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35話「返しなさい」

七色を宿した宿彩が、桃色の中心へ斬り込んだ。


 刃が美咲の胸元へ触れる寸前、幾重にも絡み合った糸が一斉に硬化する。


 甲高い音が響いた。


 宿彩の刃が止まる。


 桃色の糸は美咲の身体を包んだまま、巨大な繭のように膨らんでいた。


「ひどいですね」


 美咲が笑う。


「この身体ごと斬るつもりですか?」


 声は美咲のものだった。


 だが、話しているのは美咲ではない。


 白嶺は宿彩を引いた。


 刃へ絡みついた糸が、離れることを拒むように伸びてくる。


 手首を返し、斬り払った。


『佐藤さんの身体を盾にするのね』


「盾ではありません。この人は、もう私です」


『違うわ』


「何が違うのですか?」


 美咲の瞳へ、濃い桃色が満ちていく。


「この人は加藤さんを求めていました。見てほしい。必要としてほしい。一番近くにいたい。ずっと、そう願っていたんです」


 部屋中へ張り巡らされた糸が震えた。


 壁。


 天井。


 床。


 机の上に置かれたスマートフォン。


 そのすべてが、桃色の繭へ繋がっている。


「私は、その願いを叶えてあげただけです」


『あたし以外を拒ませることが?』


「必要のないものを切り捨てただけです」


『中村さんを傷つけようとしたことも?』


「加藤さん以外に、どう思われてもいいと願ったのは、この人ですよ」


 白嶺の胸の奥で、赤が熱を持った。


 自分だけを求めさせろ。


 他のすべてを捨てさせろ。


 その願いを受け入れてしまえば、美咲は白嶺だけを見る。


 紫も、それを喜んでいた。


 玲奈にも。


 誰にも。


 美咲の目を向けさせるなと囁いている。


 桃色の糸が、白嶺の足元へ伸びてきた。


 避けなかった。


 糸が足首へ巻きつく。


 温かい。


 敵意よりも、縋りつく手に近かった。


「加藤さんも、本当は嬉しいのでしょう?」


 美咲が一歩近づく。


「自分の言葉だけで喜んで、自分がいなければ不安になって、自分以外を必要としなくなる。そんな人がいれば、満たされるでしょう?」


 赤と紫が脈打つ。


 桃色の言葉に応えるように、白嶺の内側で二つの色が膨らんでいく。


 否定できない。


 美咲が自分を求めることを、白嶺は嬉しいと感じていた。


 自分の一言で表情を明るくする美咲を見て、満たされてもいた。


 玲奈へ笑顔を向けた美咲に、嫉妬した。


 それは色霊だけが作った感情ではない。


 白嶺自身の中にあったものだ。


『そうね』


 美咲の笑みが深くなる。


『嬉しいわ』


「では――」


『でも、それは佐藤さんを壊していい理由にはならない』


 白嶺は宿彩を握り直した。


『あたしを求めるために、中村さんを傷つける人ではない。仕事を投げ出す人でも、自分を見失う人でもない』


「この人の本心を、どうして加藤さんが決めるのですか?」


『決めてはいないわ。知っているのよ』


 桃色の糸が、白嶺の足首から膝へ這い上がる。


 赤が、それを受け入れようとする。


 紫が、美咲をこのまま自分だけのものにしろと囁く。


 白嶺は二つの感情を否定しなかった。


 自分の中にあるものとして認め、そのうえで宿彩を構えた。


『佐藤美咲は、どんな時も純粋で、努力家だわ。私はそんな彼女が大好きなの。今すぐ返しなさい』


 美咲の表情が止まった。


 瞳の奥で、桃色が大きく揺れる。


「……大好き?」


 声が変わった。


 モモマユの甘さへ、美咲自身の震えが混じっていた。


「加藤さんが、私を……?」


『ええ』


「嘘です」


『嘘ではないわ』


「なら、どうしてもっと見てくれなかったんですか」


 桃色の糸が激しく波打つ。


「私がどれだけ加藤さんを見ていたか、知らないでしょう。加藤さんの役に立ちたくて、認めてほしくて、ずっと頑張っていたのに。一人で任せられるようになったら、加藤さんは私から離れていく。私が頑張るほど、加藤さんがいなくなるんです」


