8話「やさしさの行方」
土曜日の朝。
白嶺は自分の顔に落ちてきた布を、目を閉じたまま掴んだ。
柔らかい。
小さい。
彩華の靴下だった。
『……なぜ、これが降ってくるの』
「あぅ」
声のした方を見る。
ベビーベッドの中で、彩華がもう片方の靴下を握っている。
昨夜、白嶺が柵へ掛けたまま忘れたものだった。
『投げたの?』
「あー」
『随分と肩が強いわね』
彩華が腕を振る。
二つ目の靴下が、ベビーベッドの外へ落ちた。
『今のは届いていないわ』
白嶺は布団から起き上がった。
平日なら、すでに朝食と保育園の支度を始めている時間だった。
今日は急ぐ必要がない。
会社も、保育園も休み。
街から色霊の気配もしない。
『もう少し寝てもよかったのだけれど』
「うー」
『あなたに休日は関係ないわね』
彩華を抱き上げる。
白い髪を掴まれる前に顔を離したが、寝間着の襟を捕まえられた。
『朝から元気ね』
台所へ向かう。
テーブルには、昨夜畳み始めた洗濯物が半分だけ残っている。
自分の衣類だった。
彩華の服はすべて片づけたところで力尽き、そのまま眠った。
白嶺は椅子へ座り、残された衣類を見る。
『見なかったことにしましょう』
「あぅ」
『同意と受け取るわ』
彩華をベビーチェアへ座らせ、朝食を用意する。
冷蔵庫を開けたところで、野菜がほとんど残っていないことに気づいた。
牛乳も少ない。
自分用のコーヒーだけは、まだ十分にある。
『今日は買い物ね』
彩華はテーブルを叩いた。
『嬉しいの?』
「あー」
『あなたは抱かれているだけでしょう』
◇
午前中のうちに掃除を済ませるつもりだった。
白嶺はそう考えていた。
考えてはいた。
彩華へ朝食を食べさせ、着替えをさせる。汚れた食器を洗い、洗濯機を回す。
干そうとしたところで、物干し竿の中央に宿彩が置かれていることに気づいた。
昨夜、タオルを掛けたままにしていた。
『少し退いて』
宿彩を持ち上げ、壁へ立てかける。
赤と橙の気配が、鞘の奥で揺れた。
朝から触れていたいものではない。
白嶺は洗濯物を干し終え、宿彩を元の場所へ戻した。
今度は何も掛けない。
『今日は休みよ』
刀へ告げる。
返事はない。
振り返ると、彩華が床に置かれた箱から玩具を次々と取り出していた。
片づけるために集めたものだった。
『彩華』
「あぅ」
『それは出して遊ぶ箱ではないわ』
彩華は赤い魚の玩具を取り出した。
続いて、黄色い布。
木製の輪。
床へ順番に並べていく。
『聞いていないわね』
白嶺は一度、天井を見た。
掃除機はまだ部屋の隅に置かれている。
洗濯物は干した。
食器も洗った。
それで十分ではないだろうか。
少なくとも、人が死ぬほど散らかってはいない。
『買い物へ行きましょう』
「あー」
掃除は明日に回された。
◇
白嶺は彩華を抱き、近所の商店街へ向かった。
休日の通りには、平日よりも多くの家族連れがいる。
買うものは決めていた。
野菜、牛乳、彩華の離乳食に使う白身魚。それから、おむつ。
必要なものだけを買う。
そのつもりだった。
子供用品店の前を通ったとき、彩華が店頭に吊られた玩具へ手を伸ばした。
振ると音が鳴る、黄色い鳥の玩具だった。
『似たものを持っているでしょう』
「あぅ」
『黄色い布があるわ』
「うー」
『鳥ではない?』
「あー」
彩華の手が、白嶺の肩越しに玩具を追っている。
『……見るだけよ』
店へ入った。
数分後。
白嶺は黄色い鳥の玩具が入った袋を持って店を出た。
『見るだけだったはずなのだけれど』
彩華は新しい玩具を握り、嬉しそうに振っている。
軽い鈴の音が鳴った。
『その顔は卑怯ね』
後悔はしていなかった。
商店街を進み、食料品店へ入る。
野菜を選び、牛乳を籠へ入れる。
白身魚の価格を見て、白嶺は少しだけ眉を寄せた。
『先週より高いわ』
「あぅ」
『あなたが払ってくれる?』
彩華が黄色い鳥を振った。
『音では支払えないのよ』
必要なものを買い、店を出る。
片腕に彩華を抱き、もう片方の手で買い物袋を持つ。
おむつの袋は腕へ掛けた。
宿彩より軽い。
しかし、持ちにくさはこちらの方が上だった。
