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30話「理想の向こう」

白嶺は、紫の気配を追っていた。


 玲奈が向かった駅とは反対側へ進む。


 人通りの多い大通りを抜け、閉店後の店舗が並ぶ道へ入った。


 玲奈が自宅へ帰ろうとしていないことは明らかだった。


 シトウに導かれている。


 宿彩を握る。


 紫の気配は、少しずつ濃くなっていた。


          ◇


 玲奈は、閉館した商業施設の前に立っていた。


 建物の正面は大きなガラスで覆われている。


 照明は落ちているはずなのに、その奥には営業企画部が映っていた。


 中央の席へ座っているのは玲奈だった。


 周囲の社員が資料を持ち、玲奈の指示を待っている。


 美咲もその中にいた。


「中村さん、次はどうすればいいですか?」


 ガラスの向こうから、美咲の声が聞こえる。


 玲奈は一歩近づいた。


「私の指示を聞くの?」


「はい。中村さんが一番頼りになりますから」


 部長が玲奈の前へ立つ。


「次の主任は、君しかいない」


 誰も玲奈を白嶺と比べない。


 誰も玲奈より白嶺を選ばない。


「これが、私のいるべき場所……」


「そうよ」


 紫の女が、ガラスの中へ現れた。


「あなたは、奪われていただけ」


「誰に?」


「白嶺に」


 映像の中へ白嶺が現れる。


 社員たちは玲奈から離れ、白嶺の周りへ集まっていった。


 美咲も玲奈へ背を向ける。


「加藤さん、教えてください」


「加藤さんに任せれば安心です」


「加藤さんが一番です」


 玲奈はガラスへ手をついた。


「やめて」


「これが現実」


 紫の女が笑う。


「だから、変えなければならない」


 ガラスに映る白嶺が、玲奈の席へ座った。


 玲奈の姿は、誰もいない部屋の隅へ追いやられる。


「あなたの居場所を取り戻して」


 紫色の光が、玲奈の指先から腕へ昇っていく。


「白嶺を倒せば、すべてあなたのものになる」


『それで得たものは、中村さんのものではないわ』


 背後から声がした。


 玲奈が振り返る。


 宿彩を手にした白嶺が立っていた。


「……どうして、ここにいるんですか」


『あなたを迎えに来たの』


「私を?」


『ええ』


 白嶺は玲奈の背後にあるガラスを見る。


 紫の女が、笑みを浮かべている。


『シトウ。中村さんから離れなさい』


「私には必要なものよ」


『中村さんは、あなたを必要としていないわ』


「勝手に決めないでください」


 玲奈が言った。


 その声には、はっきりと怒りが含まれていた。


「加藤さんは、いつもそうです」


『何が?』


「何でも自分で決める。仕事の進め方も、誰に何を任せるかも」


『あたしは主任よ。決めるのが仕事でしょう』


「そうやって、何を言っても正しい顔をする」


 玲奈の身体を紫色の光が包む。


「私だって、加藤さんと同じことができます」


『できるでしょうね』


 玲奈が目を見開いた。


『でも、今のあなたはシトウに操られている』


「違います」


『なら、そのガラスから離れなさい』


 玲奈は動かなかった。


『できないでしょう』


「黙ってください」


 周囲のガラスが、一斉に紫色へ染まった。


 玲奈の影が足元から広がっていく。


 黒かった髪が紫色へ変わり、その瞳にも同じ色の光が宿った。


 白嶺は宿彩を抜く。


 玲奈の背後から、紫の女が身体を重ねた。


「邪魔をするなら、あなたを消せばいい」


 声が二重に響く。


 次の瞬間、ガラスの中から無数の玲奈が現れた。


          ◇


 白嶺を囲むように、玲奈の姿が並ぶ。


 すべて同じ顔をしていた。


 すべて同じ紫の瞳で、白嶺を見ている。


「私の方が優れている」


 一人が言った。


「私の方が必要とされるべきだった」


 別の一人が続ける。


「あなたさえいなければ」


 すべての玲奈が、同時に手を伸ばした。


 紫色の破片が宙へ浮かぶ。


 白嶺へ向かって、一斉に放たれた。


 白嶺は宿彩を振るう。


 刃が紫の破片を弾く。


 砕かれた破片は地面へ落ちず、再び玲奈の姿へ変わった。


 白嶺の髪が伸び、宿彩の刃へ封じた色が重なる。


『面倒な力ね』


「怖いんですか?」


 左右から玲奈が迫る。


 白嶺は身体を引き、二人の間を抜けた。


 背後から伸びた紫の腕を、宿彩で斬り払う。


 腕は霧のように消えた。


 だが、玲奈の姿はさらに増えていく。


「どれが本物か、分かりますか?」


 白嶺は周囲を見る。


