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34話「桃色の繭」

白嶺が自宅へ戻ると、リビングから彩華の笑い声が聞こえた。


「あぅ」


「もう一度ですか」


「あー」


 部屋へ入る。


 無月が床へ座り、黄色い鳥を彩華の前で左右へ動かしていた。


 彩華は無月の膝へ手を置き、身体を支えながら立っている。


 鳥が右へ動けば右を見る。


 左へ動けば、声を上げながら左へ顔を向ける。


 無月が鳥を背中へ隠すと、彩華は無月の袖を引いた。


「なくなってはいません」


「あぅ」


「こちらです」


 鳥が再び現れる。


 彩華は嬉しそうに笑い、無月の膝へ身体を預けた。


 白嶺は、その様子をしばらく見ていた。


 彩華は無月に懐いている。


 近くにいることを警戒する様子は、もうない。


 抱かれて眠ることもある。


 姿が見えなくなれば、探すように声を出す。


 白嶺の胸の奥で、紫がわずかに動いた。


 自分の知らない間に、二人の間へ積み重なった時間がある。


 それを面白くないと感じる。


 だが同時に、安堵もあった。


 彩華を置いて出なければならない今、無月ほど信頼できる相手はいない。


『ただいま』


 彩華が振り返った。


「あー!」


 無月の膝から手を離し、白嶺へ向かって両腕を伸ばす。


 身体が傾く前に、無月が腰を支えた。


「おかえりなさいませ」


『ええ』


 白嶺は彩華を抱き上げた。


 彩華は白嶺の胸元へ顔を寄せる。


 しかし、片手では無月の袖を掴んだままだった。


『両方欲しいの?』


「あぅ」


「欲張りですね」


 無月が袖から彩華の指を外そうとする。


 彩華は不満そうに声を上げ、さらに強く握った。


『そのままでいいわ』


 白嶺は彩華を抱いたまま、無月の隣へ腰を下ろした。


 わずかな時間だけ、その温かさを確かめる。


 会社を出てから、美咲から何通も連絡が届いていた。


 今どこにいるのか。


 自分を嫌いになったのか。


 どうして返事をくれないのか。


 文章は次第に短くなり、最後には白嶺の名前だけが送られてきた。


 美咲の中にいるものは、もう隠れるつもりがない。


『佐藤さんに、桃の色霊が憑いている』


 無月の表情が変わった。


「どちらへ向かわれるのですか」


『佐藤さんの家。気配はそこへ続いている』


「承知しました。彩華様は、私がお守りします」


 無月は同行を申し出なかった。


 白嶺が彩華を危険な場所へ連れていかないことも、自分へ何を求めるのかも理解している。


『お願い』


「はい」


 白嶺は彩華を無月へ渡した。


 彩華は素直に無月の胸へ収まったが、白嶺へ向かって手を伸ばした。


『すぐに戻るわ』


「あぅ」


『いい子にしていて』


 彩華の指先へ触れてから、白嶺は立ち上がった。


 寝室へ入り、仕事着を脱ぐ。


 黒を基調とした着物へ着替え、宿彩を手に取った。


 鞘の内側で、複数の色が小さく揺れる。


 赤。


 橙。


 黄。


 褐。


 緑。


 藍。


 紫。


 封じた七色すべてが、桃色の気配へ反応していた。


 リビングへ戻ると、彩華は無月の肩へ頬をつけていた。


 無月が背中を叩くたび、目を細めている。


『無月』


「はい」


『二人とも、無事でいて』


「御心配なく」


 白嶺は宿彩を刀袋へ収め、家を出た。


          ◇


 白嶺が出てから、彩華はしばらく玄関を見つめていた。


「あぅ」


「白嶺様は戻られます」


「あー」


「それまでは、私と待ちましょう」


 無月が黄色い鳥を見せる。


 彩華は鳥を掴んだあと、無月の胸元へ額を押しつけた。


 いつもなら、鳥を振ったり、嘴を噛もうとしたりする。


 今は無月の衣へ顔を埋めたまま動かなかった。


「寂しいのですか」


「うー」


「私もいます」


 無月が背中を撫でる。


 彩華の身体から、少しずつ力が抜けていった。


 そのまま抱いていると、やがて小さな欠伸をする。


「眠いのですね」


「あぅ……」


 無月は彩華を寝室へ運んだ。


