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31話「見たもの」

翌朝。


 白嶺が営業企画部へ入ると、玲奈はすでに出社していた。


 自分の席に座り、パソコンの画面へ目を向けている。


 服装も髪型も、普段と変わらない。


 顔色も悪くはなかった。


 白嶺は玲奈の横を通り、自分の席へ鞄を置いた。


『おはよう』


「おはようございます」


 玲奈は画面を見たまま答えた。


 声にも、目立った変化はない。


 白嶺はパソコンの電源を入れた。


 予定表を確認し、届いているメールへ目を通していく。


 玲奈も仕事を続けている。


 二人の間に、昨夜の出来事を示すものは何もなかった。


 白嶺が刀を振るったこと。


 玲奈の身体から、紫の色霊が現れたこと。


 白髪が膝まで伸び、その一部へ生来の虹色が走ったこと。


 その姿を、玲奈がはっきりと見ていたこと。


 すべてが、会社の朝には似つかわしくなかった。


「加藤さん」


 始業時刻の少し前、玲奈が声をかけた。


『何?』


「あとで少し、お時間いただけますか」


『仕事の話?』


「違います」


 玲奈は短く答えた。


 白嶺を見る目には、昨夜までなかった警戒が残っている。


 恐れているわけではない。


 しかし、これまでと同じ相手として見ることもできない。


『分かったわ。会議室が空いたら呼んで』


「はい」


 それだけ話し、玲奈は自分の席へ戻った。


 少し離れたところから、美咲が二人を見ていた。


 目が合うと、美咲は慌てて画面へ顔を戻した。


          ◇


 午前十時。


 社内の小さな会議室には、白嶺と玲奈の二人だけがいた。


 玲奈が扉を閉める。


 念のため廊下を確かめてから、白嶺の向かいへ座った。


 机の上には何もない。


 仕事の資料も、筆記用具も持ってきていなかった。


「昨日のことなんですけど」


『ええ』


「あれ、夢じゃないですよね」


『夢だったことにしたい?』


「そうできるなら、そうしたいです。でも無理でしょう」


 玲奈は自分の手を見た。


 震えてはいない。


 昨夜、自分の意思とは関係なく動いた手だった。


「全部、覚えています」


 白嶺は何も言わず、続きを待った。


「加藤さんに言ったことも、あれが私の身体を使って話したことも。自分が何をしているのか分かっているのに、止められませんでした」


『意識は残っていたのね』


「はい。加藤さんが刀を抜いたところも見ました」


 玲奈が白嶺の髪を見る。


 今は肩より少し下まで伸びた、普段どおりの白髪だった。


「髪も伸びていましたよね。膝くらいまで。虹色にもなっていた」


『そうね』


「その反応だと、私の見間違いではなさそうですね」


『残念ながら』


「何だったんですか、あれ」


 玲奈の問いに、白嶺はすぐには答えなかった。


 どこまで話すべきかを考える。


 玲奈はすでに色霊を見ている。


 曖昧な言葉で誤魔化しても、納得はしないだろう。


『色霊と呼ばれるものよ』


「しきれい?」


『人の感情へ入り込み、その人を器にする。中村さんに取り憑いていたものは、紫の色霊だった』


「シトウ……でしたっけ」


『覚えているのね』


「自分の口で名前を言わされましたから」


 玲奈の声が少しだけ低くなる。


「私が加藤さんに感じていたことも、全部知られていたんですか」


『あれは、中村さんの中にある感情を利用する』


「では、あれが言ったことは、全部私が思っていたことなんですね」


『感情の元は、そうかもしれない』


 玲奈の顔が強張った。


 白嶺は静かに続けた。


『でも、それを歪めて膨らませたのはシトウよ。中村さんが自分で選んだ言葉でも、行動でもないわ』


「だから気にするな、と?」


『気にするかどうかは中村さんが決めることよ。ただ、あれをすべて自分の本心だと思う必要はない』


 玲奈はしばらく黙っていた。


 白嶺と美咲の距離を妬んでいた。


 自分より後から入ってきた美咲が、白嶺から目をかけられているように感じていた。


 白嶺に認められたいという気持ちもあった。


 その感情まで否定するつもりはない。


 ただ、それを理由に白嶺を傷つけようとしたわけではなかった。


「……そういうことにしておきます」


『ええ』


「それで、加藤さんは何者なんですか」


『この会社の社員よ』


「そういうことを聞いているんじゃありません」


『分かっているわ』


 白嶺は表情を変えなかった。


『でも、それ以上は話せない』


「色霊を刀で斬って、身体の中へ封じていましたよね」


『見えていたのね』


「全部覚えていると言ったでしょう」


 玲奈は小さく息を吐いた。


