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33話「絡む糸」

翌朝。


 美咲は始業時刻の四十分前に会社へ着いた。


 営業企画部には、まだ誰もいない。


 照明をつけ、鞄を自分の席へ置く。


 パソコンが起動するまでの間に、白嶺の席を見た。


 机の上には、昨日白嶺が残していった資料が整然と積まれている。


 美咲は自分の席へ座らず、白嶺の机へ近づいた。


 資料には触れない。


 ただ、その前に立つ。


 白嶺が毎朝座る椅子。


 仕事中に何度も手を伸ばすコーヒー。


 資料を確認するときに使う筆記用具。


 どれも、美咲がよく知っているものだった。


「今日は、もっと見てもらえるかな」


 誰もいない室内で呟く。


 白嶺に褒めてほしい。


 必要としてほしい。


 自分がいなければ困るくらい、頼ってほしい。


 そのためなら、何でもできる気がした。


 美咲の指先から伸びた桃色の糸が、白嶺の椅子へ触れる。


 背もたれを撫でるように這い、すぐに消えた。


          ◇


 白嶺が出社すると、美咲はすぐに立ち上がった。


「加藤さん、おはようございます」


『おはよう』


「コーヒー、買ってあります」


 美咲が机の端に置かれた缶を示す。


 白嶺がいつも飲んでいるものだった。


『頼んでいないけれど』


「いつも朝に飲んでいますよね」


『ええ』


「今日は私が早く着いたので、ついでに買っておきました」


 美咲は笑っている。


 表情だけを見れば、いつもと大きく変わらない。


 しかし、その目は白嶺の反応だけを追っていた。


『ありがとう。代金を払うわ』


「いりません」


『そういうわけにはいかないでしょう』


「私がしたくてしたことですから」


『それでも、受け取って』


 白嶺が代金を差し出す。


 美咲の笑顔が、わずかに曇った。


「加藤さんからもらいたいわけではないんです」


『では、何が欲しいの?』


「私が役に立ったと思ってもらえれば、それで」


 白嶺の胸の奥で、紫が小さく揺れた。


 美咲が自分だけを求めている。


 その事実を喜ぶ感情がある。


 だが、それとは別に、美咲の内側から甘い気配が滲み出していた。


 桃色の糸。


 細く、柔らかく、幾重にも重なっている。


『佐藤さん』


「はい」


『昨日、きちんと眠った?』


「眠りました」


 美咲は迷わず答えた。


 目の下に、薄い影がある。


『そうは見えないけれど』


「加藤さんは、私の顔をそんなに見てくれているんですね」


 嬉しそうな声だった。


 質問への答えにはなっていない。


『無理をして仕事をしても、精度が落ちるわ』


「大丈夫です。加藤さんのためなら、間違えませんから」


『あたしのためではなく、会社の仕事よ』


「同じです」


 美咲は微笑んだ。


「加藤さんが困らないようにすることが、私の仕事ですから」


 白嶺はそれ以上言わなかった。


 今、ここで美咲の内側にあるものを刺激するわけにはいかない。


 宿彩は自宅に置いてある。


 周囲には、出社してきた社員が増え始めている。


 色霊を無理に表へ引き出せば、全員を巻き込む可能性があった。


『仕事を始めましょう』


「はい」


 美咲は素直に自分の席へ戻った。


 白嶺はその背中を見つめる。


 桃色の気配は、昨日より明らかに濃くなっていた。


          ◇


 午前中、美咲の仕事に誤りはなかった。


 頼まれた資料を予定より早く仕上げる。


 白嶺が次に必要とするものを考え、指示される前に準備する。


 電話にもすぐ応じ、届いたメールを整理し、打ち合わせの予定まで確認していた。


 普段の美咲も努力家だった。


 しかし、今日は働き方が違う。


 自分の仕事を終わらせるためではない。