 美咲の目から涙が落ちた。


 桃色に染まった涙が、頬へ細い線を引く。


 モモマユに隠されていた美咲の感情が、言葉となって溢れていた。


『離れるとは言っていないわ』


「一緒に来てくれなくなるって言いました」


『仕事を任せることと、あなたを見なくなることは違う』


「同じです」


『違うわ』


 白嶺は一歩踏み込んだ。


 糸が強く足を縛る。


 宿彩で斬れば、簡単に断ち切れる。


 だが、白嶺は斬らなかった。


『あなたが一人で仕事をできるようになっても、あたしはあなたを見る。できたことは褒めるし、間違えれば指摘する。助けが必要なら手を貸す』


「そんなの……」


『あなたが成長したくらいで、いなくなったりしないわ』


 美咲の唇が震える。


「本当に?」


『ええ』


「ずっと、見てくれますか?」


 問いかけたのが美咲なのか、モモマユなのか分からなかった。


 白嶺は答える。


『約束はできない』


 美咲の顔から表情が消えた。


 桃色の糸が白嶺の全身へ襲いかかる。


 宿彩が七色の軌跡を描いた。


 一閃。


 二閃。


 三閃。


 迫る糸だけを断ち、白嶺は繭の目前まで進む。


『人の気持ちは変わる。仕事も、暮らしも、この先何が起きるか分からない。ずっと同じ形でいるなんて約束はできないわ』


「なら、やはり――」


『だから佐藤さんは、自分で立たなければならない』


 宿彩の切っ先を、美咲の胸元へ向ける。


『あたしに縋りつかなければ生きられない人にするつもりはない。あたしだけを見て、他のすべてを失わせるつもりもない』


「それでは、この人の願いは叶わない!」


『願いを叶えることと、願いに呑ませることを一緒にしないで』


 桃色の繭が開いた。


 無数の糸が束ねられ、人の腕ほどの太さになる。


 左右から白嶺を押し潰そうと迫った。


 白嶺は宿彩を横へ振るう。


 七色の光が刃の上で重なり、迫る糸の束を中央から断ち切った。


 舞い散る桃色の向こうで、美咲が両腕を広げる。


「斬れるのですか?」


 胸元が無防備に晒された。


「この人を」


『斬らないわ』


 白嶺は宿彩を逆手へ持ち替えた。


 美咲の胸へ、刃ではなく柄頭を打ち込む。


「――っ」


 美咲の身体が折れる。


 その背後から、桃色の影が浮かび上がった。


 長い髪。


 薄い羽衣。


 幾重もの糸を指先から伸ばした、細身の女。


 美咲の身体と重なったまま、モモマユが白嶺を睨む。


「どうして……」


 美咲とモモマユの輪郭が、わずかにずれていた。


 先ほどまで完全に重なっていた二つの姿が、白嶺の言葉によって離れ始めている。


『佐藤さんが、あなたを拒んでいるからよ』


 宿彩を返す。


 刃が、桃色の影だけを斬り上げた。


 甲高い叫びが部屋を満たす。


 美咲の身体から、モモマユが引き剥がされた。


 桃色の糸が次々と千切れ、床へ落ちる前に光となって消えていく。


 支えを失った美咲を、白嶺が左腕で抱き留めた。


「嫌……」


 モモマユが手を伸ばす。


「この人を返して。私なら、この人の願いを全部叶えられる。寂しさも、不安も、何も感じなくていいようにしてあげられる」


『それでは、生きているとは言えないわ』


「愛されることより、大切なものなどありません」


『あるわ』


「ありません!」


『愛する相手以外を傷つけずにいられること。自分の足で立てること。相手がいない場所でも、自分として生きられること』


 白嶺は美咲を抱いたまま、宿彩をモモマユへ向けた。


『どれも、この子が失っていいものではない』


「愛を知らないくせに」


 モモマユの顔が歪む。


「あなただって、求めているでしょう。必要とされることを。自分だけを見てもらうことを。胸の中の赤と紫が、ずっと叫んでいる」


『知っているわ』


「なら、私を否定できない!」


『否定していない』


 白嶺は静かに答えた。


『あなたも、あたしの中に来なさい』


 モモマユが目を見開く。


『あなたの執着も、飢えも、全部あたしが引き受ける。その代わり、二度と佐藤さんへ触れさせない』


「やめて」


 桃色の糸が逃げ道を求め、窓へ伸びる。