「警察に届け出た方がいいものですか」


『何を?』


「刀を持った会社員が、紫色の化け物を斬って自分の中に吸収しました、と」


『信じてもらえるといいわね』


「無理でしょうね」


『なら、やめた方がいいと思う』


「自分のことなのに、他人事ですね」


『届け出るのは中村さんでしょう』


「言いませんよ」


 玲奈は椅子の背へ身体を預けた。


「言ったって誰も信じてくれないだろうし。それに、こんな事をおもしろがって話しても、私にメリットありませんから」


『そう』


「それだけですか?」


『中村さんがそう判断したのなら、あたしから言うことはないわ』


「口止めしなくていいんですか」


『無理に止めても意味がないもの』


 白嶺は玲奈を見た。


『それに、中村さんは話さないでしょう』


「……ずいぶん信用されていますね」


『損になることを進んでする人ではないと思っているわ』


「褒められている気がしません」


『褒めてはいないもの』


 玲奈は一瞬だけ呆れた顔をした。


 その表情は、白嶺が知っている中村玲奈のものだった。


「もう、私の中にはいないんですよね」


『ええ。シトウは封じた。中村さんの中には何も残っていないわ』


「また取り憑かれることは?」


『同じものに取り憑かれることはない』


「同じものには、ですか」


 玲奈は白嶺の言葉を聞き逃さなかった。


「他にもいるんですね」


『いるわ』


「何体ですか」


『それも話せない』


「聞くだけ無駄そうですね」


『そうしてもらえると助かるわ』


 白嶺は席を立った。


『仕事へ戻りましょう。午前中に終わらせるものが残っているから』


「こんな話のあとで、普通に仕事するんですか」


『勤務時間中よ』


「本当に、何なんですか。加藤さん」


『主任』


「もういいです」


 玲奈も立ち上がった。


 会議室を出る前に、白嶺の背中を見る。


 昨夜、その手には宿彩があった。


 今は何も持っていない。


 白いブラウスと黒いパンツを身につけた、いつもの上司だった。


 それでも、もう以前とまったく同じようには見えなかった。


          ◇


 二人が会議室から戻ると、美咲が顔を上げた。


「加藤さん、中村先輩、お疲れさまです」


『お疲れさま』


「お疲れ」


 玲奈は普段と変わらない調子で答え、自分の席へ向かった。


 白嶺も席へ戻る。


 何を話していたのか、美咲には分からない。


 仕事の資料を持っていなかったことには気づいていた。


 二人だけで会議室へ入り、二十分近く話していた。


 白嶺が仕事以外のことで、誰かとそれほど長く話すことは珍しい。


 美咲は画面へ視線を戻した。


 入力しかけていた文章を読み直す。


 内容が頭へ入ってこない。


 白嶺と玲奈の間に、昨日まではなかった何かがある。


 そう感じた。


 昼休みになり、玲奈が席を立った。


 美咲も少し遅れて立ち上がる。


「中村先輩」


「何?」


「昨日、何かあったんですか?」


 玲奈の足が止まった。


「どうして?」


「加藤さんと、何かお話しされていたので」


「仕事の確認よ」


「でも、資料を持っていませんでしたよね」


「よく見てるわね」


 美咲は言葉に詰まった。


「すみません。詮索するつもりでは……」


「だったら、気にしなくていいよ」


 玲奈の返事は冷たくはなかった。


 しかし、それ以上は尋ねるなという線が引かれている。


「……はい」


 美咲は小さく答えた。


 玲奈が歩き出す。


 数歩進んだところで、もう一度立ち止まった。


「佐藤さん」


「はい」


「加藤さんとは、本当に何もないから」


「え?」


「変な心配しなくていいってこと」


「私は別に、そういうつもりで聞いたわけでは……」


「そう。ならいいけど」


 玲奈はそのまま休憩室へ向かった。


 美咲は廊下に残された。


 そういうつもりではない。


 自分へ、もう一度言い聞かせる。


 白嶺と玲奈が何を話していても、美咲には関係がない。


 仕事の先輩と上司なのだから、自分の知らない話があって当然だった。


 それでも、胸の奥へ小さな棘が残った。


          ◇


 午後の業務は、何事もなく進んだ。


 玲奈は普段どおり白嶺へ報告し、必要があれば意見も伝えた。


 白嶺も、これまでと同じように指示を出す。


 昨夜のことを会社へ持ち込むつもりは、二人ともなかった。


「加藤さん、この集計ですけど」


『三ページ目の数字が合っていないわ』


「まだ何も言ってませんけど」


『直してほしいのでしょう』


「……はい」


『原因は二つ目の表。計算範囲が一行ずれている』


 玲奈が自分の画面を確認する。


