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3話「いつもの顔」

アパートの階段を上りきる前に、彩華の泣き声が聞こえた。


 白嶺は最後の数段を駆け上がる。


 鞄から鍵を取り出す指が、思うように動かない。胸の奥で暴れる赤が、焦りを余計に膨らませていた。


 鍵穴へ差し込む。


 一度、外れた。


『落ち着きなさい』


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 二度目で鍵が回る。


 白嶺は扉を開け、靴を脱ぐことも忘れて部屋へ入った。


 暗い寝室で、彩華が泣いている。


 ベビーベッドの柵を両手で掴み、身体を起こそうとしていた。頬は涙で濡れ、息を詰まらせるように母親を求めている。


『彩華』


 宿彩を床へ置き、抱き上げる。


 小さな身体が白嶺の胸元へしがみついた。


「うぁ……あぁ……」


『ごめん。遅くなったわ』


 彩華は泣きやまない。


 白嶺の髪を掴み、黒い着物に顔を押しつけるような仕草を繰り返している。


『ここにいる。もう大丈夫よ』


 背中へ手を添え、一定の速さで叩く。


 それでも泣き声はしばらく続いた。


 おむつが濡れている。


 喉も渇いているのだろう。


 白嶺は黒い着物のまま、彩華のおむつを替えた。ミルクを作り、温度を確かめる。


 その間も彩華は泣き、白嶺の姿が離れるたびに両手を伸ばした。


 哺乳瓶を口元へ運ぶと、彩華は縋りつくように飲み始めた。


 白嶺は椅子へ座り、娘を抱いたまま時計を見る。


 部屋を出てから、一時間と二十七分。


 戦っていた時間は長くない。


 色霊を見つけるまでと、帰ってくるまでに時間がかかった。


 彩華にとって、一時間と二十七分がどれほど長かったのか。白嶺には分からない。


 分からないことが、余計に苦しかった。


『……一人で、怖かったわね』


 彩華はミルクを飲みながら、白嶺の指を握っている。


 謝って済むことではない。


 それでも、ほかに何が言えるのか分からなかった。


 白嶺の視線が、床へ置いた宿彩へ向かう。


 鞘の奥には、アケバミが集めた赤が封じられている。


 街から色を奪うものを放置することはできなかった。


 もし見逃していれば、被害は増えていただろう。


 あの女性も助からなかったかもしれない。


 自分の選択は間違っていない。


 そう考えるたび、腕の中の彩華が答えを否定しているように思えた。


 彩華を守るために色霊を斬った。


 そのために、彩華を一人で泣かせた。


 どちらも事実だった。


 哺乳瓶が空になる。


 白嶺は彩華を肩へ預け、背中を優しく叩いた。


 小さな身体から息が漏れる。


『いい音ね』


「あぅ……」


『褒められた顔ではないわよ』


 涙の残る目が白嶺を見つめている。


 やがて彩華は母親の胸元へ頬をつけ、目を閉じた。


 白嶺は立ち上がらなかった。


 寝かせれば、また目を覚ますかもしれない。


 何より、今は腕から離したくなかった。


 室内には、時計の針が進む音だけが残る。


 乾いた喉が、ひどく水を欲していた。


 だが、胸の奥の渇きは、水を飲んで満たされるものではない。


 彩華の頬には、泣いたあとの赤みが残っている。


 小さな唇にも、確かな色がある。


 白嶺の視線が、その赤へ引き寄せられた。


 温かい。


 生きている。


 触れれば、もっと近くで感じられる。


 白嶺は無意識に、彩華の頬へ指を伸ばした。


 指先が触れる直前で止まる。


『……これは、あたしのものではない』


 アケバミの渇望へ言い聞かせる。


 彩華から奪ってよいものなど、一つもない。


 白嶺は伸ばした指を曲げ、その手で彩華の背中を包んだ。


 宿彩へ封じたはずの色は、刃の中だけには留まらない。


 斬った白嶺を通り道にして、その一部が心へ入り込む。


 かつて十二の色をすべて宿していた身体が、失われたものを自分の一部だと勘違いする。


