5話「届かない背中」
午前十時から始まる取引先との打ち合わせを前に、営業企画部は普段より慌ただしかった。
会議室へ運ぶ資料。
商品見本。
壁へ設置する販促用のパネル。
白嶺は自分の席から進行状況を確認しながら、届いたメールへ順番に目を通していた。
誰が何を担当し、どこまで準備を終えているのか。すべて把握している。
自分が動かなければならない場所と、部下へ任せるべき場所も分けていた。
「加藤さん」
美咲が資料を持ってきた。
「本日の配布資料です。人数分、用意できました」
『ありがとう。そこへ置いて』
「はい」
机へ置かれた資料を、白嶺は一部だけ手に取った。
表紙をめくり、数字へ目を通す。
二頁目。
三頁目。
白嶺の指が止まった。
『佐藤さん』
「はい」
『この回答率は?』
「事前アンケートの結果です」
『対象者は二千人だったわね』
「はい。回答があった千二百八十六人を対象に――」
美咲の声が途切れた。
白嶺が示している箇所を見て、顔から血の気が引いていく。
「……回答率の計算に、回答者数をもう一度掛けています」
『そうね』
「すみません」
美咲はすぐに資料を手に取った。
「刷り直します」
『待って』
白嶺は残りの頁を確認する。
誤っている数値が使用されているのは、二頁だけだった。ただし、その数字を基にしたグラフも差し替える必要がある。
打ち合わせ開始まで、残り三十五分。
『元のデータは残っている?』
「はい」
『正しい数値へ直して、グラフも作り直して。印刷は総務へ頼まず、自分で行って』
「間に合わせます」
『急ぐことと、確認を省くことは違うわ』
「……はい」
『修正したら、印刷する前にあたしへ見せて』
美咲は資料を抱え、自分の席へ戻った。
パソコンへ向かう手が震えている。
その横を通った玲奈が、誤った数値の載った資料を一瞥した。
「本番前に見つけてもらえてよかったわね」
「……うん」
「加藤主任が全部確認してくれるなら、作る方は安心でしょうけど」
美咲は何も返さなかった。
玲奈も足を止めず、自分の仕事へ戻った。
白嶺は二人の会話を聞いていたが、口を挟まない。
今、美咲に必要なのは慰めではない。
自分で間違いを直し、時間内に資料を完成させることだった。
◇
打ち合わせ開始の十五分前。
美咲が修正した資料を持ってきた。
「確認をお願いします」
呼吸が少し乱れている。
それでも、資料を持つ手はもう震えていなかった。
白嶺は数字とグラフを確認する。
『問題ないわ』
美咲の肩から力が抜けた。
「すぐに印刷します」
『佐藤さん』
「はい」
『今日、この頁の説明はあなたがして』
美咲が目を見開く。
「私がですか?」
『数字を作り直したのは、佐藤さんでしょう』
「でも、間違えたのも私です」
『だから、自分の口で正しい内容を説明するの』
「……できるでしょうか」
『できないと思うなら、説明できるところまで確認して』
白嶺は修正された資料を返した。
『失敗した人間から、やり直す機会まで取り上げるつもりはないわ』
美咲は資料を受け取った。
「分かりました」
『声が小さい』
「分かりました」
『それでいい』
美咲は頭を下げ、印刷へ向かった。
白嶺は次に、自分が説明する箇所を確認する。
胸の奥に残る赤が、もっと厳しく責めろと囁いていた。
失敗を許すな。
弱い者を切り捨てろ。
すべて自分で行えばいい。
白嶺は、その声を聞かなかったことにした。
部下の間違いを見つけることはできる。
代わりにすべてを行うこともできる。
しかし、それでは次も白嶺が確認しなければならない。
主任の仕事は、部下の仕事を奪うことではなかった。
◇
会議室へ向かう途中、廊下の角で大きな販促用パネルを抱えた男性社員と擦れ違った。
パネルの幅が広く、前がほとんど見えていない。
「すみません、通ります」
営業部の鈴木陽太だった。
白嶺は壁際へ寄る。
『それ、一人で運んでいるの?』