 宿彩から七色の光が溢れた。


 光は輪となって部屋を巡り、すべての糸を囲い込む。


「私は、愛されたいだけなのに」


『ええ』


「誰かの一番になりたいだけなのに」


『分かっているわ』


 白嶺の声に、モモマユの抵抗が一瞬だけ弱まった。


『だから、もう休みなさい』


 宿彩が桃色の胸を貫く。


 身体を傷つける感触はなかった。


 モモマユの姿が無数の糸へ解け、宿彩の刃へ巻きついていく。


 桃色が七色の光に呑まれた。


 白嶺の胸の奥へ、新たな熱が流れ込む。


 誰かを求める思い。


 求められたいという願い。


 一人へすべてを捧げ、その代わりにすべてを欲しがる執着。


 甘く、柔らかく、息苦しい感情だった。


 白嶺の髪へ、桃色が加わった。


 赤、橙、黄、褐、緑、藍、紫。


 その七色の隣へ、新たな色が静かに沈む。


 宿彩から光が消えた。


 同時に、白嶺の変身が解ける。


 膝まで伸びていた髪が短くなり、虹色も見えなくなった。


 美咲の部屋から、すべての桃色の糸が消えていた。


「加藤……さん……」


 腕の中で、美咲が目を開く。


『佐藤さん』


「どうして、ここに……」


『覚えていないの?』


 美咲は眉を寄せた。


 途切れた記憶を探すように、部屋を見回す。


「中村先輩に連絡して……それから……」


 白嶺を見上げる。


 先ほど口にした言葉を思い出したのか、美咲の顔が赤くなった。


「私、何か変なことを言いませんでしたか?」


『言ったわね』


「何をですか?」


『今は聞かない方がいいと思う』


「そんなにひどいことを?」


『ひどいというより、普段なら絶対に言わないことよ』


 美咲は両手で顔を覆った。


「忘れてください」


『無理ね』


「お願いします」


『嫌よ』


「加藤さん……」


 美咲の声に力はなかった。


 白嶺はその身体を支え、ベッドまで連れていく。


 腰を下ろさせると、美咲が白嶺の袖を掴んだ。


『何?』


「帰るんですか?」


『あなたの状態を確認してから帰るわ』


「まだ、いてくれるんですね」


『ええ』


 美咲の指から力が抜ける。


 それでも、袖は離さなかった。


「さっき……」


『何?』


「大好きって、聞こえた気がしたんですけど」


 白嶺は黙った。


 美咲が恐る恐る顔を上げる。


「気のせいですか?」


『モモマユに聞かせるために言ったの』


「そう、ですよね」


 美咲が袖を離した。


 俯いた顔から、明らかに落胆が伝わってくる。


 胸の奥で、封じたばかりの桃色が動いた。


 期待させろ。


 もっと求めさせろ。


 自分の言葉一つで満たしてやれ。


 赤と紫まで、その感情へ重なる。


 白嶺は美咲の隣へ座った。


『でも、嘘ではないわ』


 美咲が顔を上げる。


『部下としても、一人の人間としても、あなたを大切に思っている』


「それは、大好きということですか?」


『細かいところへ食いつくわね』


「大事なところです」


 桃色から解放されたばかりだというのに、その目は真剣だった。


 白嶺は小さく息を吐く。


『ええ。そういう意味でなら、大好きよ』


 美咲の目に涙が溜まった。


『どうして泣くの?』


「嬉しくて」


『今日は感情を動かしすぎたわね』


「すみません」


『謝ることではないけれど』


 美咲は目元を拭った。


 今度は、自分から白嶺の袖を離す。


「加藤さん」


『何?』


「私、一人でも仕事をできるようになります」


『ええ』


「でも、できるようになっても、ときどき見てください」


『毎日同じ部署で働いているでしょう』


「そういう意味ではなくて……」


『分かっているわ』


 白嶺は立ち上がった。


『見ているわよ。あなたが思っているより、ずっと』


 美咲が笑う。


 モモマユに操られていたときの甘い笑みではない。


 白嶺が知っている、素直な笑顔だった。


          ◇


 美咲が眠りについたことを確認し、白嶺は部屋を出た。


 時刻は深夜を過ぎている。


 急ぐ必要はない。


 無月へ彩華を任せてある。