 胸の奥で、赤が脈を打っている。


 白嶺はそれを消そうとはしなかった。


 消すことはできない。


 ただ、自分の感情と混ざらない場所へ押し込める。


『あなたではない』


 赤へ告げる。


『あたしでもない』


 何度か繰り返すうちに、渇きは少しずつ遠のいた。


 腕の中で彩華が寝息を立てている。


 白嶺は夜が明けるまで、娘を抱いたままでいた。


          ◇


 午前六時。


 白嶺は彩華をベビーベッドへ寝かせた。


 ほとんど眠っていない。


 それでも朝は来る。


 彩華の離乳食を用意し、保育園の連絡帳を書く。昨夜泣いていたことは記したが、その原因までは書けなかった。


 母親が夜中に一人で置いていったため。


 そんなことを書けるはずもない。


 彩華が目を覚ます前に、自分も支度を整える。


 鏡の中には、目の下へ薄い影を残した女がいた。


 白嶺は化粧でそれを消した。


 乱れていた髪を梳き、一本にまとめる。ブラウスの襟を整え、ジャケットを羽織った。


 最後に口紅を引く。


 白嶺の唇へ、鮮やかな赤が加わった。


 胸の奥で何かが喜ぶ。


『黙って』


 鏡へ向かって言った。


 寝室から、彩華の声が聞こえる。


 白嶺は鏡の前を離れた。


          ◇


 彩華を保育園へ預け、白嶺はいつもと同じ時刻に出勤した。


「おはようございます」


『おはようございます』


 営業企画部へ入る。


 足取りに乱れはない。


 表情にも、声にも、昨夜の名残は残していなかった。


 席に着く前に進行表を確認し、予定されている会議と提出物を整理する。


 始業後、藤原悠人が取引先へ提出する資料を持ってきた。


「加藤さん、確認をお願いします」


『置いておいて。十分後に返すわ』


「分かりました」


 白嶺は資料を開く。


 売上予測、販促費、実施店舗数。数字を順に照合する。


 赤い修正印が、紙面の上で妙に鮮やかに見えた。


 目を奪われそうになる。


 それでも、指は止まらない。


 計算のずれを一か所見つけ、該当箇所へ印をつける。それ以外に問題がないことを確認し、宣言したとおり十分後に悠人へ返した。


『三頁目の予測値だけ、実施店舗数を修正する前の数字になっている。そこを直せば提出していいわ』


「ありがとうございます」


『先方には十一時までに送って』


「承知しました」


 悠人は資料を受け取り、自分の席へ戻った。


 白嶺が一睡もしていないことには気づかない。


 気づかせなかった。


 午前の業務が一段落した頃、美咲が修正した企画書を持ってきた。


「加藤さん。昨日の企画書、直してみました」


『見せて』


 白嶺は受け取り、その場で目を通した。


 前回まで不足していた、商品を購入したあとの生活が加えられている。使用する時間帯や場所も想定され、広告の見せ方にも一貫性が生まれていた。


『よくなったわ』


「本当ですか?」


『昨日伝えた意味を理解できている。特にこの使用場面は分かりやすい』


 美咲の顔が明るくなる。


「ありがとうございます」


『ただ、この数字には根拠が足りない。調査資料を一つ添えて』


「はい。すぐに探します」


『急がなくていい。確かなものを使って』


「分かりました」


 美咲は頭を下げ、企画書を抱えて離れていった。


 資料棚へ向かう途中、玲奈の席の前を通る。


「また褒めてもらえたの?」


 玲奈は白嶺の方を見なかった。


「褒めてもらえたというか、前よりよくなったと言っていただいて……」


「同じことでしょう」


「中村さんも、加藤さんに見ていただいたら――」


「必要ない」


 短い返事だった。


 美咲が口を閉じる。


 玲奈は画面へ文字を入力しながら続けた。


「私は、自分の仕事をするたびに加藤主任の顔色を窺うつもりはないから」


「顔色を窺っているわけでは……」


「なら、いちいち嬉しそうに報告しなくていいんじゃない?」


