2話「赤を渇望するもの」
白嶺がアパートを出たのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。
黒い着物の上から薄手のコートを羽織り、長い宿彩は黒い刀袋へ収めている。
夜道を歩くには、あまりにも目立つ荷物だった。
前から来た会社員が刀袋を見て、わずかに道を空ける。
『楽器よ』
聞かれてもいないのに言った。
会社員は目を合わせないまま、足早に通り過ぎていった。
『信じていない顔ね』
当然だった。
白嶺は足を止めず、夜の街に残る赤を追った。
自動販売機の表示。
飲食店の看板。
道路を流れる車の尾灯。
街から完全に赤が消えたわけではない。しかし、どの赤も薄い糸を引かれ、同じ方向へ流れている。
色は住宅街を抜け、駅の裏側へ集まっていた。
古い雑居ビルの間にある、狭い路地。
入口には、色の抜けた財布が落ちている。
夕方、食料品店で見かけたものだった。
白嶺は刀袋を外し、宿彩の黒い鞘を露出させた。
路地の奥から、濡れた音が聞こえる。
水滴とは違う。
誰かが血を啜っているような音だった。
白嶺は路地へ入った。
街灯の届かない奥に、一人の女性が立っている。
食料品店に見かけた女だった。
灰色になったブラウス。
色を失った唇。
手首には、自分でつけたらしい爪痕が残っている。
女は壁に向かって立ち、両手で何かを大切そうに包んでいた。
『それ以上、集めても綺麗にはならないわよ』
女の肩が動きを止めた。
ゆっくりと振り返る。
両手の中にあったのは、一滴の赤だった。
血よりも鮮やかで、炎よりも濃い。
人間の心から抜き取った生命と感情を、色だけに変えて集めたものだ。
「見えるの?」
女が尋ねた。
その声には、二つの響きが重なっていた。
一つは怯えた人間のもの。
もう一つは、乾ききった女の声だった。
『見えているから、こんな時間に来たの』
「きれいでしょう?」
女は赤い一滴を掲げた。
「この人の中にあった赤。苦しくて、温かくて、ずっと動いていた。とてもきれい」
『持ち主は随分と顔色が悪いけれど』
「いらないものを取ってあげたの」
『本人に聞いた?』
「聞く必要があるの?」
『話が合わないわね』
女は不思議そうに首を傾げた。
その背後で、暗闇が膨らんだ。
巨大な単眼が開く。
濡れた花弁に似た口が裂け、その周囲から白い腕が次々と生えた。
女の姿は、色霊が人間を覆うための皮にすぎない。
普通の人間には、路地に立つ女性しか見えないだろう。
だが、白嶺の目には、その背後に重なる異形の本体まで見えていた。
「あなたの赤も、ほしい」
異形の単眼が白嶺を捉える。
「白いのに、中にはたくさんある」
『残念ね。非売品よ』
「ひばいひん?」
『気にしないで』
やはり通じない。
白嶺はコートを脱ぎ、近くの室外機へ掛けた。
帯から宿彩を抜き、鞘の先を地面へ向ける。
鯉口を切った瞬間、鞘の奥で刃が淡く鳴った。
白嶺の白髪が根元から揺れる。
風は吹いていない。
それでも髪は意思を持つように広がり、背中を越え、腰を越え、膝へ届くまで伸びていく。
そのすべてが虹色へ変わるわけではない。
白の中を縫うように、一部の房だけが赤、橙、黄、緑、青、藍、紫へ染まった。
白嶺は伸びた髪を手早く取り、頭の横で大きく結い上げる。
虹を含んだ髪が、黒い着物の背へ流れた。
宿彩を鞘から抜く。
一般的な刀よりも明らかに長い刀身が、暗い路地へ姿を現した。
切っ先まで抜き放っても、白嶺の身体は揺れない。
長身の彼女にとって、宿彩の長さは欠点ではなかった。
「あなた、何?」
色霊が初めて一歩退いた。
白嶺は宿彩を正眼に構える。
『加藤白嶺。営業企画部主任』
「それは、何?」
『あたしも時々分からなくなるわ』
異形の花弁が大きく開いた。
「赤をちょうだい!」
背中の無数の腕が、路地の壁を掻いた。
爪先から赤い雫が飛び散る。
雫は空中で形を変え、無数の蝶となって白嶺へ押し寄せた。
蝶それぞれの翅が、薄い刃になっている。
白嶺は動かなかった。
蝶の群れが宿彩の間合いへ入る。