 それでも、封じたばかりの桃色が胸の中で落ち着かずに揺れていた。


 早く帰りたい。


 彩華の顔を見たい。


 無月がいつものように家を守っていることを確かめたい。


 白嶺は駅へ向かう足を少しだけ速めた。


          ◇


 玄関の鍵を開ける。


 室内は静かだった。


『ただいま』


 小さく声をかけたが、返事はない。


 彩華は眠っているのだろう。


 白嶺は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。


 リビングの明かりがついている。


 部屋へ入ると、無月が床へ座り、耀彩の手入れをしていた。


「おかえりなさいませ、白嶺様」


『……何をしているの?』


「耀彩を拭いています」


『それは見れば分かるわ』


 無月の着物は、右肩の辺りが裂けていた。


 脇腹にも横一文字の切れ目がある。


 傷へ巻かれた布には、少量の血が滲んでいた。


 無月は座る姿勢を崩していない。


 顔色も悪くなかった。


 それでも、白嶺の視線が鋭くなる。


『その傷は何?』


「斬られました」


『誰に』


「分家の者です」


 白嶺は無月の前へ座った。


『彩華は?』


「寝室で眠っておられます。御怪我はありません」


 白嶺はすぐに立ち上がり、寝室へ向かった。


 ベビーベッドを覗き込む。


 彩華は黄色い鳥を胸元へ抱き、静かに眠っていた。


 身体に傷はない。


 寝息も普段と変わらない。


 白嶺は彩華の頬へ指先で触れてから、リビングへ戻った。


 無月は変わらず耀彩を拭いている。


『刀を置きなさい』


「まだ手入れが終わっていません」


『先に傷を見せて』


「手当ては済ませました」


『あなたの手当てが信用できないから言っているの』


「出血は止まっています」


『無月』


 名前を呼ばれ、無月の手が止まった。


 白嶺は棚から救急箱を取り出し、無月の隣へ置く。


『脱いで』


「必要ありません」


『傷を見せなければ、着物ごと切るわよ』


 無月が白嶺を見る。


『あたしならやると分かっているでしょう』


「……承知しました」


 無月は耀彩を置き、裂けた着物を肩から下ろした。


 右肩には浅い切り傷が走っている。


 脇腹の傷も長く見えるが、刃先が表面を掠めただけだった。


 血はすでに止まりかけている。


 命に関わるような傷ではない。


 白嶺はわずかに息を吐いた。


『深くはないわね』


「そう申し上げました」


『傷を見せたくない人間は、皆そう言うのよ』


 巻かれていた布を外す。


 白嶺は消毒液を含ませた布を傷へ当てた。


 無月の肩がわずかに動く。


『痛い?』


「問題ありません」


『痛いのね』


「問題ありません」


『同じ言葉を繰り返しても、意味は変わらないわよ』


 傷を丁寧に拭き、新しいガーゼを当てる。


 白嶺は無月の肩へ包帯を巻いた。


『何があったの?』


「白嶺様がお出かけになったあと、彩華様を寝かしつけました」


 無月が淡々と話し始める。


「その後、分家で私の任務と鍛錬を監督していた者が訪れました」


『目的は?』


「耀彩と彩華様です」


 白嶺の手が止まる。


『彩華を?』


「本家の管理下で守るべきだと」


『あの家へ連れ帰ることを、守ると呼ぶのね』


「相手も、彩華様を傷つけるつもりはありませんでした」


『だから許せと?』


「そのような意味ではありません」


 白嶺は包帯を巻き終え、端を留めた。


 続いて、脇腹の傷へ手を伸ばす。


『どうして部屋が荒れていないの?』


「相手から、場所を変えるよう提案されました」


『向こうから?』


「ここで戦えば彩華様を起こし、近隣の者を巻き込む可能性があると。屋上へ移りました」


 白嶺は脇腹の布を外した。


 こちらも浅い。


 相手が無月を殺すつもりであれば、この程度では済まなかっただろう。


 無月もまた、致命傷を狙っていない。


 二人とも譲れないもののために剣を抜きながら、相手を殺すことまでは望まなかった。


『それで、勝ったの?』


「退かせました」


『あなたが?』