 目に映るものは、すべてシトウが作り出した像だった。


 建物のガラス。


 店舗の窓。


 水たまり。


 宿彩の刃にまで、異なる玲奈が映っている。


「間違えれば、あなたの部下を斬ることになる」


 シトウの声が響く。


「それでも、刃を振るえる?」


 白嶺は宿彩を下ろした。


「諦めるの?」


『違うわ』


 白嶺は目を閉じる。


 見えるものが偽物なら、見る必要はない。


 胸の奥に封じた六つの色へ意識を向ける。


 赤、橙、黄、褐、緑、藍。


 それらとは異なる色が、一つだけ周囲を動いていた。


 紫の気配。


 玲奈の姿を借りながら、その内側を行き来している。


 白嶺は息を整えた。


 右側から、紫の破片が飛んでくる。


 一歩だけ後ろへ下がる。


 破片が頬の横を通り過ぎた。


 続いて、正面から複数の気配が迫る。


 白嶺は動かない。


「斬れないのでしょう」


 玲奈の声が近づく。


『中村さんは、そこにはいない』


 白嶺は身体を反転させた。


 目を閉じたまま、背後のガラスへ宿彩を振り抜く。


 刃が鏡面へ触れた。


 ガラスは割れなかった。


 代わりに、その表面を覆っていた紫色だけが裂ける。


 女の悲鳴が響いた。


「なぜ……!」


 周囲にいた玲奈の姿が、一斉に崩れた。


 白嶺は目を開く。


 本物の玲奈は、ガラスの前で膝をついていた。


 その背中から、紫の女が半身を現している。


『見つけたわ』


 白嶺は宿彩を構えた。


          ◇


 シトウが玲奈の身体から腕を伸ばす。


 紫の破片が集まり、長い刃へ変わった。


 白嶺は正面から受け止める。


 宿彩と紫の刃がぶつかり、光が散った。


「この女の願いを、あなたが否定した!」


『否定していないわ』


「この女は、あなたを憎んでいる!」


『そうかもしれないわね』


 シトウの顔から笑みが消える。


 白嶺は刃を押し返した。


『中村さんの不満も、嫉妬も、中村さん自身のものよ』


 シトウが後ろへ下がる。


『あたしが勝手に偽物だと決めることではないわ』


「ならば、この女は私を選ぶ」


『それも、中村さんが決めることよ』


 白嶺は玲奈を見る。


『聞こえているでしょう、中村さん』


 玲奈の指がわずかに動く。


「聞く必要はない」


 シトウが玲奈の身体へ戻ろうとする。


 白嶺は踏み込み、その間へ宿彩を差し入れた。


 刃から放たれた光が、玲奈とシトウを分ける。


「やめて!」


 紫色の光が激しく揺れた。


 シトウが、再び周囲のガラスへ姿を映す。


 今度は白嶺の前にも、一つの光景が現れた。


 穏やかな自宅。


 彩華が笑いながら部屋を歩いている。


 色霊の気配はない。


 虹結家の追っ手も来ない。


 無月も刀を持たず、普通の服を着て笑っている。


「あなたにも、望むものがある」


 シトウが囁く。


「戦わなくていい暮らし」


 白嶺は映像を見る。


「子供を危険にさらさない日々」


 彩華が白嶺へ手を伸ばす。


「ここへ来れば、すべて手に入る」


 白嶺は宿彩を握り直した。


『要らないわ』


 ガラスの中の彩華が消える。


「嘘をつくな」


『欲しくないとは言っていない』


 白嶺はシトウを見る。


『でも、理想は誰かに見せてもらうものではないわ』


 宿彩の切っ先を向ける。


『自分で選んで、近づいていくものよ』


 白嶺が踏み込む。


 シトウは紫の刃を振り下ろした。


 白嶺は横へかわし、その懐へ入る。


 宿彩の柄頭を、シトウの胸へ打ち込んだ。


 紫の身体が玲奈から離れる。


 その瞬間、玲奈が顔を上げた。


「加藤さん……」


『中村さん。戻りなさい』


「私は……」


『あなたの不満は、あとで全部聞くわ』


 白嶺は玲奈へ手を伸ばす。


『だから、今はそいつの言葉ではなく、自分で決めなさい』


 玲奈は、差し出された手を見る。


 シトウが背後から叫ぶ。


「その手を取れば、また白嶺の下へ戻るだけ!」


 玲奈の手が止まった。


「あなたは一生、二番目のままよ!」


 紫の光が玲奈の足へ絡みつく。


 玲奈は唇を噛んだ。


「……二番目でも」


 白嶺を見る。


「誰かに一番だと思い込まされるよりは、ましです」


 玲奈は白嶺の手を掴んだ。


 白嶺が玲奈を引き寄せる。


 紫の光が、玲奈の身体から完全に剥がれ落ちた。


          ◇


 シトウは紫色の女の姿を保ったまま、二人から離れた。


 周囲のガラスが細かく震えている。


「許さない」


 無数の破片がシトウの周囲へ集まる。


