7話「白に残るもの」
朝、白嶺は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
身体が重い。
布団の温もりが、いつもより心地よく感じる。
このまま目を閉じていればいい。
会社へ行く必要はない。
保育園の支度も、朝食の準備も、今日だけは放っておけばいい。
そんな考えが、柔らかな声で囁いている。
ダツヨウから流れ込んだ橙だった。
胸の奥では、アケバミの赤が正反対の衝動を訴えている。
起きろ。
誰よりも早く動け。
誰よりも多く働け。
すべてを手に入れろ。
『朝から両極端ね』
白嶺は布団を退けた。
赤に従ったわけではない。
橙へ逆らったわけでもない。
彩華を保育園へ連れていく時間が来ただけだった。
ベビーベッドを覗き込む。
彩華はまだ眠っている。
起こさないように台所へ向かい、自分のコーヒーを淹れた。
一口飲み、眉を寄せる。
『……砂糖を入れ忘れたわ』
赤が甘さを求める。
橙は、このままでいいと囁く。
白嶺は砂糖を一杯だけ加えた。
自分で決めた量だった。
◇
彩華を保育園へ預け、白嶺は普段と同じ時刻に出勤した。
営業企画部へ入る。
「おはようございます」
『おはようございます』
髪も、化粧も、服装も乱れていない。
眠気を引きずる足取りでもない。
席へ着くと、午前中に予定されている打ち合わせの資料を確認した。
今日は、初めて顔を合わせる取引先が来る。
部長から進行を任されていた。
必要な資料は昨日のうちに揃えてある。玲奈が作成した集計表も、美咲が修正した販促案も確認済みだった。
始業から三十分後、受付から内線が入る。
白嶺は会議室へ向かった。
◇
「初めまして。営業企画部の加藤です。本日はよろしくお願いいたします」
名刺を差し出す。
取引先の男性は名刺を受け取り、白嶺の顔を見たあと、視線を髪へ移した。
「加藤さんの髪は、ずいぶん綺麗な白ですね」
『ありがとうございます』
「染めていらっしゃるんですか?」
『いいえ。元からです』
「それは珍しい」
男性に悪意はない。
白嶺も、同じ質問には慣れていた。
『商品のお話へ移ってもよろしいですか』
「ああ、失礼しました。お願いします」
白嶺は資料を開いた。
髪の話はそこで終わった。
企画の目的、想定する顧客層、販売までの工程。必要な内容を順番に説明する。
取引先から予定にない変更を求められても、すぐには承諾しない。
『その条件ですと、開始時期を一週間後ろへ移す必要があります』
「そこを何とか、現在の日程のままでお願いできませんか」
『日程だけを守ることは可能です。ただし、確認工程を省くことになります』
「品質に影響が出ますか?」
『出る可能性がある以上、弊社からはお勧めできません』
白嶺は感情を交えずに答えた。
相手の希望をすべて受け入れることが、よい仕事とは限らない。
できない理由と、代わりに選べる方法を示す。
『開始時期を動かせないのであれば、対象店舗を二段階に分ける方法があります。先行する店舗だけ現在の日程で進め、残りは確認を終えてから開始します』
「なるほど。それなら社内にも説明できます」
『具体的な日程は、本日中に作成してお送りします』
「お願いします」
打ち合わせは予定時刻の五分前に終わった。
白嶺が取引先を見送り、会議室へ戻る。
同席していた美咲が、使用した資料を集めていた。
「加藤さん」
『何?』
「急に条件を変えられたのに、すぐ別の方法を出せるのがすごいです」
『考えられる変更は、事前にいくつか想定していたから』
「それでも、私なら焦ってしまうと思います」
『焦っても相手の条件は変わらないわ』
「はい」
美咲は白嶺の言葉を覚えておこうとするように、静かに頷いた。
会議室の入口では、玲奈が残りの資料を抱えている。
白嶺へ向ける美咲の視線を見たあと、何も言わずに部屋を出ていった。
◇
午後、白嶺は約束した日程表を完成させた。
関係部署へ確認し、実行可能であることを確かめてから取引先へ送る。
赤は、相手の要求を押し切れと騒いでいた。
橙は、面倒な調整など明日に回せと誘っていた。
白嶺は、どちらにも従わなかった。
仕事に必要な判断をして、必要な順番で進める。
それだけだった。
退勤時刻までに予定していた業務を終える。
白嶺がパソコンの電源を落とすと、美咲が顔を上げた。
「加藤さん、お疲れさまでした」
『お疲れさま。佐藤さんも、今日中でなくていい仕事は明日へ回して』
「はい」
白嶺は鞄を持って席を立つ。
玲奈は自分の画面へ向かったまま、必要な挨拶だけをした。
「お疲れさまでした」
『お疲れさま、中村さん』
その声に親しさも、険しさもない。
白嶺はいつもと同じように営業企画部を出た。
扉が閉じる。
美咲は、自分の机に置いていた手帳を開いた。
打ち合わせ中に白嶺が話した言葉を、忘れないように書き留める。
