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1話「白い朝」

午前六時十二分。


 目覚まし時計が鳴る三分前に、彩華が泣き出した。


 加藤白嶺は布団の中で目を閉じたまま、あと十秒だけ現実から逃げることにした。


「うぁ……あー」


 泣き声が一段階大きくなる。


『分かった。起きるわ』


 交渉の余地はなかった。


 白嶺が身体を起こすと、肩から長い白髪が滑り落ちた。昨夜乾かしきらずに眠ったせいで、毛先が好き勝手な方向へ跳ねている。


 片手で髪を掻き上げながら、ベビーベッドを覗き込む。


 生後十か月になる彩華は、母親の顔を見つけた途端に泣くのをやめ、両腕を伸ばした。


『嘘泣きだったの?』


「あぅ」


『否定はしないのね』


 抱き上げた途端、小さな手が白嶺の髪を掴んだ。


『痛い。彩華、それは持ち手ではないわ』


「あー」


『引っ張れば起動する仕組みでもない』


 一本ずつ指を外す。それでも彩華は諦めず、今度は白嶺の寝間着の襟を掴んだ。


 白嶺は彩華を抱いたまま台所へ向かった。


 テーブルには昨夜飲み残したコーヒーが置かれている。ソファには畳んでいない洗濯物が積まれ、床には片方だけの靴下が落ちていた。


 白嶺はコーヒーカップへ手を伸ばし、途中で止めた。


 一晩置いたものを飲んでも死にはしない。


 おそらく。


 だが、腕の中の彩華が腹を空かせている。


『あなたが先ね』


 彩華をベビーチェアへ座らせ、離乳食を用意する。


 冷蔵庫の扉には、保育園の予定表と彩華の食事量を書き留めた紙が貼られている。自分の衣類は畳まなくても、彩華に関する記録だけは一日も欠かしていなかった。


 温めた粥を混ぜ、温度を確かめてから口元へ運ぶ。


 彩華は素直に一口食べた。


『おいしい?』


「あぅ」


『それは何より』


 二口目を運ぶ。


 今度は彩華がスプーンを掴んだ。


『離して』


「うー」


『返事ではなく、手を離しなさい』


「うー」


『威嚇しても駄目よ』


 スプーンを引く。


 粥が飛び、白嶺の寝間着へ落ちた。


 彩華が嬉しそうに笑う。


『……楽しそうね』


 自分の服に付いた粥を拭き取り、何事もなかったように食事を続ける。


 彩華の着替えを済ませ、保育園の鞄を確認する。おむつ、着替え、連絡帳。忘れ物はない。


 最後に自分の支度を始めた。


 乱れていた白髪を整え、後ろで一つにまとめる。化粧を施し、皺のないブラウスと黒いスラックスに着替える。ジャケットへ袖を通し、鏡の前で襟元を直した。


 そこにいるのは、寝間着へ粥を飛ばされた女ではない。


 営業企画部主任、加藤白嶺だった。


          ◇


 午前八時四十分。


 白嶺は彩華を保育園へ預け、いつもどおりの時刻に会社へ入った。


 営業企画部のフロアでは、すでに多くの社員が仕事の準備を始めている。


「おはようございます、加藤さん」


『おはようございます』


 挨拶を返しながら、自分の席へ向かう。


 白嶺が通り過ぎると、それまで雑談していた社員たちが自然と仕事へ戻った。厳しく注意したわけではない。白嶺が勤務時間を無駄にしない人間だと、誰もが知っているだけだった。