「……すみません」


 美咲は俯き、資料棚へ向かった。


 玲奈の指が止まる。


 ほんの一瞬だけ、白嶺の席へ視線を向けた。


 白嶺は別の資料を確認している。


 玲奈と美咲の会話が聞こえていないわけではなかった。


 しかし、今の言葉だけを切り取って玲奈を注意しても、二人の関係は変わらない。


 必要なのは、美咲が自分の仕事に自信を持つこと。


 そして玲奈が、他人の評価ではなく自分の仕事と向き合うことだった。


 白嶺は午後の打ち合わせに、二人を同席させることにした。


          ◇


 打ち合わせの進行は、すべて予定どおりだった。


 玲奈が作成した集計資料に間違いはない。


 質問に対する回答も簡潔で、必要な数字をすぐに示した。


 美咲は議事録を取りながら、話題に出た販促方法について自分の意見を一度だけ口にした。


 まだ言葉には迷いがある。


 それでも、内容は的確だった。


 会議が終わったあと、白嶺は二人を呼び止めた。


『中村さん』


「はい」


『集計は分かりやすかった。質問への回答も問題ないわ』


「ありがとうございます」


 玲奈は表情を変えずに答えた。


『次回も同じ形式でお願い』


「承知しました」


『佐藤さん』


「はい」


『最後に出した意見は、次の企画書にも使える。忘れないうちにまとめておいて』


「分かりました」


 白嶺はそれだけを伝え、会議室を出た。


 玲奈と美咲を比べる言葉は使わない。


 どちらか一方を特別扱いもしない。


 白嶺にとっては当然のことだった。


 廊下を歩きながら、胸の奥で赤が騒いだ。


 もっと見ろ。


 もっと認めさせろ。


 誰よりも優れていると、言葉にさせろ。


 白嶺は歩調を変えなかった。


 擦れ違った社員に会釈を返し、そのまま営業企画部へ戻る。


 席に着き、次の仕事を始めた。


 誰にも悟らせない。


 色霊の感情に揺らされていることも。


 昨夜、娘を一人にしたことも。


 夜が明けるまで眠れなかったことも。


 会社にいる間、白嶺は加藤主任であり続けた。


          ◇


 退勤後、保育園へ彩華を迎えに行った。


 白嶺を見つけた彩華は、保育士の腕の中で両手を伸ばした。


「今日は少し眠そうでしたけど、機嫌はよかったですよ」


『ありがとうございます』


 白嶺は彩華を受け取った。


 娘の身体が腕へ収まる。


 昨夜と同じ重さ。


 同じ温もり。


 それを確かめるように、ほんの少しだけ強く抱いた。


「あぅ」


『苦しかった?』


 彩華は白嶺の白髪を掴んだ。


『痛い。苦情なら、もう少し穏やかに伝えて』


 保育園を出る。


 夕暮れの街には、まだ赤が残っていた。


 昨日より薄くなった看板もある。


 色の戻りきらない商品もある。


 アケバミを斬ったからといって、奪われたすべてが元どおりになるわけではない。


 それでも、新たに赤が消えている様子はなかった。


 白嶺は彩華を抱いて歩く。


 今夜は戦わない。


 食事をさせ、風呂へ入れ、眠るまで傍にいる。


 その後も、朝まで離れない。


『今日は一緒にいられるわ』


「あー」


『昨日の分まで、とは言わないけれど』


 失われた時間を、あとから埋めることはできない。


 その事実だけは、色霊を斬るよりも重かった。


 白嶺は足を止めた。


 道路の向こうにある建物の屋上で、何かが動いたように見えた。


 人影。


 黒い衣服。


 腰の辺りから伸びる、細長い影。


 白嶺が目を凝らしたときには、もう誰もいなかった。


『……気のせい?』


 彩華が答えるように、白嶺の髪を引いた。


『あなたに聞いたあたしが悪かったわ』


 白嶺は再び歩き出す。


 建物の屋上を振り返ることはなかった。


 夕闇に沈んだその場所には、何者かが立っていた痕跡だけが、かすかに残されていた。

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