4話「何もない夜」
昼休みを終え、白嶺が会社の一階を通りかかったとき、掲示板の前に数人の社員が集まっていた。
貼られているのは、来年度の採用活動に使用する社内広告だった。
会議室で話す社員。
顧客へ資料を渡す営業担当。
複数の写真の中央に、部下へ企画書を示す白嶺の姿が使われている。
『聞いていないわ』
背後にいた総務部の社員が肩を揺らした。
「加藤さん。お疲れさまです」
『お疲れさま。これは?』
「採用案内の試作です。営業企画部からは加藤さんを載せたいと伺っていますが」
『誰に?』
「部長にです」
『そう』
上司の判断なら、白嶺がここで断る理由はない。
掲載されている写真を改めて見る。
白い髪は後ろで一つにまとめられ、横顔にも隙はない。自分で見ても、よくできた主任に見えた。
少なくとも、今朝まで宿彩の上へ洗濯物を干していた人間には見えない。
「こちらの写真で問題ありませんか?」
『業務上必要なら』
「ありがとうございます。加藤さんは目を引きますから、採用案内も華やかになりますね」
総務部の社員に悪意はなかった。
白嶺は自分の髪へ指先で触れる。
『白髪でも?』
「加藤さんの髪は、もう社内では誰も気にしていませんよ」
『そうね』
そのとおりだった。
今の会社を選んだ理由は、待遇でも規模でもなかった。
何年も前の採用面接。
白嶺が部屋へ入ると、面接官は最初に白髪を見た。
「その髪は染めていますか」
『いいえ。生まれつきです』
「黒く染めることはできますか」
それまでに受けた会社では、何度かそう聞かれた。
染めなければ採用できないと告げた会社もある。営業職には相応しくないと、面接の途中で遠回しに断られたこともあった。
白嶺自身、自分の髪を好いていたわけではない。
白は、虹結家において、器としての強い素質を示すものだった。
自分の意思とは関係なく与えられた色。
だが、家を捨てたあとまで、他人の都合で塗り替える気にもなれなかった。
今の会社の面接官だけは、白嶺の答えに頷いた。
「そうですか。では、次の質問です」
それだけだった。
白髪を褒めもしなければ、理由を詳しく聞きもしない。仕事と関係のないこととして、話を先へ進めた。
白嶺がこの会社を選んだ理由は、それだけだった。
随分と長く勤め、主任になった今も、その判断が間違っていたとは思っていない。
「加藤さん?」
呼ばれ、白嶺は掲示板から目を離した。
『ごめんなさい。写真はこれで構わないわ』
「承知しました」
『ただ、ここに写っている資料は差し替えて。試作段階の企画名が読める』
総務部の社員が写真へ顔を近づけた。
「あ、本当ですね。申し訳ありません」
『社外へ出す前でよかったわ。修正をお願い』
「はい。すぐに対応します」
白嶺は掲示板を離れた。
営業企画部へ戻ると、美咲が一人で資料を広げていた。
昨日指摘した企画書へ添える、調査資料を探しているらしい。
白嶺は声をかけず、自分の席へ向かった。
すぐに答えを教えることだけが、部下を育てる方法ではない。
席へ着いて数分後、美咲が資料を持ってきた。
「加藤さん。こちらの調査結果を使おうと思うのですが、確認していただけますか?」
『選んだ理由は?』
「対象になっている年齢層が、今回の商品と近いこと。それから、調査時期が新しいので、現在の傾向と大きく離れていないと思いました」
『調査人数は?』
「二千人です」
『地域の偏りは?』
「全国を対象にしています。ただ、都市部の回答が少し多いです」
『そこまで確認しているなら、使っていいわ。偏りについては注釈をつけて』
「はい」
美咲は嬉しそうに頷いた。
少し離れた席で、玲奈が書類を揃えている。
こちらを見てはいない。
白嶺は美咲へ資料を返した。
『提出は今日でなくていい。最後まで自分で確かめてから持ってきて』
「分かりました。ありがとうございます」
美咲が自分の席へ戻る。
玲奈は何も言わなかった。
ただ、美咲が抱えている資料へ一度だけ視線を向け、すぐに手元へ戻した。
◇
白嶺は定時に仕事を終え、保育園へ彩華を迎えに行った。
帰りに食料品店へ寄る。
籠へ野菜と豆腐を入れ、安売りされていた鶏肉の前で足を止めた。
『昨日も鶏だったわね』
「あぅ」
『あなたは食べていないから関係ないけれど』
彩華は抱かれたまま、隣に積まれたトマトへ手を伸ばした。
白嶺は身体を少し離す。
『売り物に触らない』
「あー」
『抗議は帰ってから聞くわ』
赤いトマトから目を離す。
胸の奥に残る渇きが、昨日よりも小さく脈打った。
鮮やかな赤を見ると、まだ意識が引かれる。
色そのものではない。
赤の中にある熱を欲しがっている。
白嶺はトマトを二つ籠へ入れた。
避け続けるつもりはなかった。
色を見るたびに怯えていては、日常生活など送れない。
◇
アパートへ戻る。
