29話「奪われる評価」
玲奈は、営業企画部の中央に立っていた。
部長も、同僚も、美咲も、自分の言葉を待っている。
机の上には、玲奈が作成した企画書が置かれていた。
誰も内容へ異議を唱えない。
「今回の方針は、これで進めます」
玲奈が告げる。
全員が頷いた。
部屋の隅には白嶺が立っている。
いつものように指示を出すこともなく、玲奈を見ていた。
「加藤さん」
玲奈は白嶺の前へ立つ。
「これで分かりましたか?」
白嶺は何も答えない。
「私の方が、あなたより上です」
その言葉を聞いた瞬間、周囲から拍手が起こった。
美咲も嬉しそうに玲奈を見ている。
「やっぱり、中村さんの方がすごいです」
玲奈は笑った。
ようやく、全員が正しく自分を見ている。
白嶺だけに集まっていた評価が、自分へ戻ってきた。
最初から、こうなるべきだった。
◇
目を開ける。
見慣れた自室の天井があった。
玲奈は布団の中で、しばらく動かなかった。
夢だった。
だが、夢の中で感じた満足感は、目覚めたあとも胸へ残っている。
玲奈は身体を起こした。
部屋の姿見へ、自分の姿が映っている。
寝起きの乱れた髪。
化粧もしていない顔。
そこに紫色の光が重なった。
鏡の中に、スーツ姿の玲奈が現れる。
部下を従え、迷いなく指示を出している。
「あれが、本当のあなた」
昨夜と同じ声だった。
玲奈は鏡へ近づく。
「今日、証明すればいい」
「何を?」
「あなたの方が優れていることを」
鏡の中の玲奈が笑う。
玲奈自身の口元も、わずかに上がった。
◇
白嶺は普段より早く、自宅を出る準備を整えていた。
昨夜感じた紫の気配は、会社のある方角から生じていた。
相手が社員とは限らない。
周囲には飲食店や商業施設も多く、駅を利用する人間もいる。
それでも、気配を感じた時刻が退勤直後だったことは無視できなかった。
「白嶺様」
無月が声をかける。
「本当に、お一人で向かわれるのですか」
『会社へ行くだけよ』
「しかし、シトウが近くにいるのでしょう」
『だからといって、あなたまで来たら彩華を守る人がいなくなるわ』
無月は黙った。
リビングでは、彩華が黄色い鳥を床へ置き、その横を這っている。
色霊をすべて封印するまで、保育園には通わせない。
白嶺が会社へ行く以上、無月には自宅へ残ってもらう必要があった。
『まだ誰に取り憑いたかも分からないの。今日は様子を見るわ』
「気配の主を見つけても、無理に戦わないでください」
『分かっているわ』
宿彩は自宅に置いていく。
会社へ長刀を持ち込むわけにはいかない。
白嶺は鞄を肩へかけた。
『彩華をお願い』
「承知しました」
無月はまっすぐに白嶺を見る。
「必ず、お戻りください」
『仕事が終われば帰ってくるわよ』
「色霊の話をしています」
『……分かっているわ』
白嶺は彩華の頭へ触れ、自宅を出た。
◇
白嶺が営業企画部へ入ったとき、玲奈はすでに仕事を始めていた。
『おはよう、中村さん』
「おはようございます」
『早いわね』
「昨日の資料に、追加しておきたいものがあったので」
玲奈の画面には、新しい分析表が表示されている。
昨日、白嶺の指示に従って修正したものとは別の資料だった。
『見てもいい?』
「どうぞ」
白嶺は玲奈の隣から画面を見る。
年代ごとの反応だけではなく、生活様式や購入動機によって回答者が分けられていた。
見やすく整理されている。
昨日の短い時間で作成したものとしては、十分な出来だった。
『よくまとめたわね』
「ありがとうございます」
『この切り口は、補足資料として使えるわ』
玲奈の表情がわずかに動いた。
「補足ですか?」
『ええ。前回との比較には昨日の集計表を使う。こちらは、今回の傾向を説明するときに加えましょう』
「こちらを中心にした方が、分かりやすいと思います」
『今回の結果だけを見るならね』
「前回との比較を優先して、今回の特徴を分かりにくくする必要がありますか?」
『どちらかを捨てる必要はないわ』
白嶺は二つの資料を見比べる。
『比較用と分析用で役割を分ければいい。あなたが作ったものも無駄にはならない』
「そうですか」
玲奈は画面へ視線を戻した。
褒められた。
採用もされた。
それでも、中心となる資料は白嶺が指示したものだった。
結局、最後に決めるのは白嶺だ。
『中村さん』
「何ですか?」
『何か気になることがある?』
「ありません」
玲奈はそう答え、作業を再開した。