「耀彩が応えてくれました」


『そう』


 白嶺はそれ以上尋ねず、脇腹の傷へ消毒液を当てた。


 無月の身体が、わずかに強張る。


『やはり痛いのでしょう』


「問題ありません」


『今の反応を見たあとで、その言葉を信じると思う?』


「信じていただく必要はありません」


『本当に可愛げがないわね』


 新しいガーゼを当て、包帯を巻く。


 白嶺が手を離すと、無月は着物を整えた。


 肩の裂け目は隠れず、脇腹にも血の跡が残っている。


『それはもう着られないわね』


「縫えば使えます」


『血もついているでしょう』


「洗えば落ちます」


『そういう問題ではないわ』


「着物としての機能は失われていません」


『明日、捨てるわ』


「困ります」


『同じものを買えばいいでしょう』


「あの着物は支給されたものです」


 白嶺が無月を見る。


「分家を出る際に与えられました」


『大切なの?』


「分かりません」


『なら、自分で決めなさい。捨てたくないなら縫ってあげる』


「白嶺様がですか?」


『何よ、その顔は』


「針を扱えるのですか」


『失礼ね。できるわよ』


「刀を物干しに使う方なので」


『関係ないでしょう』


 無月は黙った。


 疑っている顔だった。


 そのとき、寝室から小さな声が聞こえた。


「あぅ……」


 白嶺と無月が同時に顔を向ける。


 続いて、彩華の泣き声が上がった。


「あー……あぅ……」


『起きたみたいね』


 白嶺が立ち上がる。


 先に寝室へ入り、ベビーベッドから彩華を抱き上げた。


『どうしたの?』


 彩華は白嶺の胸元へ顔を寄せた。


 だが、すぐに顔を上げ、寝室の入口を見る。


 遅れて入ってきた無月を見つけると、片手を伸ばした。


「あー」


『無月がいいの?』


「あぅ」


 彩華はもう一度、無月へ手を伸ばす。


 無月が白嶺の隣へ近づいた。


「ここにおります」


 彩華の指が、無月の着物を掴む。


 そのまま離そうとしない。


 白嶺の胸の奥で、紫が小さく疼いた。


 自分に抱かれているのに、無月を求めている。


 昨日までなら、それを面白くないと思ったかもしれない。


 今も、その感情が完全に消えたわけではない。


 だが、それよりも先に浮かんだものがあった。


 彩華は、無月がそばにいることを確かめている。


 自分を守るために傷を負った無月を、幼いなりに心配しているのかもしれない。


『懐かれたわね』


「そのようです」


『嬉しい?』


「守るべき御方に信頼されるのは、悪いことではありません」


『素直に嬉しいと言えばいいでしょう』


「嬉しいです」


 返事は早かった。


 白嶺が無月を見る。


 表情はほとんど変わっていない。


 それでも、その目は彩華へ向けられていた。


『抱く?』


「傷へ触れる可能性があります」


『あたしが支えるわ』


 白嶺は彩華を無月へ近づけた。


 無月が傷のない方の腕で、彩華の背中を支える。


 身体の重さは白嶺が抱えたままにした。


 彩華は無月の胸元へ頬を寄せた。


「あぅ」


「彩華様。起こしてしまい、申し訳ありません」


 彩華に言葉の意味は分からない。


 それでも安心したように目を閉じる。


 片手には黄色い鳥。


 もう片方の手には無月の着物。


 どちらも離すつもりはないらしい。


『今夜はここで休みなさい』


「私は戻れます」


『どこへ?』


「いつもの場所へ」


『怪我人を一人で帰すわけがないでしょう』


「この程度は怪我のうちに入りません」


『あたしが怪我だと言ったら怪我なの』


「定義は白嶺様が決めるものではありません」


『今、この家ではあたしが決めるのよ』


 無月が何かを言い返そうとする。


 その前に、彩華が着物を強く握った。


「あー」


『彩華も残れと言っているわ』


「そのようなことは仰っていません」


『あたしには分かるの』


「都合よく解釈しているだけではありませんか」


『母親には分かるものなのよ』


「先ほど、クリームの容器を欲しがっていることにも気づいておられませんでした」