 机の上には、昨日提出された三つの企画書が置かれている。


 白嶺は鞄をしまい、パソコンを起動した。


 始業時刻になると同時に、佐藤美咲がファイルを抱えてやって来た。


「加藤さん。昨日お渡しした企画書ですが……」


『確認したわ』


 白嶺は机の端に置いていた資料を差し出した。


 いくつかの頁に付箋が貼られている。


「もう見てくださったんですか?」


『提出されたものを確認するのも仕事でしょう』


「ありがとうございます」


 美咲は資料を開いた。


 付箋の横には、問題点だけでなく、修正する際に考えるべき要点が簡潔に記されている。


「ここまで書いていただけるとは思っていなくて……」


『答えを書いたつもりはないわ』


「はい」


『企画そのものは悪くない。ただ、商品を売ることだけを考えている。買った人がその後どう使い、何を感じるかまで想像してみて』


「その人の生活まで、ということですか?」


『そう。そこまで見えれば、この案はもっとよくなる』


 美咲は白嶺の言葉を聞き漏らすまいと、何度も頷いた。


「直して、もう一度お持ちしてもいいですか?」


『もちろん』


「ありがとうございます」


 美咲は資料を胸元に抱え、自分の席へ戻ろうとした。


 その途中、中村玲奈の机の横を通る。


 玲奈は画面から目を離さないまま口を開いた。


「佐藤さんはいいわね」


 美咲が足を止める。


「え?」


「加藤主任にそこまで見てもらえて。毎回丁寧に教えてもらえるなら、企画書を作るのも楽しそう」


 言葉だけを聞けば、羨ましがっているようにも取れる。


 しかし、美咲は返事に困っていた。


「私が、まだ一人ではきちんと作れないから……」


「そういう意味で言ったんじゃないけど」


 玲奈はそこで初めて顔を上げた。


「加藤主任に憧れているんでしょう? いつも熱心に見ているから」


「それは……尊敬しています」


「見ているだけで同じようになれるなら、苦労しないわよ」


 美咲の表情が曇る。


 白嶺は二人へ視線を向けた。


『中村さん』


「はい」


 玲奈の返事は事務的だった。


『昨日の集計表を確認したわ。九月分を参照する数式が、一か所だけ八月分のままになっている』


 玲奈の眉がわずかに動いた。


「どの項目ですか?」


『販売経路別の三列目。午前の会議までに修正をお願い』


「承知しました」


『ほかに問題はなかった。分類は分かりやすかったわ』


「ありがとうございます」


 玲奈は頭を下げ、すぐに画面へ向き直った。


 その横顔に喜びはない。


 美咲は何も言わず、自分の席へ戻った。


 白嶺もそれ以上触れなかった。


 誰に対しても、評価するべき点は評価し、直すべき点は伝える。それが主任としての仕事だった。


 玲奈の機嫌を取ることも、美咲を必要以上に庇うことも、その仕事には含まれていない。


          ◇


 午前の会議で、白嶺は新商品の販促計画を説明した。


 想定していた質問には、その場で数字を示して答える。予定より費用が増えた理由を聞かれれば、顧客層ごとの効果予測を提示した。


 声を荒らげる必要も、長く話す必要もない。


 白嶺が説明を終える頃には、出席者から出ていた懸念のほとんどが解消されていた。


「では、この内容で先方へ提案しましょう」


『承知しました』


 会議を終え、必要な指示を部下へ伝える。


 昼休みには別部署から届いた確認事項へ返信し、午後は取引先との打ち合わせを予定どおり進めた。


 白嶺の仕事には、ほとんど隙がなかった。


 容姿が目立つから評価されている。


 上司への見せ方が上手いだけだ。


 そんな声が社内にまったくないわけではない。


 だが、実際に白嶺と仕事をすれば、その多くは口を閉ざした。


 判断が早い。


 部下の失敗を人前で責めない。


 手柄を横取りしない。


 そして、自分に与えられた仕事は必ず終わらせる。


 それが加藤白嶺という主任だった。


 定時を少し過ぎたところで、白嶺は最後のメールを送信した。


 明日へ回してよい仕事と、今日中に終わらせるべき仕事は、すでに分けてある。


 パソコンの電源を落とし、席を立つ。


「加藤さん、お疲れさまでした」


『お疲れさま。佐藤さん、修正版は明日の午前中でいいわ。焦って形だけ整えないように』


「はい。お疲れさまでした」


 美咲が明るく頭を下げる。


 玲奈は画面へ向いたまま、少し遅れて言った。


「お疲れさまでした」


『お疲れさま、中村さん』


 白嶺は二人へ同じように返し、営業企画部を出た。


          ◇


 保育園へ着くと、彩華は保育士に抱かれていた。


 白嶺を見つけた途端、嬉しそうな声を上げて両腕を伸ばす。


「今日も元気でしたよ。お昼寝のあとに少し泣きましたけど、御飯は全部食べました」


『ありがとうございます』


 連絡帳と荷物を受け取り、彩華を抱く。