消えた画面に、一瞬だけ自分の顔が映る。
その背後で、紫色の影が笑った。
◇
午前中の打ち合わせで、美咲は修正した企画書を提出した。
「対象ごとに、使用場面を分けました」
白嶺は資料を読み進める。
『数字の根拠も入っているわね』
「はい。中村さんに教えていただいた資料も使いました」
『分かりやすくなったわ』
「ありがとうございます」
玲奈は二人の会話を聞きながら、手元の資料へ目を落としていた。
美咲が使った数値は、玲奈がまとめたものだ。
その数値がなければ、この企画書は完成していない。
それなのに、白嶺が評価したのは美咲だった。
「佐藤さん」
玲奈が口を開く。
「はい」
「三十代後半の使用場面、二十代向けとほとんど変わらなくない?」
美咲が資料を見る。
「商品を使う目的は同じですが、購入するきっかけを変えています」
「言葉を変えただけに見えるけど」
「そうでしょうか」
「対象を分けるなら、もっと明確に差を出さないと意味がないでしょう」
美咲の表情が曇る。
「すみません。もう一度考えてみます」
『待って』
白嶺が止めた。
『佐藤さんの分け方で問題ないわ』
「ですが、ほとんど同じです」
『商品そのものの用途は変わらないのだから、完全に別の見せ方にする必要はないでしょう』
「それでは、対象を分ける意味がありません」
『購入へ至る理由が違う。それを示せているなら意味はあるわ』
玲奈は白嶺を見る。
「加藤さんは、佐藤さんの案だから認めているんですか?」
室内が静かになった。
美咲が玲奈を見る。
白嶺は表情を変えなかった。
『どういう意味?』
「そのままの意味です」
『誰の案かで判断を変えたことはないわ』
「本当にそうですか?」
『ええ』
短い返事だった。
玲奈の胸の奥で、紫色の光が膨らむ。
「また、あなたの評価を奪った」
声が聞こえる。
玲奈は周囲を見る。
誰も反応していない。
「あなたが作った数字で、あの子だけが褒められた」
美咲が不安そうに玲奈を見ている。
「中村さん……」
「何?」
「私の企画書に問題があるなら、もう一度教えていただけませんか」
「加藤さんが問題ないって言ってるんだから、そのままでいいんじゃない?」
「でも――」
「私の意見より、加藤さんの言うことを聞きたいんでしょう」
「そういうことではありません」
「もういいよ」
『中村さん』
白嶺の声が低くなる。
『今は仕事の話をしているの。感情を持ち込まないで』
玲奈は唇を噛んだ。
「……すみません」
『少し休憩してきなさい』
「必要ありません」
『中村さん』
「分かりました」
玲奈は席を立った。
営業企画部を出る直前、廊下側のガラスへ視線を向ける。
映っている自分の隣には、紫色の女が立っていた。
◇
玲奈が部屋を出たあと、美咲は資料を抱えたまま動けずにいた。
「私、何かしてしまったんでしょうか」
『あなたのせいではないわ』
「でも、中村さんがあんな言い方をするなんて……」
玲奈は、必要なことをはっきり言う。
厳しく聞こえることはあっても、理由もなく後輩へ感情をぶつける人間ではなかった。
白嶺は廊下の方を見る。
玲奈が出ていったあとも、紫の気配が薄く残っている。
昨夜、シトウが入り込んだ相手。
考えたくはなかった。
しかし、もう偶然では済ませられない。
『佐藤さん』
「はい」
『今日は中村さんと二人にならないようにして』
「え?」
『理由はあとで話すわ』
「中村さんに、何かあるんですか?」
『まだ分からない』
白嶺はそう答えた。
確信するには、もう少し確かめる必要がある。
◇
玲奈は洗面所の鏡を見ていた。
鏡の中では、白嶺が美咲の肩へ手を置いている。
実際には、ここに二人はいない。
それでも、映像だけは鮮明だった。
「あの子は、あなたからすべてを奪う」
「違う」
「仕事も、評価も、居場所も」
「違う」
「あなたが先にいたのに」
玲奈は洗面台の縁を掴んだ。
白嶺と働いてきた時間は、自分の方が長い。
仕事を覚え、白嶺の指示へ応え、何度も部署を支えてきた。
美咲よりも、自分の方が白嶺の役に立っている。
そのはずだった。
「あの子を遠ざければいい」
「そんなこと……」
「そして、白嶺を越える」
鏡の中の玲奈が、白嶺の席へ座る。
部長が玲奈の前で笑っている。
美咲も玲奈を尊敬の目で見つめていた。
「そうすれば、すべて正しくなる」
玲奈は鏡へ手を伸ばした。
指先が触れる。
鏡面から紫色の波紋が広がった。
◇
