ざかっていった。


 無月は追わなかった。


 目的は分からない。


 扉を開けさせたかったのか。


 白嶺が出たあとも、誰かが残っているか確かめたかったのか。


 今分かるのは、相手がこの部屋を訪ねてきたということだけだった。


 白嶺が帰れば、そのまま伝える。


 無月は玄関の鍵を確かめ、居間へ戻った。


 彩華が長い袖を握っている。


「離れませんよ」


 無月は小さく答えた。


「ここにいるよう、言われていますので」


 彩華の指は緩まなかった。


 無月も、無理に外そうとはしなかった。


          ◇


 昼食を終えると、彩華は眠くなったらしい。


 抱いている間に目を閉じ、無月の胸へ頬を寄せた。


 無月はしばらく背中を撫でてから、ベビーベッドへ寝かせた。


 手から離れた黄色い鳥は、傍らの棚へ置いた。


 戸締まりは確かめてある。


 外の気配も戻っていない。


 無月はベッドの横へ座り、耀彩を手元へ寄せた。


 昨夜は白嶺の眠りをしばらく見張っていた。


 命じられてから数時間は休んだものの、眠りは浅かった。


 それでも、今すぐ眠らなければ立っていられないほどではない。


 彩華の呼吸を見る。


 静かだった。


 無月は折れかけた袖を直そうとした。


 指が動かない。


 気づいたときには、瞼が重くなっていた。


 眠気が身体の疲れとは別のところから広がってくる。


 冷たいものが、意識の奥へ染み込んでいた。


 藍色。


 無月は耀彩へ手を伸ばした。


 指が鞘に触れる。


 その感触が、乾いた木の手触りへ変わった。


          ◇


 膝の上に木刀があった。


 無月は虹結家の廊下へ座っていた。


 磨かれた床。


 閉ざされた襖。


 庭から聞こえる水の音。


 木刀を握っている手が、今より小さい。


『無月』


 廊下の先で、白嶺が振り返った。


 白い髪を結っている。


 無月が遠くから何度も見ていた、稽古のときの姿だった。


『来なさい』


「はい、白嶺様」


 返事が自然に出た。


 無月は立ち上がる。


 白嶺の後ろを歩いた。


 足音が廊下へ響く。


 あの背中が、今は自分を待っている。


 数歩進んだところで、無月は足を止めた。


 何かを忘れている。


 廊下へ来る前、自分はどこにいた。


 誰の傍にいた。


「……彩華様」


 口にした途端、白嶺も立ち止まった。


『どうしたの?』


「戻らなければ」


『どこへ?』


 白嶺が近づいてくる。


 黒い着物。


 腰の宿彩。


 白い髪の一部には、色が混じっていた。


 いつの間にか、再会したときの姿へ変わっている。


 無月は一歩退いた。


「これは夢ですね」


『そうよ』


「あなたは白嶺様ではない」


 白嶺の顔をしたものが笑った。


 廊下の木目へ、藍色が染み出してくる。


「アイム」


『名前を知っているのね』


「私の中から出ていけ」


 無月は刀を抜いた。


 木刀だったはずのものが、耀彩へ戻っている。


 自分の手も、今の大きさになっていた。


 踏み込む。


 刃が白嶺の首を通り抜けた。


 手応えはない。


 藍色の身体がほどけ、すぐ後ろで同じ姿を作った。


『怖いの?』


「黙れ」


『せっかく会えたのに』


「私は今、あの方と暮らしている」


『ええ。彩華を守る契約でね』


 無月は振り返った。


 アイムは白嶺と同じ顔で、同じように目を細める。


『役目がなくなっても、ここにいたいのでしょう?』


 返事が出なかった。


 それを見て、アイムは一歩近づいた。


『怒らなくてもいいわ。あたしには言っていいのよ』


「その声で話すな」


『無月』


「呼ぶな」


 耀彩を振るう。


 藍色が散った。


 斬ったはずの顔が、また目の前にある。


 逃げてもいない。


 無月の刃など気にせず、手を伸ばしてくる。


『もう置いていかない』


 無月の指から、わずかに力が抜けた。


 聞きたかった。


 その言葉を、何度も待っていた。


 屋敷で白嶺の姿を探していた頃も。


 殺すよう命じられたときも。


 助けられ、顔を上げられなかった夜も。


 自分が何を待っているのか、考えないようにしていた。


『無月も一緒に来て』


 偽物の手が頬へ触れる。


 温かかった。


 無月は目を閉じかけた。


 このまま頷けば、もう一度あの背中を追える。


 追いかけてもよいと、本人が言っている。