その様子を、玲奈が一度だけ見た。
「それ、何を書いているの?」
「今日、加藤さんに教えていただいたことです」
「全部残してるの?」
「全部ではないけど、忘れたくないことは」
「熱心ね」
玲奈は笑わなかった。
「加藤主任の真似をしていれば、自分も同じところまで行けると思ってる?」
美咲の手が止まる。
「真似をしたいわけではありません」
「では、何?」
「少しでも近づきたいんです」
美咲は手帳を閉じた。
「私には、まだできないことが多いから」
「そう」
玲奈は視線を戻した。
「追いかけるだけなら、背中しか見えないでしょうけど」
それ以上は何も言わなかった。
美咲も返事をせず、手帳を鞄へしまった。
◇
保育園へ迎えに行くと、彩華は白嶺の顔を見るなり声を上げた。
抱き上げる前から、両手が白い髪へ向かっている。
『今日は駄目よ』
「あぅ」
『毎日引っ張られたら、本当に抜けるわ』
彩華は構わず髪を掴んだ。
『聞いていないわね』
その白髪は、白嶺が生まれたときから変わらない。
虹結家に生まれたすべての者が、白髪になるわけではない。
器としての素質が強い者に、その白は現れる。
ただし、白髪だからといって、必ず器になるわけではなかった。
彩華にも同じ白髪がある。
それは、この子にも素質があるということだけを示している。
どのように生きるかまで、髪の色に決めさせるつもりはなかった。
白嶺自身は、その素質ゆえに器として育てられた。
家を捨てた今も、白い髪を見るたびに、与えられた役目を思い出す。
だから白嶺は、自分の髪を好きではなかった。
嫌いでもなかった。
ただ、自分で選んだものではないと思っていた。
「あー」
彩華が白い房を握り、楽しそうに笑う。
白嶺はその手を見た。
『そんなに面白い?』
「あぅ」
『そう』
彩華にとって、この髪に特別な意味などない。
母親の頭から生えている、掴みやすいもの。
それだけだった。
白嶺は彩華の指を無理に外さず、そのまま歩き出した。
◇
夕食を終えたあと、白嶺は洗濯物を畳んでいた。
自分のシャツは多少ずれていても気にしない。
彩華の服だけは、端を揃えて小さく畳む。
床では、彩華が黄色い布の玩具を振っている。
何が楽しいのか、何度も同じ動きを繰り返していた。
『それ、飽きないの?』
「あぅ」
『便利ね。あたしも同じ資料を見て楽しめるようになりたいわ』
彩華が玩具を落とした。
白嶺は拾って渡す。
すぐにまた落とされた。
『落とす遊びに変わったのね』
拾う。
落とされる。
もう一度拾う。
三度目で、白嶺は玩具を自分の膝へ置いた。
『終わり』
「うー」
『抗議は受け付けません』
彩華が白嶺の膝へ手を伸ばす。
取ろうとして身体を傾け、前へ倒れかけた。
白嶺はすぐに胸元を支えた。
『危ない』
少し強い声が出た。
彩華が目を丸くする。
胸の奥で、赤が騒いでいる。
言うことを聞かせろ。
もっと強く叱れ。
同時に橙が、何もせず放っておけばいいと囁いた。
白嶺は彩華を抱き上げた。
『……驚かせたわね』
「あぅ」
『あなたが悪いわけではない』
彩華は何も分からないまま、白嶺の胸元へ頬をつけた。
二つの色を封じただけで、感情が消えなくなっている。
制御できないほどではない。
仕事にも、育児にも支障は出していない。
それでも、アケバミだけを封じていたときより、押し込めるための力が必要だった。
一つなら、どこにあるのか分かる。
二つになれば、互いを刺激する。
さらに増えればどうなるのか。
白嶺は考えるのをやめた。
十二の色すべてを、かつてこの身体へ宿していた。
今さら二つを恐れる理由はない。
『大丈夫』
彩華の背中を撫でる。
誰へ向けた言葉なのかは、自分でも分からなかった。
◇
彩華を寝かしつけたあと、白嶺は宿彩を手に取った。
鞘の奥には、赤と橙が封じられている。
色霊を斬れば、それが人から奪ったものは宿彩へ引き戻される。
返せるものは、元の持ち主へ戻る。
しかし、誰から奪ったものか分からなくなった色。
すでに持ち主との繋がりを失った色。
色霊そのものを形作っている色。
それらは消えず、刃の中へ残る。
宿彩だけでは、完全には封じられない。
刀を振るった者の身体を通し、その奥へ根を伸ばす。
白嶺は鞘へ触れた。
赤い熱と、橙の温もりが指先へ伝わる。
『二つ』
あと十。
言葉にはしなかった。
宿彩を二脚の椅子へ渡し、その上に洗ったタオルを掛ける。
刀から伝わっていた気配が、布越しに少し遠ざかった。
『今日は、これでいいわ』
寝室へ戻る。
彩華は眠っている。
白嶺は布団へ入り、娘の寝息へ耳を澄ませた。
赤が何かを求めている。
橙がすべてを忘れて眠れと誘っている。
どちらにも従わず、目を閉じた。
今夜、街に異変はない。
彩華を置いて出ていく必要もない。
それだけで十分だった。