玲奈が戻ってきたときには、いつもの落ち着いた表情へ戻っていた。
「先ほどは、すみませんでした」
玲奈は白嶺へ頭を下げた。
「少し感情的になっていました」
『もう大丈夫?』
「はい」
続いて、美咲を見る。
「佐藤さんも、ごめん」
「いえ」
「企画書は、そのままでいいと思う」
「ありがとうございます」
美咲は安心したように息を吐いた。
玲奈は自分の席へ座り、何事もなかったように作業を始めた。
白嶺は玲奈の横顔を見る。
先ほどまでの苛立ちは消えている。
だが、紫の気配は弱まっていない。
むしろ、玲奈の奥深くへ沈んでいた。
◇
午後。
玲奈は普段どおりに仕事を進めた。
質問へ答え、届いた資料を確認し、間違いがあれば担当者へ戻す。
表面だけを見れば、午前中の出来事が嘘だったように思える。
白嶺は自分の仕事を続けながら、玲奈の様子を確認していた。
玲奈が席を立つ。
複合機へ向かい、印刷された資料を取り出す。
そのとき、複合機の黒い操作画面へ玲奈の顔が映った。
実際の玲奈は無表情だった。
画面の中の玲奈だけが、笑っている。
その肩へ、紫色の指が置かれた。
白嶺は立ち上がった。
『中村さん』
「はい?」
玲奈が振り返る。
画面の中にいた影は消えていた。
『昨日、会社を出たあと、何か変わったものを見なかった?』
「変わったものですか?」
『鏡や窓に、実際にはないものが映ったとか』
玲奈の目が、わずかに細くなる。
「見ていません」
『本当に?』
「私を疑っているんですか?」
『確認しているだけよ』
「何を確認しているのか知りませんが、何も見ていません」
玲奈は資料を持ち、自分の席へ戻った。
白嶺は追わなかった。
玲奈の返事で、確信した。
シトウは玲奈の中にいる。
◇
退勤時刻になる。
美咲が帰ったあとも、玲奈は席を立たなかった。
白嶺は玲奈の机へ近づく。
『中村さん』
「何ですか?」
『今日はもう帰りなさい』
「まだ仕事が残っています」
『明日で間に合うわ』
「私が残ると、何か困るんですか?」
『疲れているように見えるから言っているの』
「加藤さんには、そう見えるんですね」
玲奈が顔を上げる。
「私は、いつもどおりです」
『そう』
「先に帰ってください。彩華ちゃんが待っているんでしょう」
白嶺は玲奈を見た。
彩華の存在を、玲奈は以前から知っている。
不自然な言葉ではない。
だが、その声には冷たいものが混じっていた。
『では、お先に』
「お疲れさまです」
白嶺は鞄を持ち、営業企画部を出た。
扉が閉まる。
しかし、そのまま帰りはしなかった。
廊下を進み、曲がり角の陰で足を止める。
しばらくすると、営業企画部の明かりが消えた。
玲奈が一人で出てくる。
白嶺は距離を空けて、そのあとを追った。
◇
玲奈は昨日と同じ道を歩いていた。
駅へ向かう途中、窓ガラスの前で足を止める。
ガラスに映った玲奈の姿が、紫色に揺れた。
「もうすぐよ」
紫の女が、玲奈の背後から両肩へ手を置く。
「あなたの理想が、現実になる」
「どうすればいいの?」
「白嶺に勝てばいい」
「仕事で?」
「すべてで」
紫色の光が強くなる。
玲奈の影が、歩道へ長く伸びた。
その形が、人間のものから歪んでいく。
離れた場所から見ていた白嶺にも、はっきりと分かった。
まだ完全には変化していない。
しかし、シトウは玲奈の心をほとんど支配している。
玲奈が再び歩き始める。
白嶺は追わず、その場から引き返した。
宿彩が必要だった。
◇
白嶺が自宅へ戻ると、無月は玄関に立っていた。
「お帰りなさいませ」
『無月、出るわよ』
白嶺は靴も脱がずに告げた。
無月の目つきが変わる。
「見つけたのですか」
『ええ』
「誰でしたか」
白嶺は一度、言葉を止めた。
『会社の部下よ』
「では、白嶺様がお一人で向かうべきではありません」
『あなたは彩華を守って』
「しかし――」
『シトウを中村さんから引き離して封じる。あなたは彩華を守って』
無月は白嶺の意図を理解した。
「承知しました」
白嶺は室内へ入り、宿彩を手に取る。
鞘を握った瞬間、胸の奥に封じた六つの色が反応した。
彩華が、無月の腕の中から白嶺を見る。
「あぅ」
『すぐに戻るわ』
白嶺は彩華へ告げた。
それから無月を見る。
『ここをお願い』
「どうか御無事で」
白嶺は宿彩を持ち、再び夜の中へ出た。
紫の気配は、まだ途切れていない。
玲奈の抱いた理想を喰らいながら、さらに濃くなっていた。