「すべてを壊して、理想だけを残す!」


 白嶺は玲奈を背後へ下がらせた。


『目を閉じていて』


「でも――」


『大丈夫よ』


 白嶺は宿彩を両手で構える。


 シトウが腕を振る。


 無数の破片が、一斉に白嶺へ向かった。


 白嶺は前へ出る。


 最初の破片を斬る。


 続く破片を刃の側面で流し、身体を沈める。


 頭上を紫の光が通り過ぎた。


 シトウまでの距離が縮まる。


「来るな!」


 足元の水たまりから、紫の腕が伸びる。


 白嶺の足首を掴もうとする。


 白嶺は地面へ宿彩を突き立てた。


 光が水面を走り、紫の腕を消し去る。


 そのまま宿彩を引き抜き、シトウへ踏み込んだ。


『終わりよ』


 横一文字に刃を振るう。


 宿彩が、シトウの身体を斬り抜けた。


 紫色の身体が崩れる。


 散った光が宿彩へ集まり、刀身の中へ吸い込まれていく。


「私が見せたものは、この女の本心よ」


 消えかけたシトウが、玲奈を見る。


「いつかまた、同じ理想を求める」


『そのときは、自分で向き合うわ』


 最後の紫色が、宿彩へ封じられた。


 周囲のガラスが元の色へ戻る。


 夜の通りに静けさが戻った。


          ◇


 玲奈は、その場へ座り込んでいた。


 髪も瞳も、元へ戻っている。


 白嶺は宿彩を鞘へ納め、玲奈の前へしゃがんだ。


『立てる?』


「……はい」


 玲奈は白嶺の手を借りて立ち上がった。


 目を合わせようとしない。


「私、加藤さんに、いろいろ言いましたよね」


『言ったわね』


「覚えています」


『そう』


「忘れたことには、してくれないんですね」


『忘れたふりをしても、あなたの中には残るでしょう』


 玲奈は俯いた。


「すみませんでした」


『謝る前に、一つだけ確認させて』


「何ですか?」


『佐藤さんに仕事を教えることが増えたのが、嫌だった?』


 玲奈は答えなかった。


 沈黙が続く。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……私の代わりになるのかと思いました」


『誰が?』


「佐藤さんです」


 玲奈は白嶺を見る。


「加藤さんは、最近ずっと佐藤さんを見ています。質問に答えて、仕事を教えて、できたら褒めて」


『佐藤さんは、まだ教える必要があるからよ』


「私は、何も言われません」


『あなたには、任せているから』


「それが分かりませんでした」


 白嶺は黙った。


 玲奈なら、言わなくても分かると思っていた。


 仕事を任せること自体が、信頼の表れだと。


 だが、それは白嶺の考えでしかない。


『言葉にしなかったのは、あたしの落ち度ね』


「加藤さんが謝るんですか」


『悪かったところは謝るわ』


 玲奈は困ったように眉を寄せた。


『でも、仕事で間違っていると思ったことは、これからも指摘する』


「そこは変わらないんですね」


『ええ』


「少しくらい、今は優しくしてくれてもいいんじゃないですか」


『十分優しくしているつもりよ』


「そういうところです」


 玲奈が小さく笑った。


 いつもの玲奈の笑い方だった。


『帰れる?』


「帰れます」


『念のため、家の近くまで送るわ』


「その刀を持ったままですか?」


 白嶺は宿彩を見る。


『……そうね』


「通報されますよ」


『布に包んでくればよかったわ』


「今さら気づいたんですか?」


『急いでいたの』


 玲奈はもう一度笑った。


 先ほどまで周囲を覆っていた紫の気配は、完全に消えていた。


          ◇


 玲奈を送り届けたあと、白嶺は自宅へ戻った。


 扉を開けると、無月が玄関で待っていた。


「お帰りなさいませ、白嶺様」


『ただいま』


 無月は白嶺の身体を確認する。


「お怪我は」


『ないわ』


「玲奈という方は?」


『無事よ』


 白嶺は宿彩を無月へ見せる。


 刀身の奥に、新たな紫色が沈んでいる。


『シトウも封じたわ』


「これで七つ」


『ええ』


 室内は静かだった。


『彩華は?』


「先ほど眠りました」


 白嶺は寝室へ向かう。


 ベビーベッドの中で、彩華が黄色い鳥を胸元へ抱いて眠っていた。


 白嶺は起こさないよう、その寝顔を見る。


 戦わなくてもいい暮らし。


 シトウが見せた理想を思い出す。


 その日が来るのを待つつもりはない。


 十二の色をすべて封じ、自分の手で辿り着く。


 白嶺は眠る彩華の頭を、静かに撫でた。

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