その瞬間、長い刀身が横へ走った。
一閃。
正面から迫った蝶がまとめて断たれ、赤い光となって路地へ散る。
異形の腕が左右の壁を伝い、白嶺の背後へ回る。
白嶺は振り返らない。
宿彩の切っ先を下げ、身体の後ろまで刃を巡らせた。
長い刀身が背後の腕を一息に薙ぎ払う。
「どうして?」
色霊が後ずさった。
「どうして、わたしの赤を壊すの?」
『あなたのものではないからよ』
「わたしが、きれいにした!」
『盗んだものを磨いても、自慢にはならないわ』
「返して!」
『持ってきた覚えはない』
「返して!」
『少しは会話を成立させてくれない?』
色霊が叫ぶ。
斬られた蝶が再び集まり始めた。
無数の赤が渦を巻き、色霊の胸にある一滴へ戻っていく。
白嶺はその流れを見た。
散らされた赤。
伸びた腕。
人間を覆う女の姿。
そのすべてが、胸元に浮かぶ一滴へ繋がっている。
核は一つ。
『随分と分かりやすいところに置いたのね』
「触らないで」
色霊が胸を隠す。
『隠すのが遅いわ』
白嶺が踏み込んだ。
色霊は両腕を突き出す。
再生した赤い蝶が壁となり、その奥から異形の腕が幾重にも伸びた。
白嶺の姿が、赤に呑み込まれる。
次の瞬間。
七つの剣閃が、蝶の群れの中で咲いた。
上下、左右、斜め。
それぞれ異なる軌道を描きながら、すべてが一つの道を切り開く。
【虹結封彩流 蝶の七舞踊】
白嶺は止まらない。
七つ目の剣閃が消えるより早く、開いた道を駆け抜ける。
色霊の目の前へ踏み込み、宿彩を振り抜いた。
刃は人間の身体を傷つけない。
女の中に入り込んだ異形だけを捉え、その胸にある赤い一滴を斬った。
「いや」
色霊の声が震える。
「まだ、足りない」
『そうでしょうね』
胸の一滴へ亀裂が走る。
「もっと、きれいな赤を――」
『あなたは、どれだけ集めても満足しないわ』
赤い一滴が砕けた。
異形の単眼が潰れ、花弁の口が閉じていく。無数の腕も輪郭を失い、赤い光へ変わった。
光は逃げるように路地へ広がろうとした。
宿彩の刃が、低く鳴る。
散ろうとした赤が引き戻され、刀身へ吸い込まれていく。
人々から奪われた赤。
怒り。
興奮。
執着。
命を燃やす熱。
そのすべてが宿彩を通り、白嶺の中へ流れ込んだ。
喉が焼ける。
胸の奥に、耐え難い渇きが生まれる。
もっと欲しい。
もっと赤く。
目の前に倒れかけている女の身体にも、まだ赤は残っている。
白嶺の指が、宿彩の柄を強く握った。
刃を向ければ、奪える。
その血も、熱も、命も。
『……趣味が悪いわね』
白嶺は自分の内側へ呟いた。
宿彩を振り、付着していない血を払う。
色霊から流れ込んだ渇望を、胸の奥へ押し込めた。
刀を鞘へ納める。
虹色に染まっていた房が、白へ戻っていく。膝まで伸びていた髪も元の長さへ縮み、いつもの白髪になった。
異形から解放された女性が、その場へ崩れ落ちる。
白嶺は身体を支え、壁際へ座らせた。
唇には、わずかに色が戻り始めている。
手首へ触れると、脈もある。
白嶺は女性の鞄から携帯電話を取り出した。緊急通報を押し、場所と女性の状態だけを伝える。
自分の名前は告げなかった。
遠くから救急車の音が近づいてくる。
白嶺は室外機へ掛けていたコートを取り、黒い着物の上から羽織った。
路地を出ようとして、足を止める。
『赤の色霊、アケバミ』
純粋な赤を求め、どれだけ集めても渇き続けるもの。
それが、この色霊の名だった。
鞘の奥で、封じた赤が小さく蠢いた。
『聞こえているのね』
当然、返事はない。
それでも白嶺は、その蠢きを返事と受け取ることにした
白嶺は路地を離れる。
救急車と擦れ違わない道を選び、アパートへ急いだ。
彩華を一人にしてから、どれほど時間が経ったのか。
戦いに迷いはなかった。
色霊にも苦戦しなかった。
それでも、帰り道を進む白嶺の足は、次第に速くなっていく。
色霊よりも恐ろしいものが、あの部屋にある。
帰ったとき、彩華に何かが起きているかもしれない。
胸の奥では、封じたばかりの赤が、もっと速く走れと騒いでいた。




