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32話「見てほしい人」

翌朝。


 美咲は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 昨夜はなかなか眠れなかったはずなのに、身体は不思議なほど軽い。


 枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばす。


 時刻を確認したあと、そのまま白嶺との連絡画面を開いた。


 新しいメッセージはない。


 当然だった。


 仕事で会うのだから、わざわざ連絡を取る理由はない。


 美咲は画面を閉じようとした。


 しかし、指が止まる。


 何か送ってもいいのではないか。


 昨日はお疲れさまでした。


 今日もよろしくお願いします。


 それくらいなら、不自然ではない。


 文章を入力する。


 読み返してから、すべて消した。


「会社で言えばいいよね」


 自分へ言い聞かせ、スマートフォンを伏せる。


 布団から出ようとしたとき、指先へ淡い桃色が浮かんだ。


 細い糸のような光が、皮膚の下を手首へ向かって進んでいく。


 美咲が瞬きをしたときには、もう何も残っていなかった。


          ◇


 白嶺が営業企画部へ入ると、美咲が真っ先に顔を上げた。


「加藤さん、おはようございます」


『おはよう』


 少し遅れて、玲奈も白嶺を見る。


「おはようございます」


『おはよう、中村さん』


 玲奈の態度は普段と変わらなかった。


 昨日、会議室で交わした話を表へ出す様子もない。


 白嶺は自分の席へ向かい、鞄を置いた。


 パソコンを起動する。


 その間に、美咲が立ち上がった。


「加藤さん、昨日頼まれていた資料です」


『もうできたの?』


「はい。昨日のうちに、できるところまで進めておきました」


 美咲が印刷した資料を差し出す。


 白嶺は受け取り、一枚ずつ確認した。


 数字に誤りはない。


 見出しも整理され、以前指摘した部分が改善されている。


『よくできているわ』


「本当ですか?」


『ええ。これなら、そのまま打ち合わせに使える』


 美咲の顔が明るくなった。


「ありがとうございます」


 その反応は、いつもより少し大きかった。


 白嶺は資料から顔を上げる。


『昨日、遅くまで残っていたの?』


「いえ。家で少し見直しただけです」


『勤務時間外まで使う必要はないわ。次からは、仕事の時間内で終わらせて』


「でも、加藤さんに早く見てもらいたくて」


 美咲が口にしてから、視線を下げた。


「すみません。次から気をつけます」


『怒ってはいないわ』


「はい」


 美咲は小さく笑い、自分の席へ戻った。


 白嶺はその背中を見送る。


 早く見てもらいたかった。


 その言葉が、妙に胸へ残った。


          ◇


 午前中、美咲は何度も白嶺の席を見た。


 以前から視線を感じることはあった。


 仕事の質問をする時機を窺っていることも多い。


 しかし、今日は少し違っていた。


 白嶺が顔を上げるたび、美咲と目が合う。


 そのたびに、美咲は慌てて画面へ戻った。


『佐藤さん』


「はい」


『何か聞きたいことがあるの?』


「いえ。大丈夫です」


『そう』


 白嶺は仕事へ戻った。


 しばらくすると、また視線を感じる。


 声をかけようとしたところで、玲奈が美咲の席へ近づいた。


「佐藤さん、この資料を共有してもらえる?」


「はい。すぐに送ります」


「急がなくていいよ。午後の打ち合わせまでにあればいいから」


「分かりました」


 玲奈は美咲の画面を覗き込んだ。


「朝出してた資料、よくできてたね」


「見ていたんですか?」


「加藤さんが、そのまま使えるって言ってたでしょう」


「はい」


「前より、ずっと見やすくなってる」


「ありがとうございます、中村先輩」


 美咲が嬉しそうに笑う。