 白嶺の指摘どおりだった。


「分かりました。直します」


『お願い』


 玲奈は席へ戻る。


 その背中を見ながら、美咲は唇を結んだ。


 会話そのものは、いつもと変わらない。


 それなのに、玲奈は以前より白嶺へ遠慮がなくなったように見えた。


 白嶺も、それを気にしていない。


 美咲は自分の資料へ目を落とした。


 白嶺の家を訪ねた日、自分は少しだけ距離を縮められたと思っていた。


 彩華のことを知った。


 会社では見られない白嶺の姿を見た。


 自分だけが知っている部分があることを、嬉しく感じていた。


 しかし今は、玲奈にも自分の知らない白嶺がいる。


 胸の奥が、落ち着かなかった。


「佐藤さん」


 白嶺に呼ばれ、美咲は慌てて顔を上げた。


「はい」


『頼んでいた資料は?』


「できています。すぐに送ります」


『そう。急がなくていいから、確認してから送って』


「はい」


 白嶺はそれだけ言って、自分の画面へ戻った。


 美咲は作成した資料を開く。


 一つずつ数字を確認する。


 仕事へ集中しようとするほど、会議室から戻ってきた二人の姿が浮かんだ。


          ◇


 退勤後、白嶺はまっすぐ自宅へ戻った。


 玄関を開けると、彩華の声が聞こえる。


「あー」


『ただいま』


 リビングへ入る。


 彩華は床に座り、黄色い鳥を両手で持っていた。


 その隣には、耀彩を手の届く位置へ置いた無月がいる。


「おかえりなさいませ」


『変わったことは?』


「ありません。色霊の気配も感じませんでした」


『そう』


 白嶺は鞄を置き、彩華を抱き上げた。


 休園届を出しているため、彩華は今日も一日、自宅で無月と過ごしていた。


 すべての色霊を封じるまでは、保育園へ戻すことはできない。


 彩華が白嶺の髪へ手を伸ばす。


『引っ張らないで』


「あぅ」


 言いながらも、白嶺はその手を強く払わなかった。


「中村玲奈は、昨夜のことを覚えていましたか」


『全部覚えていたわ』


「では、白嶺様の姿も」


『見られた』


「口を封じますか」


『物騒ね』


「情報を守るためです」


『必要ないわ。中村さんは誰にも話さない』


「信用されるのですか」


『あたしを裏切らないという意味ではないわ。話したところで自分に得がないと判断しているだけ』


「では、その判断が変われば話す可能性があります」


『変わったときに考える』


 無月は納得していない顔をした。


 それでも、白嶺の判断へ反論はしなかった。


『それに、あの人は自分が見たものを面白半分で広めるような人ではないわ』


「やはり、信用されているように聞こえます」


『そうかもしれないわね』


 白嶺は彩華を抱いたまま、宿彩へ目を向けた。


 七つの色が、その内側に封じられている。


 残る色は、あと五つ。


 次がいつ現れるかは分からない。


 だが、会社へ宿彩を持っていくつもりはなかった。


 人の中に色霊の気配を感じたとしても、まず帰宅して宿彩を取り、それから追う。


 その間、彩華は無月が守る。


 今は、それが最も危険の少ない方法だった。


          ◇


 同じ頃。


 美咲は自宅のベッドへ座っていた。


 手にはスマートフォンがある。


 白嶺との連絡画面を開いているが、新しいメッセージは届いていない。


 自分から送る用事もなかった。


 画面には、以前送ってもらった住所が残っている。


 白嶺の家を訪ねた日のことを思い出す。


 会社とは違う服装。


 彩華を抱く姿。


 少しだけ気の抜けた表情。


 それを知ることができたとき、自分は白嶺へ近づけたと思った。


 けれど、今日の玲奈は、自分が知らない何かを知っていた。


「……何を話してたんだろう」


 声に出しても、答えはない。


 美咲は画面を閉じた。


 黒くなった液晶に、自分の顔が映る。


 気にする必要はない。


 白嶺が誰と何を話そうと、自由だ。


 自分は部下の一人にすぎない。


 そう理解している。


「私も、もっと……」


 続きは言葉にならなかった。


 白嶺の近くへ行きたい。


 もっと多くを知りたい。


 自分を見てほしい。


 胸の奥にある気持ちは、以前から変わらない。


 ただ今夜は、その思いに寂しさが混じっていた。


 美咲はスマートフォンを伏せ、ベッドへ横になる。


 部屋の明かりを消す。


 暗闇の中、伏せた画面の縁へ、ごく細い桃色の糸が現れた。


 糸は美咲の指先へ触れ、すぐに肌の内側へ溶けていく。


 美咲は気づかない。


 目を閉じたまま、白嶺の横顔を思い浮かべていた。

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