 ベビーベッドへ寝かせようとすると、彩華が無月の衣を強く握った。


 身体を離した途端、目を開けてしまう。


「ここにいます」


 無月は無理に指を外さなかった。


 ベッドの脇へ座り、彩華の手が届く場所に身を置く。


 片手で背中をゆっくりと叩く。


「白嶺様は、必ず戻られます」


「あぅ」


「心配する必要はありません」


 彩華は無月を見つめたまま、何度か瞬きをした。


 その瞼が、少しずつ重くなっていく。


 黄色い鳥を胸元へ抱き、もう片方の手では無月の指を握っている。


 無月が背中を叩くたび、呼吸が穏やかになった。


 やがて、彩華の目が完全に閉じる。


 無月はしばらく動かなかった。


 眠りが深くなるまで待つ。


 握られていた指から力が抜けたあとも、すぐには手を離さなかった。


「おやすみなさいませ」


 小さな声で告げる。


 彩華の手を布団の中へ戻し、黄色い鳥が顔を覆わない位置へ動かした。


 無月は立ち上がる。


 寝室の扉を完全には閉めず、わずかに隙間を残した。


 リビングへ戻り、食器を片づける。


 それを終えても、彩華が起きる気配はなかった。


 そのとき、玄関の扉が三度叩かれた。


 一定の間隔。


 強くも弱くもない。


 無月の手が止まった。


 虹結の屋敷で、分家の者へ命を伝えるときに使われていた合図だった。


 来客を知らせるものではない。


 相手が何者なのかを、無月へ悟らせるための音だった。


 無月は寝室へ戻った。


 彩華は眠っている。


 規則正しい呼吸。


 胸元には、黄色い鳥がある。


 無月は窓の施錠を確かめ、耀彩を手に取った。


 玄関へ向かう。


 扉をわずかに開く。


 共用廊下に、一人の男が立っていた。


 年齢を重ねても、背筋は真っ直ぐに伸びている。


 腰には一振りの刀。


 分家で、無月の任務と鍛錬を監督していた男だった。


「お久しぶりです」


「顔つきが変わったな」


「何の御用ですか」


「耀彩を返してもらう」


 男の視線が、無月の手にある刀へ向く。


「それから、白嶺様の御子をお連れする」


 無月の目が細くなった。


「どちらも、お渡しできません」


「お前が決めることではない。耀彩は虹結家の剣。白嶺様の御子も、家を離れた者だけに任せておける御方ではない」


「彩華様を、どこへ連れていくつもりですか」


「本家の保護下だ。御血筋に相応しい環境を用意する」


「御本人の意思も、白嶺様の許可もない」


「幼子に意思を問うのか」


「だからこそ、母親である白嶺様の意思が優先されます」


 男は無月の背後へ目を向けた。


 室内から、彩華の声は聞こえない。


「御休みになっているのか」


「はい」


「ならば、なおさらここで刃を抜くべきではないな」


 男は腰の刀へ手をかけなかった。


「場所を変えるぞ」


「私を彩華様から引き離すためではありませんか」


「その疑いは当然だ。だが、御子の眠る部屋で斬り合うつもりはない。近隣の者を巻き込む理由もない」


 男は階段の方角を見る。


「屋上へ移る。お前が戸を施錠するまで、私は階段で待つ」


「その間に、別の者を向かわせることもできます」


「私一人だ」


 男は両手を無月へ見せた。


「幼い頃からお前を見てきた者として、幼子の前で刃を抜くほど落ちてはいない」


 言葉に偽りは感じられなかった。


 無月は一度、室内へ戻る。


 玄関を施錠し、もう一度寝室を確かめた。


 彩華は眠っている。


 傍らへ膝をつき、小さな手へ触れる。


「すぐに戻ります」


 返事はない。


 無月は立ち上がり、部屋を出た。


 男は約束どおり、階段の踊り場で待っていた。


 二人は言葉を交わさず、屋上へ向かった。


          ◇


 冷たい風が、無月の黒髪を揺らした。


 屋上には誰もいない。


 周囲の建物からも距離がある。


 彩華の眠る部屋は、無月の足元にあった。


 声が届くほど近くはない。


 それでも、気配を失うほど遠くもなかった。


 男が刀を抜く。


「最後に聞く。耀彩と彩華様を渡す気はないか」


「ありません」