『帰ろうか』


「あー」


『今日は髪を引っ張らないでね』


 言い終わる前に掴まれた。


『聞く気がないのね』


 保育士が笑う。


 白嶺も小さく息を吐き、彩華の指から髪を外した。


 帰り道、夕食の材料を買うために商店街へ寄った。


 彩華を抱いたまま野菜を選び、牛乳と自分用のインスタントコーヒーを籠へ入れる。


 会計を待っていると、前に立つ女性が赤い財布を取り出した。


 鮮やかな赤だった。


 その色が、白嶺の目の前で薄くなった。


 赤から桃色へ。


 桃色から灰色へ。


 財布を持つ女性は何も気づかず、代金を支払っている。


 店内の照明が変わったわけではない。


 白嶺は周囲を見た。


 陳列棚に並んだ林檎。


 子供向け菓子の包装。


 店員のエプロンに縫い付けられた小さな印。


 赤いものだけが、わずかに色を失っている。


 何かに吸い取られているように。


「お客様?」


 店員に声をかけられ、白嶺は前を向いた。


『すみません』


 何事もなかったように会計を済ませる。


 彩華を抱き直し、店を出た。


 胸の奥に、忘れていた感覚が蘇っている。


 喉の奥が乾く。


 もっと赤く。


 もっと美しく。


 命の中にある、濁りのない赤が欲しい。


 それは白嶺の欲望ではない。


 街のどこかで、何かが渇いている。


 十か月前、彩華を産んだ瞬間に失われたもの。


 白嶺の内から解き放たれた、十二の色の一つ。


 逃げ出した色霊が、すぐに人の世で動き始めるとは限らない。

 それぞれが力を蓄え、形を得るまでに必要な時間も異なる。


『……戻ってきたのね』


 腕の中の彩華が、白嶺を見上げていた。


 白嶺は娘の頬へ触れる。


『大丈夫よ』


 何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。


          ◇


 帰宅後、白嶺は先に彩華の食事を用意した。


 朝と同じように食べさせ、風呂へ入れ、寝間着へ着替えさせる。ミルクを飲ませる頃には、彩華の瞼が何度も落ち始めていた。


『眠いなら寝なさい』


「うー」


『寝たくないの?』


「あぅ」


『難しい年頃ね』


 白嶺が背中を一定の速さで叩いていると、やがて彩華の呼吸が規則正しくなった。


 ベビーベッドへ寝かせる。


 頬へかかっていた髪を払い、小さな寝顔を見つめた。


 窓の外は、すでに暗い。


 街から赤が抜き取られている。


 今すぐ命に関わるとは限らない。今夜は気づかなかったことにして、彩華の傍にいることもできる。


 けれど、白嶺は知っていた。


 色霊は、人の心へ入り込む。


 放置すれば、色だけでは済まない。


 感情を奪い、記憶を歪め、最後には人そのものを壊す。


 そして、この部屋にいる彩華だけが、その対象から外れる理由もない。


 白嶺は眠る娘から離れた。


 部屋の隅に、二脚の椅子が並べられている。


 その間に渡された長いものには、乾ききっていない洗濯物が掛かっていた。


 一枚ずつ外していく。


 最後のタオルを取ると、黒い鞘が現れた。


 長刀、宿彩。


 十か月もの間、刀として抜かれることはなかった。


 白嶺は鞘へ手を添える。


 宿彩が、街に漂う赤へ応じるように震えた。


『できれば、このまま物干しでいてほしかったわ』


 当然、返事はない。


『あなたもそう思わない?』


 宿彩は沈黙している。


『話の合わない刀ね』


 白嶺は寝室の収納から、黒い着物を取り出した。


 リサイクルショップで買った中古品だ。裾には小さな擦れがあり、袖の裏側は自分で縫い直してある。


 値段は三千九百八十円。


 戦うために着物が必要なわけではない。


 ただ、色霊を相手にするなら、スーツよりはこちらの方が雰囲気に合う。


 それだけだった。


 着替えを終え、帯へ宿彩を差す。


 玄関へ向かう前に、もう一度だけ彩華の傍へ戻った。


 眠っている。


 この部屋には、白嶺と彩華以外、誰もいない。


 彩華を一人にすることが危険だと、白嶺にも分かっている。


 目を覚まして泣くかもしれない。


 体調を崩すかもしれない。


 白嶺が戻れなくなるかもしれない。


 それでも、連れていくことはできない。


 預けられる相手もいない。


 色霊を放置することもできない。


『……ごめんね』


 彩華は眠ったまま、小さな手を握った。


 白嶺はその手へ触れず、背を向けた。


 触れれば、出ていけなくなる。


 玄関で草履を履き、宿彩を手にする。


 扉を開ける。


 夜の街から、赤い渇きが流れ込んできた。


 白嶺は振り返らなかった。


 振り返らないまま、彩華を一人残した部屋の扉を閉めた。

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