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6話「幸福な夕暮れ」

アパートへ戻ると、白嶺はいつもどおり彩華の食事を用意した。


 野菜を細かく潰し、粥へ混ぜる。


 彩華をベビーチェアへ座らせ、温度を確かめたスプーンを口元へ運んだ。


「あぅ」


『口を開けないと食べられないわよ』


 彩華は白嶺ではなく、窓の外を見ている。


 夕日はすでに沈んでいる。


 それでも空の端には、橙色の光が不自然に残っていた。


『見なくていい』


 白嶺はカーテンを閉めた。


 彩華がようやく口を開ける。


 食事を終えるまでに、空の色は見えなくなった。


 風呂へ入れ、寝間着へ着替えさせる。


 ミルクを飲ませながら、白嶺は時計を見た。


 公園のベンチへ残してきた女性が、今も生きている保証はない。


 急ぐべきだった。


 それでも、彩華の世話を途中で放り出すことはできない。


 焦りを悟ったように、彩華が白嶺の髪を掴んだ。


『痛い』


「あー」


『今日は少し加減して』


 髪から指を外すと、彩華は白嶺の人差し指を握った。


 小さな手だった。


 この手を離し、今夜も一人にする。


 白嶺はその事実を考えないようにした。


 考えれば、出ていけなくなる。


 彩華の瞼が閉じる。


 呼吸が整うまで待ち、ベビーベッドへ寝かせた。


 白嶺は黒い着物へ着替えた。


 中古の黒着物には、昨夜落としきれなかった赤の跡が薄く残っている。


 物干しに使っていた宿彩から、彩華のタオルを外す。


『二日続けて働けるわよ』


 宿彩は答えない。


『もう少し喜んでもいいでしょう』


 返事はなかった。


 白嶺は刀を帯へ差し、眠る彩華の前へ戻った。


 昨日のように、泣きながら目を覚ますかもしれない。


 今夜は朝まで眠っているかもしれない。


 どちらになるかは分からない。


『行ってくるわ』


 彩華に聞こえない声で告げる。


 白嶺は部屋を出た。


          ◇


 公園には、まだ夕暮れが残っていた。


 空はすでに夜へ変わっている。


 それなのに、ベンチの周囲だけが柔らかな橙色に照らされていた。


 仕事帰りの女性は、同じ場所に座っている。


 両手を膝へ置き、幸福そうに微笑んでいた。


 胸から浮かび上がった淡い光が、隣に立つ少女へ吸い込まれている。


「戻ってきてくれた」


 橙色の髪をした少女が笑う。


『約束したから』


「一緒に見てくれる?」


『その前に、彼女を返して』


 少女はベンチの女性を見た。


「この人は幸せだよ」


『そう見えるわね』


「ずっと苦しかったの。仕事も、家族も、明日のことも。だから、いちばん幸せだった夕方を見せてあげた」


 女性の唇が動く。


「お母さん……」


 目の前には誰もいない。


 それでも女性は、幼い子供のような顔で笑っている。


「もう少しだけ……ここにいたい」


 少女が女性の頭を撫でる。


「いいよ。何もしなくていいからね」


 その言葉とともに、女性の胸から新たな光が抜けた。


 明日を迎える力。


 苦しさへ立ち向かう気力。


 誰かを愛し、何かを望むための熱。


 橙色の光に触れたものから、静かに失われていく。


 色霊は、人の心を力ずくで壊す怪物ではない。


 苦しんでいる者へ近づき、欲しがっているものを与える。


 怒りを忘れたい者には静けさを。


 過去へ戻りたい者には美しい記憶を。


 孤独な者には愛情を。


 その代わりに、本人が失ったことさえ気づけない方法で、大切なものを奪っていく。


 だから拒む者が少ない。


 救われたと思いながら、色を失っていく。


『優しいのね』


 白嶺が言った。


 少女の笑みが深くなる。


「分かってくれる?」


『ええ。とても質が悪い』