「白嶺様の御命令だからか」


「初めは、そうでした」


 無月も耀彩を抜いた。


「今は違います」


「何が違う」


「私が、守りたいのです」


 男の目がわずかに動いた。


「屋敷にいた頃のお前なら、口にしなかった言葉だ」


「屋敷を離れたから、得られたものです」


「それがお前を弱くした」


 男が間合いを詰めた。


 斬撃が、無月の肩へ迫る。


 耀彩で受ける。


 金属音が屋上へ響いた。


 重い。


 腕力だけではない。


 こちらがどの角度で受けるのか、男は知っている。


 無月が、白嶺の稽古を見続けて身につけた剣。


 白嶺の動きを追い、自分の身体へ合うよう作り替えてきた剣。


 男はその成長を、分家の側から長く監督してきた。


 足の運び。


 呼吸。


 構えから次の一手へ移るまでの癖。


 すべてを記録し、見定めてきた。


「遅い」


 男の刀が耀彩を滑り、無月の右肩を裂いた。


 赤い血が着物へ滲む。


 無月は後退しない。


 耀彩を返し、男の首へ刃を走らせる。


 男は半歩下がるだけで避けた。


「迷いがある」


「ありません」


「ある。以前のお前なら、今の一撃で腕を狙った」


「腕を奪えば、彩華様を抱いて戻れません」


「私を斬ったあとも、御子の世話をするつもりか」


「当然です」


 男が踏み込む。


 無月は切っ先を逸らした。


 直後、刀の柄が脇腹へ叩き込まれる。


 息が詰まる。


 身体が傾いたところへ刃が返り、左の脇腹が切り裂かれた。


 熱い血が流れる。


 膝が落ちそうになる。


「守るものを得て、剣が鈍った」


「違います」


「では、なぜ私を斬れない」


「斬れないのではありません」


 無月は呼吸を整えた。


「まだ、斬る必要がないだけです」


 耀彩を正面へ構える。


 肩から流れた血が、柄を握る指へ伝った。


 刀身へ血が落ちる。


 一滴。


 二滴。


 その赤が、耀彩の上で白い光へ変わった。


 男の眉が動く。


「それは……」


 白い光が刀身を覆う。


 完全な白ではない。


 縁にだけ、ごく薄い虹色が走っている。


 光は花弁の形を作りかけ、すぐに崩れた。


 一枚。


 また一枚。


 形を保てない光の花弁が、無月の周囲へ舞う。


 完成した技ではない。


 名を与えられるほど整ってもいない。


 それでも耀彩は、これまでとは異なる輝きを帯びていた。


 男が踏み込む。


 無月も前へ出た。


 二つの刃が交わる。


 今度は、耀彩が押し負けなかった。


 白い花弁が弾ける。


 男の刀が大きく逸れた。


 その隙へ、無月の切っ先が入る。


 男の喉元で、耀彩が止まった。


 わずかに動かせば、刃が皮膚を裂く距離だった。


「……花無垢」


「違います」


 無月の呼吸は乱れている。


 肩と脇腹から、今も血が流れていた。


「これはまだ、その名で呼べるものではありません」


「だが、片鱗は見せた」


 男は無月の目を見る。


「守るものを得て、剣が鈍ったわけではないらしい」


「お帰りください」


「白嶺様の御子を諦めたわけではない」


「次も、お守りします」


「その傷でか」


「腕が動く限り」


 数秒、二人は動かなかった。


 やがて男が刀を引く。


 無月も耀彩を下ろした。


「今日のところは退く」


 男が刀を鞘へ収める。


「だが、耀彩と彩華様を求めているのは私だけではない。白嶺様にも、そう伝えておけ」


「御自分でお伝えになればよいでしょう」


「今の白嶺様の前へ出れば、話す前に斬られる」


「よく御存じですね」


 男は返事をしなかった。


 屋上の扉へ向かう。


「無月」


 足を止めたまま、振り返らずに言う。


「お前が見せたものが、本当に花無垢へ至るのか。次に会うときまで、折らずに育ててみろ」


 扉が閉じた。


 男の気配が遠ざかっていく。


 無月は耀彩を鞘へ収めた。


 力が抜け、片膝をつく。


 脇腹から流れた血が、屋上の床へ落ちた。


 痛みに構っている時間はない。


 無月は立ち上がった。


 彩華のもとへ戻らなければならない。