 その瞬間、白嶺の胸の奥で紫が揺れた。


 ごく小さな動きだった。


 それでも、確かに感じた。


 面白くない。


 何が面白くないのか、すぐには分からなかった。


 玲奈が美咲を褒めたこと。


 美咲が玲奈へ笑顔を向けたこと。


 自分が先に評価した資料について、二人が親しげに話していること。


 どれも不満を抱くようなことではない。


 部下同士の関係が良くなるのは、上司として喜ぶべきことだった。


 それなのに、二人の会話を終わらせたいと思った。


 佐藤美咲があのような顔を向ける相手は、自分であればいい。


 その考えが浮かび、白嶺の指が止まった。


 胸の奥で、紫がもう一度脈打つ。


 白嶺は視線を画面へ戻した。


 今の感情は、自分のものではない。


 そう切り捨てようとする。


 だが、完全には否定できなかった。


 紫が何もない場所から感情を作ったわけではない。


 シトウは、人の中にある嫉妬を膨らませる色霊だった。


 ならば、先ほど感じたものの種は、白嶺の中にあったことになる。


 美咲に自分を見てほしい。


 他の誰かへ向ける笑顔を、面白くないと感じる。


 そんな思いが自分の中にあることを、白嶺はこれまで考えたこともなかった。


「加藤さん?」


 美咲の声に、白嶺は顔を上げた。


 いつの間にか、美咲が机の前に立っている。


『何?』


「先ほどから手が止まっていたので……体調が悪いんですか?」


『少し考え事をしていただけよ』


「そうですか」


 美咲は白嶺の顔を見つめた。


「本当に大丈夫ですか?」


『ええ』


「何かあったら言ってください。私にできることなら、何でもしますから」


『何でもなんて、簡単に言うものではないわ』


「加藤さんになら大丈夫です」


 美咲は迷わず答えた。


 胸の奥で、今度は赤が動く。


 求められることを喜び、もっと強く縛りつけようとする感情。


 そのすぐ隣で、紫が美咲の言葉を自分だけのものにしようとする。


 白嶺は小さく息を吐いた。


『気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとう』


「はい」


 美咲は満足そうに席へ戻った。


 その後ろ姿へ、白嶺は視線を向けたままになった。


          ◇


 昼休み。


 美咲は玲奈と向かい合って座っていた。


 以前なら、二人だけで昼食を取ることは少なかった。


 昨日の出来事があってから、玲奈に対して近づきにくさを感じていたが、避け続ける方が不自然に思えた。


「昨日はすみませんでした」


 美咲が頭を下げる。


「何が?」


「加藤さんと何を話していたのか、聞いたことです」


「もう気にしてないよ」


「でも、私……」


「気になったんでしょう」


 玲奈は箸を止めた。


「佐藤さん、加藤さんのことばかり見てるから」


「そんなに見ていません」


「今朝から何回目が合った?」


「数えてません」


「数えられないくらいってことね」


 美咲の頬が赤くなる。


「尊敬しているだけです」


「別に、それでいいんじゃない?」


「中村先輩は、気にならないんですか?」


「何が?」


「加藤さんのことです」


 玲奈は美咲を見る。


 昨日までなら、その問いに胸の奥がざわついていたかもしれない。


 今は、感情を自分のものとして見つめることができた。


「仕事のできる上司だと思ってる。それ以外にも思うところはあるけど、佐藤さんが心配してるようなことはないよ」


「心配なんてしていません」


「そう」


 玲奈はそれ以上追及しなかった。


 美咲は食事へ戻る。


 否定したはずなのに、胸が落ち着かなかった。


 玲奈は、自分の知らない白嶺を知っている。


 何を見たのかは教えてくれない。


 聞いてはいけないと分かっている。


 それでも知りたかった。


 白嶺に関することなら、すべて。


 その思いに応えるように、胸元へ淡い桃色が滲んだ。