「軽いので大丈夫です。見た目ほど重くないですよ」
言いながら曲がろうとして、パネルの端が壁へ近づいた。
『右』
「え?」
『そちらではなく、あなたの右』
陽太が慌てて向きを変える。
パネルは壁へ当たる直前で止まった。
「危なかった……ありがとうございます」
『前が見える持ち方をした方がいいわ』
「次から気をつけます」
陽太は一度パネルを床へ下ろし、抱え直した。
今度は片側から顔が見えている。
「これで大丈夫です」
『最初からそうしなさい』
「こういうの、持ってから気づくんですよね」
陽太は苦笑し、再び歩き出した。
通りかかった別部署の社員が荷物を抱えているのを見ると、自分も両手が塞がっているにもかかわらず扉を肩で押さえた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
相手が通ると、何事もなかったように会議室へ向かっていく。
白嶺はその背中を少しだけ見た。
仕事上で何度か顔を合わせているが、特別目立つ社員ではない。
ただ、人が困るより少し早く手を出す。
そういう男だった。
◇
打ち合わせは予定どおりに始まった。
白嶺が全体の企画を説明し、玲奈が集計結果を報告する。
玲奈の説明には迷いがない。
数値の意味を正確に理解し、取引先から出た質問にも過不足なく答えていた。
続いて、美咲の担当箇所へ入る。
美咲は資料を持つ手へ力を込めた。
「事前アンケートでは、回答者の六割以上が、購入後の使用場面を具体的に示した広告に興味を持つと回答しています」
最初の言葉は硬かった。
それでも、途中で止まることはない。
質問を受けると、一度だけ白嶺を見た。
白嶺は何も言わなかった。
助け舟も出さない。
美咲は資料へ目を落とし、自分で作り直した数字を確認した。
「対象者全体ではなく、回答者を母数とした数値です。対象地域には若干の偏りがあるため、別の調査結果も併記しています」
自分の言葉で答えた。
取引先の担当者が頷く。
「分かりました。では、こちらの結果を基に進めましょう」
「ありがとうございます」
美咲は頭を下げた。
白嶺は打ち合わせを最後まで進め、予定時刻の二分前に終わらせた。
◇
会議室から取引先を見送ったあと、美咲が白嶺の前へ立った。
「加藤さん」
『何?』
「ありがとうございました」
『何に対して?』
「説明する機会をくださったことです」
『機会を使ったのは佐藤さんよ』
「でも、私が間違えたとき、加藤さんが代わりに説明することもできたと思います」
『できたでしょうね』
「それでも、私に任せてくれました」
『同じ間違いをしないで』
「はい」
『なら、それでいいわ』
白嶺は資料をまとめ、会議室を出た。
美咲は少し遅れて後ろを歩いている。
営業企画部へ戻ると、玲奈が先に席へ着いていた。
美咲が自分の机へ資料を置く。
「中村さん」
「何?」
「さっきは、ありがとうございました」
「私は何もしていないけど」
「中村さんの説明を見ていたら、少し落ち着けたので」
玲奈が美咲を見る。
予想していなかった言葉だったのか、一瞬だけ返事が遅れた。
「……そう」
「私も、もっと一人で説明できるようになりたいです」
「加藤主任みたいに?」
美咲は少し迷い、それでも頷いた。
「はい」
玲奈の目が冷たくなる。
「簡単に言うのね」
「簡単だとは思っていません」
「そうでしょうね」
玲奈は視線を画面へ戻した。
「憧れているだけなら、失敗しても気楽でいられるもの」
美咲の表情が曇る。
玲奈はそれ以上何も言わなかった。
その指は画面を操作しているが、先ほどから同じ場所を何度も選択している。
白嶺は自分の席から二人を見た。
玲奈が美咲を嫌っているわけではない。
美咲が自分へ向ける憧れを、玲奈は嫌っている。
理由までは分からない。
白嶺は二人の感情へ踏み込みすぎるつもりはなかった。