歩いている途中、買い物袋の中で牛乳が傾いた。
白嶺は持ち直そうとした。
その拍子に、おむつの袋が腕から滑る。
「あっ」
近くを歩いていた老婦人が足を止め、落ちる前に受け止めた。
「大丈夫ですか?」
『すみません。ありがとうございます』
「赤ちゃんを抱いていると大変でしょう」
老婦人は穏やかに笑い、おむつの袋を白嶺へ差し出した。
その手へ、彩華が黄色い鳥の玩具を伸ばす。
「あら、かわいい鳥ね」
「あー」
「見せてくれるの?」
老婦人が玩具へ触れた。
黄色い糸が見えた。
彩華の玩具からではない。
老婦人の指先から伸び、その胸を通り、商店街の向こうへ続いている。
糸の中を、黄金色の光が流れていた。
白嶺の目が細くなる。
光は温かい。
今、老婦人が白嶺を助けようとした心。
見知らぬ親子へ向けた、ささやかな親切。
その温もりが、糸を通って抜き取られている。
「……もう、いいでしょう」
老婦人の声が変わった。
笑みが消える。
彩華の手から玩具を乱暴に離し、おむつの袋を白嶺へ押しつけた。
「自分の荷物くらい、きちんと持ったらどうですか」
『……すみません』
「赤ちゃんを言い訳にしない方がいいですよ」
老婦人はそれだけ言い、歩き去った。
数歩進んだところで別の女性と肩が触れる。
相手が頭を下げても、老婦人は振り返らなかった。
先ほどまであった温かさが、綺麗に失われている。
白嶺は黄色い糸を目で追った。
人混みの向こうへ伸びている。
一本だけではない。
商店街のあちこちから、細い黄色が浮かび上がっていた。
席を譲った人。
落とし物を拾った人。
泣いている子供へ声をかけた人。
誰かへ親切にした者から、温かな光だけが抜き取られていく。
糸の先はすべて、同じ方向へ続いていた。
白嶺の腕の中で、彩華が黄色い鳥を振る。
鈴が鳴った。
その明るい音さえ、今は警告のように聞こえた。
『気に入ったばかりなのに、困ったわね』
「あぅ」
彩華の玩具に異変はない。
黄色も失われていない。
白嶺は、買い物袋とおむつを持ち直した。
今すぐ糸を追うことはできない。
腕には彩華がいる。
宿彩も家に置いてきた。
それに、昼間の商店街で刀を抜くわけにもいかなかった。
白嶺は黄色い糸が伸びる方向を覚え、帰路についた。
◇
昼食を終えたあとも、彩華は黄色い鳥を手放さなかった。
床へ座り、何度も振っている。
鈴が鳴るたびに笑う。
『そこまで気に入ったの』
「あー」
『買った甲斐はあったわね』
白嶺は窓際へ立った。
商店街で見た黄色い糸は、ここからでは見えない。
それでも、気配は残っている。
蜜のように甘い匂い。
人の体温に似た、柔らかな光。
アケバミの渇望とも、ダツヨウの安らぎとも違う。
誰かに優しくしたいという心へ、正面から手を伸ばしてくる。
色霊は、色ごとに異なる感情へ引き寄せられる。
赤は、命と渇望。
橙は、希望と活力。
そして今、街から失われ始めている黄色は、人の温もりだった。
床では、彩華が黄色い鳥を白嶺へ差し出している。
『貸してくれるの?』
「あぅ」
受け取ろうとすると、彩華はすぐに玩具を胸元へ戻した。
『……見せただけ?』
彩華が笑う。
『随分と性格が悪くなったわね』
白嶺は彩華の前へ座った。
黄色い鳥を挟み、しばらく互いの顔を見る。
やがて彩華は、もう一度玩具を差し出した。
今度は、白嶺が触れても引っ込めない。
『ありがとう』
彩華の頭を撫でる。
小さな親切だった。
見返りも、理由もない。
ただ、母親へ自分の気に入ったものを触らせたかった。
商店街のどこかで、それと同じ温もりが奪われ続けている。
白嶺は黄色い鳥を彩華へ返した。
今夜も出なければならない。
彩華を一人にして。
その考えが浮かんだ途端、胸の奥で橙が囁いた。
行かなくていい。
見なかったことにすればいい。
赤がそれを押し退ける。
すぐに行け。
すべて斬れ。
二つの感情が、白嶺の中でぶつかる。
『どちらも黙って』
白嶺は立ち上がった。
出るのは夜になってから。
それまでは彩華といる。
食事をさせ、風呂へ入れ、眠るまで傍を離れない。
白嶺は、自分で順番を決めた。
黄色い鳥の鈴が、明るく鳴った。