 服の下で起きた変化に、美咲も玲奈も気づかなかった。


          ◇


 午後、取引先との打ち合わせが行われた。


 白嶺は朝受け取った資料を使い、説明を進めていく。


 同席した美咲は、必要な資料をすぐに提示し、尋ねられた内容にも自分の言葉で答えた。


 以前のように、白嶺の顔色を窺って発言を止めることもない。


 打ち合わせが終わり、取引先を見送る。


 会議室へ戻った白嶺は、資料をまとめている美咲へ声をかけた。


『佐藤さん』


「はい」


『今日の説明、よかったわ』


 美咲の手が止まった。


『質問の意図も理解できていた。あれなら、次から一人でも任せられる』


「一人で、ですか?」


『ええ』


 美咲の表情から、喜びが消えた。


 白嶺はわずかに眉を寄せる。


『不安?』


「そうではありません」


『では、何?』


「一人でできるようになったら、加藤さんは一緒に来てくれなくなるんですか?」


『必要がなければ、そうなるわね』


「……そうですよね」


 美咲は資料へ目を落とした。


 評価されたかった。


 白嶺に成長を認めてもらいたかった。


 それなのに、成長すれば白嶺から離される。


 胸の中で二つの思いが噛み合わなかった。


『佐藤さん』


「すみません。せっかく褒めてもらったのに」


『一人で任せるのは、遠ざけるためではないわ』


 美咲が顔を上げる。


『あなたなら任せられると思ったからよ』


「でも……」


『あたしが必要なときは、一緒に行くわ』


「本当ですか?」


『仕事なのだから、必要なら行くでしょう』


「そうですね」


 美咲は笑った。


 先ほどまでの沈んだ表情が、嘘のように消えている。


 白嶺はその変化を見つめた。


 自分の一言で落ち込み、自分の一言で喜ぶ。


 それを危ういと思う一方で、胸の奥には満たされるものがあった。


 赤が求める。


 もっと自分だけを必要とさせろ。


 紫が囁く。


 その目を、誰にも向けさせるな。


 白嶺は資料を持つ手へ力を込めた。


『戻りましょう』


「はい」


 会議室を出る。


 廊下を歩く美咲の足取りは軽い。


 その背中を見ながら、白嶺は自分の中へ残った感情を認めた。


 シトウを封じたことで、紫の嫉妬は白嶺の中へ移っている。


 玲奈から奪った感情が、そのまま残っているわけではない。


 白嶺自身の中にあるものへ、紫が色を与えている。


 これから先も、消えることはない。


 抑え込むだけでは足りなかった。


 何を感じたのかを理解し、そのうえで行動を選ばなければならない。


          ◇


 帰宅した白嶺は、玄関で靴を脱いだ。


 リビングから彩華の声が聞こえる。


「あぅ」


『ただいま』


 部屋へ入ると、彩華が無月の膝へ片手を置き、立ち上がろうとしていた。


 もう片方の手には、黄色い鳥が握られている。


「おかえりなさいませ」


 無月が彩華の身体を支えた。


 白嶺が近づくと、彩華はすぐに両腕を伸ばす。


 黄色い鳥が床へ落ちた。


『今日は置くのが早いわね』


 白嶺は彩華を抱き上げた。


 彩華が胸元へ顔を寄せる。


 その温かさに、赤が反応する。


 続いて紫が、無月へ小さな棘を向けた。


 自分がいない間、彩華のそばにいた。


 泣いたときに抱き、食事を与え、眠らせた。


 彩華が無月へ慣れていくことを、白嶺自身が望んでいた。


 それなのに、自分の知らない彩華の時間を無月が知っていることへ、わずかな苛立ちを覚えた。


『今日、彩華はどうしていたの?』


「午前中は玩具で遊び、昼食後に一時間ほど眠りました。目覚めたあと、一度泣きましたが、すぐに収まっています」


『どうやって泣きやませたの?』


「抱いただけです」


『そう』


 返事が、思ったより冷たくなった。


 無月が白嶺を見る。


「何か問題がありましたか」


『ないわ』


「では、なぜ不機嫌なのですか」


『不機嫌ではない』


「不機嫌な人間は、よくそう答えます」