          ◇


 無月が部屋の扉を開ける。


 中は静かだった。


 玄関を施錠し、寝室へ向かう。


 彩華は眠ったままだった。


 胸元へ黄色い鳥を抱き、穏やかな呼吸を繰り返している。


 無月は小さく息を吐いた。


 血のついた手で触れないよう、ベッドから少し離れた位置へ膝をつく。


「戻りました」


 眠っている彩華へ、小さな声で告げる。


 返事はない。


 それでよかった。


 無月は清潔な布で手を拭い、脇腹の傷へ別の布を強く巻いた。


 右肩にも布を当てる。


 動かすたびに痛みが走る。


 それでも、彩華の寝顔を確かめている間は、顔へ出さなかった。


 立ち上がろうとしたとき、彩華が小さく身じろぎした。


「あぅ……」


 瞼がゆっくりと開く。


 彩華は無月を見つけると、黄色い鳥を離して両腕を伸ばした。


「起こしてしまいましたか」


「あー」


「私は血で汚れています」


 彩華は構わず、無月へ手を伸ばし続ける。


 無月は血がついていないことを確かめた左腕を差し入れ、傷へ触れさせないよう慎重に抱き上げた。


 彩華はすぐに無月の胸へしがみついた。


「申し訳ありません。少し、離れていました」


 彩華は無月の衣を握る。


 離れないことを確かめるように、何度も指へ力を込めていた。


「もう、どこへも行きません」


「あぅ……」


 無月が背中を撫でる。


 彩華は赤くなった目で無月を見上げた。


 小さな手が、傷のある肩へ伸びる。


「そこは触れてはいけません」


「うー」


「大丈夫です」


 彩華は手を下ろさず、今度は無月の頬へ触れた。


 無月は、その指先へ自分の頬を預ける。


「白嶺様が戻られるまで、内緒にすることはできそうにありませんね」


 彩華は意味を理解していない。


 それでも無月の声を聞くと、安心したように胸元へ顔を埋めた。


 耀彩の鞘へ、一枚だけ白い光が残っていた。


 花弁に似たその光の縁を、ごく淡い虹色が彩っている。


 やがて光は静かに崩れ、消えた。


          ◇


 同じ頃。


 白嶺は桃色の気配を追っていた。


 美咲から届いた最後の連絡から、すでに三十分以上が経っている。


 返信はしていない。


 何を送っても、今の美咲へ正しく届くとは思えなかった。


 美咲の住む建物が見えてくる。


 窓の一つから、桃色の糸が伸びていた。


 肉眼で見えるものではない。


 色霊の気配を辿る白嶺にだけ見える、細く濁った光だった。


 糸は建物の外壁を這い、電線へ絡み、さらに白嶺へ向かって伸びている。


 自分を呼んでいる。


 いや。


 自分だけを、引き寄せようとしている。


 胸の奥で紫が反応した。


 美咲が自分だけを求めている。


 それを嬉しいと感じるものが、確かにある。


 他の誰にも向けられない執着。


 玲奈にも、彩華にも、無月にも向かない視線。


 すべてが自分だけのものになる。


 赤が喜び、紫が甘く囁く。


 白嶺は足を止めなかった。


『くだらない』


 誰へ聞かせるでもなく呟く。


『そんなものは、望んでいないわ』


 建物へ入る。


 美咲の部屋がある階へ上がるほど、桃色の気配は濃くなった。


 廊下の壁。


 床。


 天井。


 目に見えない糸が、すべて同じ部屋へ集まっている。


 美咲の部屋の前へ立つ。


 扉は少し開いていた。


『佐藤さん』


 返事はない。


 白嶺は刀袋から宿彩を抜き、鞘に収めたまま扉を押した。


 室内は暗い。


 カーテンが閉じられ、照明も消えている。


 桃色の糸だけが、淡く光っていた。


 壁一面へ張り巡らされている。


 机。


 椅子。


 棚。


 床へ落ちた鞄。


 美咲が普段使っているものすべてが、糸に覆われていた。


 糸の中心に、大きな繭がある。


『佐藤さん』


 繭が動いた。


 表面へ亀裂が走る。


 桃色の糸が一本ずつ解け、その中から足が現れた。


 白い靴下。


 桃色の靴。


 花弁を重ねたようなスカート。


 美咲が、繭の中からゆっくりと立ち上がる。


 腰まで伸びた髪は桃色へ変わっていた。