彩華を床へ座らせ、周囲へ玩具を置く。
白嶺は寝室から、脱いだままにしていた黒い着物を持ってきた。
袖口に赤い光の跡が残っている。
血ではない。
アケバミを斬った際に散った色が、生地へ付着したものだった。
『洗濯機に入れても大丈夫かしら』
返事はない。
床に置かれた宿彩へ目を向ける。
『あなたに聞いているのだけれど』
当然、宿彩は答えなかった。
『役に立たないわね』
「あぅ」
『彩華は分かってくれる?』
彩華は黄色い布の玩具を振り回している。
『聞いた相手を間違えたわ』
白嶺は着物の洗濯表示を探した。
内側に小さな札が縫い付けられている。
水洗い不可。
『……見なかったことにしましょう』
着物を畳み、籠の中へ入れた。
この黒着物は、虹結家から持ち出したものではない。
三年前、駅前のリサイクルショップで購入した中古品だった。
三千九百八十円。
値札には「舞台衣装・傷あり」と書かれていた。
虹結家の装束に未練はなかったが、色霊の前に立つなら着物の方が格好がつく。そう考えて選んだ。
実用性ではなく、雰囲気である。
帰宅してから洗濯表示を見て、少し後悔した。
それでも三年使い続けている。
生地の傷んだ部分は自分で縫い、色霊の痕跡が残れば手で落とした。
三千九百八十円分は、すでに働いてもらっている。
白嶺は袖についた赤い跡を濡らした布で叩いた。
一度では消えない。
二度、三度と繰り返す。
床に座っていた彩華が、宿彩の鞘へ手を伸ばした。
『それは駄目』
白嶺はすぐに刀を取り上げた。
刃は鞘に収まっている。それでも、彩華の近くへ置いてよいものではない。
宿彩を持ち、周囲を見回す。
壁へ立てかければ、倒れる可能性がある。
床へ寝かせれば、彩華が触る。
少し考えたあと、白嶺は二脚の椅子を離して置いた。
その背へ宿彩を渡す。
長い鞘が、二つの椅子の間に収まった。
ちょうどよい高さだった。
白嶺は洗濯籠から彩華のタオルを取り出し、宿彩の上へ掛ける。
『やはり、これが一番ね』
色霊を封じる長刀は、再び物干しになった。
◇
夕食を作る。
彩華には野菜を細かく潰した粥。白嶺は買ってきた鶏肉とトマトを使うことにした。
包丁でトマトを切る。
刃を入れた瞬間、鮮やかな赤が広がった。
瑞々しい果肉。
まな板へ流れる汁。
胸の奥の渇きが、強く反応する。
もっと深く。
もっと赤いものを。
白嶺の手が止まった。
包丁を握る力が、わずかに強くなっている。
「あー」
背後から彩華の声がした。
白嶺は振り返る。
彩華は玩具を口へ入れようとしていた。
『それは食べ物ではない』
包丁を置き、彩華の手から玩具を取り上げる。
代わりに別の玩具を渡すと、彩華は不満そうに唇を尖らせた。
『同じ形でしょう』
「うー」
『色が違う?』
「あぅ」
『随分と細かいのね』
白嶺は台所へ戻り、切りかけのトマトを見る。
ただの食べ物だった。
そこに命の赤を重ねようとするのは、白嶺ではない。
『あなたではない』
胸の内側に残るものへ告げる。
『あたしでもない』
包丁を持ち直し、残りのトマトを切った。
一つずつ、同じ大きさに。
手元が狂うことはなかった。
◇
食事を終え、彩華を風呂へ入れた。
湯船の中で、彩華が赤い魚の玩具を握っている。
白嶺はその色を見た。
胸の奥は、もう騒がなかった。
『それは食べないでね』
彩華が魚の尾を口へ入れた。
『言った直後でしょう』
「あぅ」
『悪いと思っていない顔ね』
魚を取り上げる。
彩華は笑いながら白嶺の胸元へ手を伸ばした。
風呂から上げ、身体を拭き、寝間着を着せる。
ミルクを飲ませると、彩華は昨夜とは違い、白嶺の腕の中ですぐに眠った。
白嶺はベビーベッドへ寝かせる。
しばらく寝顔を見つめてから、窓の外へ目を向けた。
色霊の気配はない。
街の赤も、それ以上失われてはいない。
今夜は、何も起きない。
戦いに出る必要もない。
彩華を一人にする必要もない。
白嶺はベビーベッドの横へ座り、背中を壁へ預けた。
会社では背筋を伸ばし続けていた身体から、一気に力が抜ける。
『……疲れたわ』
誰にも聞かせなかった言葉が、部屋へ落ちた。
彩華は眠っている。
宿彩には洗ったタオルが掛けられている。
黒い着物の赤い汚れは、まだ完全には落ちていない。
冷蔵庫には、明日の離乳食に使う野菜が入っている。
特別なものは何もない。
白嶺が守りたかったのは、こういう夜だった。
静かで、散らかっていて、誰にも褒められない夜。
明日も同じ朝が来る。
彩華に髪を引かれ、保育園へ送り、会社では加藤主任として働く。
それでよかった。
胸の奥には、赤が残っている。
宿彩の中にも、斬った色が眠っている。
それでも今夜だけは、どちらも白嶺を急かさなかった。
白嶺は目を閉じた。
何も起きない夜が、静かに更けていった。