 白嶺の役に立つことだけを目的に動いている。


「佐藤さん、この確認をお願いしてもいい?」


 同僚の一人が声をかけた。


 美咲は画面から顔を上げる。


「今、加藤さんから頼まれた仕事をしています」


「終わってからでいいんだけど」


「でしたら、ほかの方へお願いしてください」


 声は穏やかだった。


 それでも、はっきりと拒絶している。


「分かった。ごめんね」


 同僚が離れていく。


 美咲は何事もなかったように画面へ戻った。


 少し離れた席から、玲奈がその様子を見ていた。


 以前の美咲なら、仕事を抱えていても断り方を考えた。


 相手へ申し訳なさそうに頭を下げ、いつなら対応できるかを伝えたはずだった。


 今の返答には、それがない。


 白嶺に関係しない仕事など、どうでもいい。


 そのように聞こえた。


「佐藤さん」


 玲奈が声をかける。


「はい」


「少しいい?」


「急ぎですか?」


「話があるだけ」


「今でなければ駄目ですか?」


 美咲の指は止まらない。


「加藤さんから頼まれた資料を、先に終わらせたいんです」


「五分もかからない」


「ですが……」


『佐藤さん』


 白嶺の声が届く。


 美咲はすぐに顔を上げた。


『急ぎではないから、中村さんの話を先に聞いて』


「分かりました」


 先ほどまでの拒絶が、嘘のように消えた。


 美咲は席を立ち、玲奈の後ろをついていく。


 その様子を見た同僚が、不思議そうに二人を見送った。


 白嶺は画面へ視線を戻した。


 胸の奥で、紫が玲奈へ棘を向けている。


 自分の言葉にだけ従った美咲を、誰にも渡したくない。


 そう感じてしまう。


 だが、その感情に従うわけにはいかなかった。


          ◇


 玲奈は美咲を休憩室へ連れていった。


 中に誰もいないことを確かめ、扉を閉める。


「最近、変だよ」


「何がですか?」


「加藤さんのことばかり見てる」


「以前から見ています」


「そういう意味じゃない」


 玲奈は美咲の目を見る。


 瞳の奥へ、ごく淡い桃色が滲んでいた。


 照明の反射にも見える。


 しかし玲奈には、それを気のせいとして片づけることができなかった。


 自分も、同じように変わっていった。


 感情を膨らませ、自分だけが正しいと思い込み、ほかのものが目に入らなくなった。


「昨日、ちゃんと寝た?」


「加藤さんにも同じことを聞かれました」


 美咲が嬉しそうに笑う。


「私のことを見てくれているんです」


「今は私が聞いてるの」


「少し眠れなかっただけです。問題ありません」


「仕事のことでも考えてた?」


「加藤さんのことを考えていました」


 ためらいのない答えだった。


 美咲自身も、それをおかしいとは思っていない。


「佐藤さん。少し落ち着いた方がいいよ」


「落ち着いています」


「だったら、周りへの態度を考えなさい。さっきの断り方も何? あんな言い方をしたら、どう思われるか分かるでしょう」


「別に構いません」


「構わないって……」


 美咲の唇が、静かに笑みを作った。


「加藤さん以外にどう思われても良いです」


 玲奈は言葉を失った。


 怒っているわけではない。


 開き直っているわけでもなかった。


 美咲は、本当にそう思っている。


 白嶺以外の人間に嫌われても、見放されても、何も感じない。


 その目にあるのは、真っ直ぐすぎる確信だった。


「……何を言ってるの」


「加藤さんが私を見てくれれば、それで十分です」


「十分なわけないでしょう」


「どうしてですか?」


「仕事は一人でするものじゃない。加藤さんだって、そんなことを望むはずがない」


 美咲の笑みが消えた。


「中村先輩に、加藤さんの何が分かるんですか?」


 低い声だった。


 玲奈の背中へ冷たいものが走る。