 少女の笑顔が止まった。


「どうして?」


『苦しませて奪う相手なら、被害者も抵抗できるでしょう』


 白嶺は宿彩の柄へ手を掛ける。


『あなたは、抵抗する理由から奪っている』


「でも、幸せだよ?」


『選ばせていないものを、救いとは呼ばないわ』


 白嶺が鯉口を切った。


 白髪が膝まで伸び、その一部へ生来の虹色が走る。


 その中で、封じた赤だけがひときわ濃く浮かび上がった。


 長い髪を頭の横で結い上げ、宿彩を抜く。


 刃が橙色の光を映した。


 少女は怯えなかった。


「疲れているでしょう?」


 公園を満たす光が強くなる。


「仕事をして、あの子のお世話をして、夜になったら一人で出てくる」


 白嶺の指が止まった。


「誰もあなたを助けてくれない」


『随分と詳しいのね』


「光の中にあったの」


 少女が両手を広げる。


「あなたが隠していること、全部」


 橙色の光が白嶺を包んだ。


          ◇


 気がつくと、白嶺は縁側へ座っていた。


 目の前には、夕日に染まった庭が広がっている。


 色とりどりの花。


 風に揺れる木々。


 隣には、幼い彩華が座っていた。


 十か月の赤子ではない。


 五歳ほどまで成長し、自分の足で庭を歩いている。


「お母さん」


 彩華が振り返った。


 楽しそうに笑っている。


 白嶺の手元に刀はない。


 戦う必要もない。


 色霊も、虹結家も存在しない。


 会社へ行かなくてもいい。


 誰かを守るために、彩華を一人で残すこともない。


「こっちに来て」


 彩華が手を伸ばす。


 白嶺は立ち上がろうとした。


 身体へ力が入らない。


 力を入れる必要もないと思った。


 ここに座っていればいい。


 夕日は沈まない。


 彩華もいなくならない。


 ずっと、何も起きない。


『……随分と都合のいい景色ね』


 白嶺は呟いた。


 彩華が首を傾げる。


「どうしたの?」


『この子は、まだそんなに上手に喋らないわ』


「これから話せるようになるよ」


『ええ』


 白嶺は、幼い彩華の顔を見る。


『だから、あたしは本物の声を待つ』


 縁側へ細い亀裂が走った。


 庭の花が揺れる。


「ここにいればいいのに」


 彩華の声に、少女の声が重なる。


「ここなら、何も苦しくないよ」


『そうね』


 白嶺は右手を横へ伸ばした。


 何もなかった空間へ指を閉じる。


 宿彩の柄が、その手の中へ戻った。


『だから、ここはあたしの居場所ではない』


 刃を抜く。


 夕暮れを横切るように、白い剣閃が走った。


 庭も、縁側も、成長した彩華も、音を立てずに裂けていく。


 白嶺は最後まで、彩華の顔を見ていた。


 偽物だと分かっている。


 それでも、その笑顔を斬ることには痛みがあった。


 景色が橙色の欠片となって崩れた。


          ◇


 白嶺は夜の公園へ戻った。


 現実では、ほとんど時間が経っていない。


 宿彩も抜いたままだ。


 少女は白嶺の正面に立ち、驚いた顔をしている。


「どうして、戻ってきたの?」


『明日は保育園だから』


「ほいくえん?」


『あなたには分からないでしょうね』


 白嶺は一歩踏み込んだ。


 少女の身体が夕暮れの光へ変わる。


 人の心へ入り込むために、自らを光へ同化させた。


 刃では斬れない。


 少女はそう考えている。


 白嶺には、光の中を通る一本の繋がりが見えていた。


 ベンチの女性の胸から、少女へ伸びている橙色の糸。


 奪う側と、奪われる側を結ぶもの。


 白嶺は宿彩を振り下ろした。


 狙ったのは少女ではない。


 女性の胸から伸びる糸だった。


 橙色の光が断たれる。


「――あ」


 女性の身体が傾いた。


 同時に、少女が光の姿を保てなくなる。