 白いヘッドドレスには、小さな薔薇と苺の飾りが並んでいる。


 桃色と白を重ねた服は、少女趣味なほど甘い。


 だが、美咲の瞳にある光だけが異様だった。


 瞳全体が桃色に染まり、白嶺だけを映している。


「来てくれたんですね、加藤さん」


 美咲が笑う。


 声が二重に聞こえた。


 美咲自身の声へ、別の何かが重なっている。


『あなたがモモマユね』


「その名前も、知っているんですね」


『佐藤さんから離れなさい』


「嫌です」


 桃色の糸が、美咲の背後で揺れる。


「この子は、ずっとあなたを見ていました」


『知っているわ』


「あなたに褒められたくて、必要とされたくて、何度も頑張りました」


『それも知っている』


「なら、この子の願いを叶えてあげればいいでしょう」


 美咲が一歩近づく。


「この子だけを見てください」


『できないわ』


 美咲の笑みが止まった。


「どうしてですか」


『あたしには、佐藤さん以外にも大切な人がいる』


 空気が張り詰める。


 桃色の糸が、一斉に白嶺へ向いた。


「いりません」


『何が?』


「加藤さんには、この子だけがいればいいんです」


『それは佐藤さんの願いではない』


「この子は、そう願っています」


『願いを膨らませて、他のものが見えなくなるようにしたのはあなたでしょう』


「元からなければ、膨らみません」


『ええ。佐藤さんは、あたしを慕ってくれている』


 紫が胸の奥で脈打つ。


 その事実を、自分だけのものにしたいと訴えている。


 白嶺は宿彩の柄を握った。


『でも、慕うことと、他のすべてを捨てることは違うわ』


「同じです」


『違う』


「この子は言いました」


 美咲の唇が、ゆっくりと動く。


「加藤さん以外に、どう思われてもいいと」


 会社で玲奈へ放った言葉。


 モモマユは、それを美咲自身の望みとして差し出している。


『それでも違うわ』


「なぜ、あなたが決めるんですか」


『佐藤さんを見てきたからよ』


 白嶺は宿彩を抜いた。


 刀身へ、桃色の糸が映る。


『仕事へ真面目に向き合うところも、失敗を恐れて立ち止まるところも、それでも前へ進もうとするところも知っている』


 美咲の表情が、わずかに揺れた。


『周りからどう思われてもいいなんて、本来の佐藤さんは言わない』


「黙って」


 糸が放たれた。


 白嶺は宿彩を振るう。


 桃色の糸が切断される。


 切れた糸から、美咲の声が溢れた。


 もっと褒めてほしい。


 近くにいたい。


 必要とされたい。


 一人にしないでほしい。


 どれも、美咲の中にあった思いだった。


 白嶺の腕が止まる。


 その隙に、別の糸が手首へ巻きついた。


 続いて足首。


 腰。


 引かれた身体が、壁へ縫い止められる。


「切れないでしょう」


 モモマユが笑う。


「この子の気持ちを、あなたには切れない」


『そうね』


 白嶺は拘束されたまま、美咲を見た。


『佐藤さんの気持ちは切らない』


「では、そのまま受け入れてください」


『お断りよ』


 宿彩を握る手へ力を込める。


『あたしが切るのは、あなたが歪めた部分だけ』


 白髪が膝まで伸び、その一部へ生来の虹色が走った。その中で、封じた赤、橙、黄、褐、緑、藍、紫がひときわ濃く浮かび上がる。


 七色の光が、手首へ絡んだ糸を内側から押し返す。


 桃色の糸が震えた。


 美咲が頭を押さえる。


「加藤……さん……」


 重なっていた声が、一瞬だけ消えた。


 桃色の瞳の奥から、美咲自身の色が白嶺を見る。


 聞こえている。


 美咲はまだ、そこにいる。


『待っていなさい』


 白嶺は宿彩を構えた。


『必ず、あなたを取り戻すわ』


 美咲の瞳から、一筋の涙が落ちた。


 直後、モモマユの声が部屋へ響く。


「渡さない!」


 無数の桃色の糸が、巨大な繭を作るように白嶺へ襲いかかった。


 白嶺は床を蹴る。


 七色を宿した宿彩が、桃色の中心へ斬り込んだ。

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