「私より、加藤さんのことを知っているつもりですか?」


「そういう話はしてない」


「二人で会議室に入って、何を話したんですか?」


「仕事の話だって言ったでしょう」


「嘘です」


 美咲が一歩近づく。


「加藤さんは、中村先輩に何を見せたんですか?」


「何も見せてもらってない」


「では、どうして急に距離が近くなったんですか?」


「近くなってない」


「私には分かります」


 美咲の髪の隙間から、桃色の糸が伸びた。


 玲奈の頬へ触れる寸前で消える。


 美咲には見えていない。


 だが玲奈は、それをはっきりと見た。


 紫色の影に身体を奪われた夜。


 自分の意思を押し退け、白嶺へ刃を向けさせたもの。


 形も色も違う。


 それでも、同じものだと分かった。


「佐藤さん」


「何ですか?」


「今日は、もう帰った方がいい」


「嫌です」


「体調が悪いって言えば——」


「加藤さんのそばから離れたくありません」


 美咲は静かに答えた。


「私がいない間に、中村先輩が加藤さんへ近づくかもしれないでしょう」


 玲奈は反論しなかった。


 今の美咲へ何を言っても、言葉のすべてが白嶺を奪うためのものに聞こえる。


「戻りましょう」


 美咲は玲奈の返事を待たず、扉へ向かった。


 その背中から、何本もの桃色の糸が伸びている。


 糸はすべて、白嶺がいる方角へ向かっていた。


          ◇


 休憩室から戻った美咲は、まっすぐ白嶺の席へ向かった。


「中村先輩のお話、終わりました」


『そう』


「仕事へ戻ってもいいですか?」


『ええ』


 美咲は白嶺の顔を見つめる。


「私は、加藤さんの役に立っていますか?」


 周囲に聞こえる声だった。


 何人かが顔を上げる。


 白嶺は美咲を見た。


 桃色の気配が、身体の内側で渦を巻いている。


 すでに取り憑かれている。


 それでも、まだ美咲の意識は残っていた。


 今ここで否定すれば、モモマユはその寂しさを利用する。


 肯定しすぎれば、執着をさらに強める。


『役に立っているわ』


 美咲の顔が明るくなる。


『でも、佐藤さん一人で仕事をしているわけではない。周りの人を大切にできないなら、あたしはあなたへ仕事を任せられない』


 笑顔が止まった。


「加藤さんも、私が悪いと思うんですか?」


『何があったのかは聞いていないわ。ただ、今のあなたは周りが見えていない』


「私は、加藤さんを見ています」


『あたしだけを見ていればいいとは言っていない』


 美咲の瞳に、桃色が濃く浮かんだ。


「でも、私は……」


『席へ戻って』


 白嶺は静かに告げた。


『今は仕事をしなさい』


「……はい」


 美咲は俯き、自分の席へ戻った。


 その足元を、桃色の糸が這っている。


 白嶺以外の者には見えていない。


 ただ一人、玲奈だけが青ざめた顔で糸を見ていた。


          ◇


 昼休み。


 玲奈は白嶺が一人になるのを待ち、給湯室へ入った。


「加藤さん」


『何?』


「佐藤さんのことです」


『ええ』


「あの子、取り憑かれてますよね」


 玲奈は声を抑えている。


 白嶺は廊下へ目を向けた。


 誰も近くにいない。


『見えたの?』


「桃色の糸みたいなものが」


『一度、色霊の器になった影響かもしれないわね』


「やっぱり、あれも色霊なんですね」


『桃の色霊よ』


「斬るんですか」


『ええ』


「今すぐですか?」


『ここには宿彩がない。それに、社内で引きずり出せば関係のない人まで巻き込むわ』


「だったら、どうするんですか」


『表へ出るまでは刺激しない。あたしが見ている』


 玲奈は唇を結んだ。


「佐藤さんは、どうなるんですか」


『必ず取り戻すわ』


 迷いのない返事だった。


 玲奈は白嶺を見る。