 可憐な顔の背後から、本性が露わになった。


 夕日を固めたような巨大な輪郭。


 胸には空洞があり、奪った光が渦を巻いている。


 少女は逃げようとする。


 白嶺はすでに、その前へ立っていた。


『眠るなら、自分の中だけにして』


 宿彩を下段へ構える。


【虹結封彩流 花無垢】


 踏み込みと斬撃が、一つに重なった。


 白い刃が少女の身体を斜めに通り抜ける。


 音はなかった。


 傷口さえ残らない。


 一拍遅れて、胸の空洞から白い花が咲いた。


 幾重もの花弁が橙色の光を包み、閉じていく。


「わたしは、休ませてあげただけ」


『そう』


「あなたも、休みたかったでしょう?」


 白嶺は否定しなかった。


『少しだけね』


 白い花が閉じた。


 少女の姿が橙色の光へ変わる。


 人々から奪った希望と活力を抱えたまま、光は宿彩の刃へ吸い込まれていった。


 アケバミの赤。


 ダツヨウの橙。


 二つ目の色が、宿彩へ封じられる。


 白嶺の胸へ、温かなものが流れ込んだ。


 力を抜いていい。


 もう戦わなくていい。


 彩華のもとへ帰ることさえ、明日にしてしまえばいい。


 そんな穏やかな諦めだった。


 痛くはない。


 苦しくもない。


 むしろ、心地よかった。


 白嶺は宿彩を鞘へ納める。


『だから質が悪いのよ』


 戦闘の姿が解け、伸びていた髪が元へ戻る。


 ベンチへ座っていた女性が、ゆっくりと目を開けた。


「……お母さん?」


 目の前にあるのは、夜の公園だった。


 幸福な夕暮れは消えている。


 女性の目から涙が落ちた。


「会いたかった……」


 白嶺は何も言わなかった。


 失った人には会えない。


 痛みから逃げても、現実は変わらない。


 それを他人が簡単に受け入れろとは言えなかった。


『立てますか』


 女性は涙を拭い、何度か頷いた。


「はい……たぶん」


『家へ帰ってください』


「あなたは?」


『子供が待っているので』


 白嶺はコートを羽織り、公園を出た。


          ◇


 階段を上がり、自宅の鍵を開ける。


 泣き声は聞こえない。


 白嶺は靴を脱ぎ、寝室へ向かった。


 彩華は眠っていた。


 置いていったときと同じ姿で、小さな胸が規則正しく上下している。


 白嶺はベビーベッドの前へ座った。


 間に合った。


 今夜は一人で泣かせずに済んだ。


 それだけで身体から力が抜ける。


 ダツヨウから流れ込んだ安らぎが、その隙間へ入り込んだ。


 床へ横になればいい。


 着物も脱がなくていい。


 宿彩も明日片づければいい。


 何もせず、目を閉じればいい。


 白嶺は壁へ手をつき、立ち上がった。


『先に着替える』


 声に出して、自分へ命じる。


 宿彩を置き、黒い着物を脱ぐ。


 化粧を落とし、明日の保育園の準備をする。


 哺乳瓶を洗い、乾かしてあった彩華の衣類を畳んだ。


 すべてを終えてから、ベビーベッドの横へ戻る。


 赤い渇望が、もっと求めろと騒いでいる。


 橙の安らぎが、もう何もしなくていいと囁いている。


 正反対の感情が、白嶺の内側で同時に息づいていた。


 それでも、どちらも白嶺ではない。


『おやすみ、彩華』


 眠る娘へ告げる。


 白嶺は布団へ入った。


 明日も会社へ行く。


 彩華を保育園へ送る。


 いつもと同じ顔で、いつもと同じ仕事をする。


 今夜、何があったのか。


 どんな感情が身体へ入ったのか。


 誰にも悟らせない。


 目を閉じると、幸福な夕暮れが浮かんだ。


 成長した彩華が、庭の向こうから手を振っている。


 白嶺はその幻へ背を向けた。


 本物の彩華の寝息を聞きながら、静かに眠りへ落ちていった。

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