『あなた、怪我人でなければ追い出しているところよ』


 無月はそれ以上言わなかった。


 白嶺は眠りかけている彩華を、もう一度抱き直す。


 そのままベビーベッドへ戻そうとした。


 だが、彩華は無月の着物を離さない。


『彩華。寝るわよ』


「あぅ」


『無月は逃げないから』


 彩華の手は緩まなかった。


 無月が静かに指を添える。


「ここにおります」


 その声を聞くと、彩華はようやく着物を離した。


 白嶺は彩華をベビーベッドへ寝かせる。


 黄色い鳥を胸元へ置き、布団をかけた。


 彩華はしばらく無月を見ていたが、やがて目を閉じた。


          ◇


 無月との戦いで傷を負った男は、夜道を歩いていた。


 衣服の胸元には、耀彩が残した細い裂け目がある。


 男は足を止め、裂けた布へ指先で触れた。


 脳裏へ、先ほどの一閃が蘇る。


 白い光の中へ、淡い虹色が走った。


 刃の軌跡を追うように、白い花弁が散った。


 見間違えるはずがない。


 無月が放ったのは、白嶺の花無垢を模した一撃だった。


 白嶺の剣を遠くから見つめ、その動きを覚え、自分の剣へ取り込もうとしていた少女。


 形だけをなぞっていたはずの剣が、耀彩とともに変わり始めている。


「白嶺様を、追い続けたか」


 完成した花無垢には、まだ遠い。


 それでも、ただの模倣ではなかった。


 無月自身の剣が、確かにあの一撃へ宿っていた。


 男は歩き出す。


 彩華の眠る部屋。


 場所を変える提案へ、迷わず応じた無月。


 傷を負っても、彩華のいる部屋へ戻ろうとした姿。


 あの二人を本家へ連れ帰ることが、本当に正しいのか。


 考える必要などないはずだった。


 自分は命を受けた。


 無月も、かつては命令へ疑問を挟まなかった。


 それでも男は、すぐに答えを出すことができなかった。


「お前も、変わったのだな」


 答える者はいない。


 男は再び歩き出し、夜の中へ消えた。


          ◇


 白嶺は、彩華を中央にして横になっていた。


 反対側には無月がいる。


 彩華は眠りながら、白嶺の指と無月の指を一本ずつ握っていた。


 どちらかが少し動くたび、握る力が強くなる。


『完全に捕まったわね』


「動かなければ問題ありません」


『傷は痛まないの?』


「多少は」


『最初からそう言えばいいでしょう』


「動けなくなるほどではありません」


『痛いかどうかを聞いたのよ』


「質問の意図を理解していませんでした」


『嘘ね』


 無月は答えなかった。


 白嶺は暗い天井を見上げる。


 モモマユとの戦い。


 分家からの襲撃。


 一晩で起きたことが多すぎた。


『無月』


「はい」


『次にあの男が来たら、あたしが戻るまで待ちなさい』


「相手が待たなければ不可能です」


『少しくらい考えて答えなさい』


「考えた結果です」


『なら、怪我をしないで』


「それも難しい命令です」


『あなたは、あたしの命令を何だと思っているの?』


「実現の可否を問わず下されるものです」


『腹が立つわね』


 白嶺は彩華を起こさないよう、小さく息を吐いた。


『勝手にいなくならないで』


 無月が白嶺を見る。


『彩華を守るためなら、自分がどうなってもいいなんて考えないで。あなたがいなくなれば、この子が悲しむわ』


「彩華様が?」


『今の様子を見たでしょう』


 無月は、二人の間で眠る彩華へ視線を落とした。


 彩華の小さな手が、無月の指を握っている。


「私は、彩華様をお守りするためにおります」


『これからは、守ったあともそばにいなさい』


「それも、命令ですか」


『ええ』


 しばらく返事がなかった。


 やがて、彩華の向こうから静かな声が届く。


「承知しました」


 どこまで守れるか分からない返事だった。


 それでも白嶺は、今はそれでよかった。


 彩華の小さな手が、二人の指を握っている。


 その温かさを確かめながら、白嶺は新たに加わった桃色を、胸の奥へ静かに沈めた。

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