ただし、仕事へ影響が出るなら話は別だった。
『佐藤さん』
「はい」
『今日の議事録をお願い。説明した内容も含めて、明日の午前中までに』
「分かりました」
『中村さん』
「はい」
『次回の集計項目について相談したい。十分後に時間をもらえる?』
「承知しました」
白嶺は二人へ、それぞれの仕事を渡した。
美咲を慰める言葉も、玲奈を責める言葉も使わない。
職場では、まず仕事をさせる。
感情に流されないその態度もまた、美咲の憧れと玲奈の苛立ちを、同時に深めていた。
◇
退勤後、白嶺は保育園へ向かった。
空は鮮やかな橙色に染まっている。
道路も建物も、帰宅する人々の横顔も、同じ温かな光に包まれていた。
彩華を迎え、保育園を出る。
「今日は積み木をずっと触っていましたよ」
『気に入ったんですね』
「片づけようとすると、少し怒っていました」
保育士の言葉に、白嶺は彩華を見る。
『誰に似たのかしら』
「あぅ」
『あたしではないわね』
彩華を抱き、夕暮れの道を歩く。
公園の前を通りかかったとき、一人の女性がベンチへ座っているのが見えた。
まだ若い。
仕事帰りなのか、膝の上には鞄が置かれている。
女性は橙色の空を見上げ、幸福そうに笑っていた。
それだけなら、何もおかしくはない。
白嶺は通り過ぎようとした。
「きれい……」
女性が呟く。
「今日も、あの日と同じ」
その瞳に、空は映っていなかった。
焦点が合っていない。
両肩から力が抜け、座っているというより、辛うじて身体をベンチへ預けている。
隣には、少女が立っていた。
橙色の髪。
淡い色のワンピース。
夕日に溶けてしまいそうな、可憐な姿だった。
少女が女性の肩へ触れている。
指先から橙色の光が入り込み、代わりに女性の胸から淡い光が吸い上げられていた。
希望。
活力。
明日を迎えようとする心。
奪われているのは、そうした温かなものだった。
公園を歩く人間は、誰も少女を気に留めていない。
見えていないのだ。
少女が顔を上げた。
白嶺と目が合う。
柔らかな笑顔が浮かんだ。
「お姉さんも、夕日を見ていかない?」
声を聞いた瞬間、白嶺の意識に、懐かしい夕暮れが広がった。
どこかの縁側。
隣に座る誰か。
もう頑張らなくてもいいと、優しく頭を撫でられている。
胸の奥から力が抜けていく。
このまま立ち止まれば、どれほど楽だろう。
何も考えず、温かな記憶へ沈めばいい。
腕の中で、彩華が身じろぎした。
白嶺の意識が現実へ戻る。
少女は変わらず笑っている。
『遠慮するわ』
「どうして?」
『これから夕食を作らないといけないの』
「そんなこと、しなくていいよ」
『そういうわけにはいかないのよ』
白嶺は、ベンチの女性を見た。
顔には穏やかな笑みがある。
それでも、その身体から生きるための光が失われ続けている。
赤とは違う。
脅しも、痛みもない。
幸福な記憶を見せながら、人の心へ入り込む。
拒む理由まで奪っていく。
これもまた、色霊だった。
「一緒に見よう?」
少女が手を差し出す。
白嶺は彩華を抱き直した。
『今日は帰るわ』
「また来てくれる?」
『ええ』
白嶺は少女を真っ直ぐ見た。
『次は、少し話をしましょう』
少女は嬉しそうに笑った。
白嶺は公園を離れる。
追ってくる気配はない。
腕の中には彩華がいる。
宿彩も、黒い着物も家に置いてきた。
今ここで戦う理由はなかった。
空を覆う橙が、少しずつ濃くなっていく。
白嶺は急いで帰らなかった。
いつもと同じ速さで、彩華を家へ連れて帰る。
夕食を食べさせる。
風呂へ入れる。
眠るまで傍にいる。
そのあとで、もう一度あの公園へ行く。
今夜もまた、彩華を一人にして。
その選択を思うだけで、胸の奥が重くなる。
けれど、ベンチに残してきた女性の光は、今も奪われ続けている。
白嶺は振り返らなかった。
温かな夕暮れの中で、少女の笑い声だけが、いつまでも耳に残っていた。