 白嶺は無月を見た。


 以前なら、余計なことを言うなと切り捨てていたかもしれない。


 だが今は、自分の中で紫が動いていることを理解していた。


『……彩華が、あたし以外に慣れていくのが面白くないみたい』


 無月が目を瞬いた。


「白嶺様が、私に彩華様を任せたのではありませんか」


『分かっているわ』


「慣れなければ、お守りできません」


『それも分かっている』


「では、何が問題なのですか」


『感情が、理解と同じように動くとは限らないでしょう』


 白嶺は彩華の背中を撫でた。


 紫はまだ、胸の奥で燻っている。


『シトウの感情が残っているのよ』


「嫉妬ですか」


『ええ。中村さんが佐藤さんへ向けていたものと、よく似ている』


「取り除くことはできないのですか」


『封じた色を捨てることはできないわ』


「では、これからも続くのですね」


『続くでしょうね』


 白嶺は自分の腕を見る。


 彩華を抱く力が、わずかに強くなっていた。


 すぐに力を緩める。


『でも、感じることと、従うことは違うわ』


 嫉妬を覚えたからといって、無月から彩華を遠ざける必要はない。


 美咲が玲奈へ笑いかけたからといって、その関係を妨げる理由もない。


 胸の中へ生まれるものを消せなくても、何をするかは選べる。


「以前より、面倒になりましたね」


『誰のせいで色霊を封じていると思っているの?』


「白嶺様御自身の御判断です」


『正しいけれど、腹が立つ答えね』


 無月は何も言わなかった。


 彩華が白嶺の胸元から顔を上げる。


 白嶺と無月を交互に見たあと、床へ落ちた黄色い鳥へ手を伸ばした。


『今度はそれが欲しいの?』


「あー」


 無月が鳥を拾い、彩華へ渡す。


 彩華は受け取ると、すぐに白嶺の胸へ戻った。


 その姿を見て、紫の棘が少しだけ薄くなる。


          ◇


 夜。


 美咲は机へ向かい、今日の打ち合わせで使った資料を見直していた。


 一人でも任せられる。


 白嶺にそう言われたことは嬉しかった。


 自分の努力を認めてもらえた。


 以前なら、それだけで満足できたはずだった。


 しかし今は、違う。


 一人でできるようになれば、白嶺と過ごす時間が減ってしまう。


 質問する理由も、教えてもらう機会もなくなっていく。


「もっと頑張りたいのに……」


 努力すれば、認めてもらえる。


 認められれば、離れていく。


 どちらを望めばいいのか分からなかった。


 美咲は資料を閉じ、スマートフォンを手に取った。


 白嶺との連絡画面を開く。


 今日はありがとうございました。


 次も頑張ります。


 文章を入力する。


 送信しようとしたところで、時刻が目に入った。


 午後十一時を過ぎている。


 仕事の連絡をする時間ではない。


 美咲は文章を消した。


 それでも画面を閉じることはできなかった。


「加藤さんは、今、何をしているんだろう」


 彩華と一緒に眠っているのかもしれない。


 玲奈は、白嶺の秘密を知っている。


 自分だけが、白嶺から離れた場所にいる。


 そう考えた瞬間、胸の奥から寂しさが溢れた。


 桃色の糸が、美咲の指先から画面へ伸びる。


 そこに表示された白嶺の名前を、何重にも囲んでいく。


 美咲の瞳へ、ごく淡い桃色が差した。


「もっと、私を見てほしい」


 唇から零れた言葉に、美咲自身が驚いた。


 胸へ手を当てる。


 鼓動が速い。


 それでも、不快ではなかった。


 白嶺に見てほしい。


 白嶺に必要とされたい。


 白嶺の一番近くにいたい。


 以前から抱いていたはずの願いが、今夜はひどく甘く感じられた。


 その思いを包み込むように、桃色の糸が美咲の胸の奥へ根を張っていく。


 美咲は気づかない。


 ただ、画面に表示された白嶺の名前を、いつまでも見つめ続けていた。

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