 あの夜も、白嶺は同じように自分を取り戻した。


 刀を向けながら、一度も玲奈自身を敵とは呼ばなかった。


「私にできることはありますか」


『普段どおりにしていて』


「それだけですか?」


『中村さんを狙う可能性がある。二人きりにはならないで』


「もう遅いです。さっき二人で話しました」


 白嶺の目がわずかに細くなった。


『何かされた?』


「いいえ。言われただけです」


『何を?』


「加藤さん以外にどう思われても良いって」


 白嶺の胸の奥で、桃色の気配とは異なる紫が疼いた。


 自分だけが必要だと言われた。


 ほかのすべてを捨ててもいいほど求められている。


 その言葉を、嬉しいと感じる部分があった。


 白嶺はすぐに、その感情から距離を置いた。


 美咲が自分の意思だけで口にした言葉ではない。


 モモマユに歪められ、逃げ道を塞がれた末の執着だ。


『それは、佐藤さんの望みではないわ』


「でも、元になる気持ちはあったんでしょう」


『あったとしても、すべてを捨てたいと思う子ではない』


 白嶺ははっきりと答えた。


『佐藤さんは、周りにどう思われてもいいなんて、本気で言える人ではないわ』


 玲奈は小さく息を吐いた。


「分かりました。普段どおりにします」


『お願い』


「ただ、危なくなったら教えてください。何も知らないふりをしたまま巻き込まれるのは嫌ですから」


『そうね。そのときは伝えるわ』


 玲奈は給湯室を出ていった。


 白嶺は一人残り、自分の胸元へ手を当てる。


 紫の嫉妬は、まだ燻っている。


 美咲の執着を拒むのではなく、受け入れろと求めてくる。


 それでも、従うわけにはいかなかった。


          ◇


 退勤時刻が近づくにつれ、美咲は落ち着きを失っていった。


 何度も白嶺の予定表を見る。


 白嶺がパソコンを閉じると、すぐに立ち上がった。


「加藤さん、今日はもう帰りますか?」


『ええ』


「一緒に帰ってもいいですか?」


『方向が違うでしょう』


「途中まででも構いません」


『今日は用事があるの』


「何の用事ですか?」


 美咲の問いに、周囲の空気が止まる。


 上司の私用を尋ねるには、踏み込みすぎていた。


 美咲もそれに気づいたらしく、すぐに視線を下げる。


「すみません。でも、心配で」


『心配はいらないわ』


「明日は、会えますよね」


『出勤日なのだから、会社には来るわ』


「絶対ですか?」


『ええ』


 美咲はようやく笑った。


「では、明日も早く来ます」


『無理に早く来る必要はないわ』


「私が来たいんです」


 白嶺は返事をせず、鞄を持った。


『お疲れさま』


「お疲れさまでした」


 白嶺が営業企画部を出る。


 背中へ、美咲の視線が絡みついていた。


 桃色の糸は、扉が閉じても切れない。


 廊下へ伸び、白嶺の後を追おうとしている。


 白嶺は足を止めなかった。


 まず自宅へ戻り、宿彩を取る。


 彩華の無事を確かめ、無月へ事情を伝える。


 それから、美咲を追う。


 会社を出たところで、スマートフォンが震えた。


 美咲からのメッセージだった。


 ――加藤さん、今どこにいますか。


 たった今別れたばかりだった。


 白嶺は返信せず、画面を閉じる。


 すぐに、もう一度震えた。


 ――私、加藤さんに会いたいです。


 続けて三通目が届く。


 ――加藤さんも、私に会いたいですよね。


 画面の文字へ、桃色の糸が重なる。


 白嶺の指へ絡みつく前に、光は消えた。


 モモマユは、もう美咲の中へ隠れているだけではない。


 今夜、完全な姿を現す。


 白嶺は歩調を速めた。


 帰る場所は、先に確認しなければならない。


 そのあとで必ず、美咲を取り戻す。

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