 だが、足が動かなかった。


 彩華の指を思い出していた。


 余った袖を握り、離さなかった小さな手。


 自分は、その子の傍にいると答えた。


「……行かない」


 アイムの手が止まった。


『どうして?』


「待っている者がいる」


『あたしより大切?』


 無月は目を上げた。


 白嶺の顔が、返事を求めている。


 自分と彩華を並べ、どちらを選ぶか尋ねている。


 耀彩を握り直した。


「白嶺様は、そんなことを聞かない」


『あなたが望んだ言葉でしょう?』


「お前から聞きたかったわけではない」


 頬へ触れていた手を振り払う。


 アイムの顔が崩れた。


 白い髪が黒く染まり、背丈が縮む。


 無月と同じ顔。


 借りている、大きすぎるシャツ。


 折り返したズボンの裾まで同じだった。


 もう一人の無月が、目の前に立っている。


「ならば、本人に聞けばいい」


 自分と同じ声だった。


「役目がなくなっても、ここにいていいかと」


 無月の喉が強張る。


 まだ何も答えていない。


 それなのに、アイムはもう答えを知ったような顔をしていた。


「言えないのか」


「黙れ」


「代わりに、私が聞いてあげようか」


「黙れ!」


 無月は自分自身へ斬りかかった。


 刃が触れる寸前、藍色が弾けた。


          ◇


 無月は目を開けた。


 手は耀彩の鞘へ置かれている。


 抜いてはいなかった。


 最初に彩華を見た。


 ベビーベッドの中で、静かに眠っている。


 黄色い鳥も、棚へ置いたままだった。


 時計の針は、先ほど見た位置からほとんど動いていない。


 無月は呼吸を整えようとした。


 上手くいかなかった。


 彩華の傍にいた。


 外の気配も探っていた。


 それでも入り込まれた。


 目を閉じるつもりさえなかったのに、気づいたときには屋敷の廊下にいた。


「彩華様」


 小さく呼ぶ。


 彩華が身じろぎした。


 無月はそれ以上声をかけず、胸の上下を確かめた。


 異常はない。


 その事実を何度も確かめてから、ようやく息を吐いた。


 夢だった。


 だが、覚えている。


 白嶺の声も。


 頬へ触れた手の温かさも。


 聞きたかった言葉に、刃を下げかけたことも。


 無月は口元を押さえた。


 自分の顔をしたものが、まだ瞼の裏にいる。


 代わりに聞いてあげようか。


 あの言葉が、耳から離れなかった。


          ◇


 夕方が近づいても、男は戻ってこなかった。


 彩華は目を覚まし、無月の腕の中で黄色い鳥を振っていた。


 無月は玩具を受け取り、床へ置く。


 彩華を敷物の上へ下ろした。


 すぐに玩具の方へ這っていく。


 その動きを見守りながら、無月は玄関へ続く廊下にも意識を向けていた。


 白嶺が戻ったら、男のことを話す。


 アイムに入られたことも。


 隠していれば、彩華まで危険に晒すかもしれない。


 だが、夢の中で何を言われたのか。


 そこまで尋ねられたら、どう答えればよいのか分からなかった。


 玄関の前に、気配が現れた。


 知っている気配だった。


 無月は立ち上がりかけた。


 そこで、足が止まる。


 夢の中でも、知っている声だった。


 知っている手だった。


 偽物だと分かってなお、近づきたいと思ってしまった。


 鍵が回る。


 無月は耀彩を手に取った。


 居間と玄関を結ぶ廊下へ立つ。


 背後には彩華がいる。


 扉が開いた。


 通勤用の鞄と買い物袋を持った白嶺が、玄関へ入ってくる。


『ただいま』


 いつもの声だった。


 無月は耀彩を抜いた。


 白嶺が足を止める。


『何をしているの?』


「そこで止まってください」


『無月?』


「あなたが本物の白嶺様であると、証明してください」


 白嶺は無月を見た。


 続いて、その背後にいる彩華へ視線を向ける。


 彩華は床に座り、黄色い鳥を持っていた。


 白嶺の目が、耀彩へ戻った。


『アイムに入られたのね』


「答えてください」


 声が震えていた。


 戻ってきてほしかった。


 朝、夕方には帰ると聞いてから、ずっと待っていた。


 ようやく開いた扉の前で、無月は刃を下ろせずにいる。


 白嶺はゆっくりと買い物袋を床へ置いた。


『分かったわ』


 その足元で、影が揺れた。


 無月には、それが藍色に見えた。

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