28話「映る理想」
朝。
白嶺は台所で、昼食の準備をしていた。
彩華はリビングの床へ座り、黄色い鳥の玩具を両手で持っている。
「あぅ」
隣では、無月が彩華の様子を見守っていた。
身につけているのは、白嶺から借りた服だった。
『昼は、冷蔵庫に入れてあるものを温めて』
「承知しました」
『彩華の分は、こちら。量が違うから間違えないで』
「心得ています」
色霊をすべて封印するまで、彩華は保育園を休ませることになっている。
白嶺が会社にいる間、彩華を守るのは無月だった。
白嶺は二人分の昼食を冷蔵庫へ入れた。
続いて彩華の着替えとおむつの場所を確認する。
「白嶺様」
『何?』
「毎朝、同じ場所を確かめなくとも、すでに覚えております」
『確認しているだけよ』
「私が信用できませんか」
『そういう意味ではないわ』
白嶺は冷蔵庫の扉を閉めた。
『あたしがいない間に何かあったら、あなたが判断して。彩華を守ることを最優先にして』
「無論です」
無月が静かに答える。
「この命に代えても、お守りします」
『命に代えないで』
「しかし――」
『あなたも無事でいなさい』
無月は口を閉じた。
白嶺は彩華の前へ膝をつく。
『行ってくるわね』
「あー」
彩華が黄色い鳥を持ったまま、白嶺へ手を伸ばした。
その手を握る。
胸の奥で、封じた赤がわずかに疼いた。
離れるな。
連れていけ。
白嶺はその衝動を押さえ、彩華の手を離した。
『夕方には戻るわ』
「白嶺様」
立ち上がった白嶺へ、無月が声をかける。
「どうか、お気をつけて」
『ええ。二人とも頼んだわよ』
「お任せください」
宿彩は自宅に置いたまま、白嶺は鞄だけを持って玄関を出た。
◇
午前九時。
営業企画部では、新商品の販促企画に関する打ち合わせが始まっていた。
白嶺は配布資料へ目を落としながら、各担当者の報告を聞いている。
『では、中村さんは各担当から上がった数値の集計と分析をお願い』
「分かりました」
『佐藤さんは、昨日指摘した箇所を反映して企画書を修正して』
「はい」
『今日の午後四時に一度確認するわ。それまでに形にして』
白嶺が次の議題へ移る。
玲奈は手元の資料を見た。
各担当の数値をまとめる仕事は、量こそ多いものの難しくはない。
自分なら問題なく終えられる。
白嶺も、それが分かっているから任せたのだろう。
信頼されている。
そう考えるべきだった。
しかし、玲奈の胸には小さな不満が残った。
白嶺が全体を指揮し、自分はその指示を受ける。
いつもと同じ形だった。
以前は、それを当然だと思っていた。
白嶺の判断は早く、見落としも少ない。
上司として認めていた。
今も能力を疑っているわけではない。
それでも最近は、白嶺の下で働くことに、以前にはなかった息苦しさを覚えるようになっていた。
自分も同じことができる。
場合によっては、自分の方がうまくできる。
そう思う瞬間が増えている。
『中村さん』
「はい」
『聞いている?』
「聞いています。集計項目を前回と揃えるんですよね」
『そう。比較に使うから、区分を変えないようにして』
「分かりました」
玲奈が答えると、白嶺はすぐに次の確認へ移った。
特別に褒めることもない。
できて当然だと思われている。
玲奈は資料の端を指で押さえた。
◇
打ち合わせが終わると、美咲はすぐに企画書の修正へ取りかかった。
玲奈も各担当から送られてきた数値を一覧へまとめていく。
しばらくして、美咲が印刷した資料を持って白嶺の席へ向かった。
「加藤さん、少しよろしいですか?」
『何?』
「対象年齢について確認したいところがあります」
美咲が資料を机へ置く。
「現在の案では二十代から三十代を中心にしていますが、調査結果を見ると、三十代後半の反応も高いんです」
白嶺は該当箇所へ目を落とした。
『確かにそうね』
「対象を広げると訴求が弱くなるでしょうか」
『広げること自体が問題なのではないわ。全員へ同じ見せ方をしようとするから弱くなるの』
白嶺は資料の一部を指す。
『軸は二十代から三十代前半のままにする。そのうえで、別の使用場面を提示すれば三十代後半にも届くでしょう』
「使用場面を分けるんですね」
『ええ。そこに気づいたのはよかったわ』
美咲の表情が明るくなる。
「ありがとうございます。修正してみます」
『数字の根拠も添えて。感覚だけで対象を広げたように見せないこと』
「はい」
美咲は資料を抱え、自分の席へ戻った。
玲奈は画面を見たまま、その会話を聞いていた。
白嶺は、美咲に対して以前より時間をかけるようになった。
質問へ答えるだけではない。
考え方を伝え、美咲自身に答えを出させようとしている。
美咲が成長したからだろう。
それは分かっている。
それでも、玲奈には二人の距離が近づいているように見えた。
「中村さん」
美咲に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「前回の調査で、二十代の回答だけを分けた資料は残っていますか?」
「共有フォルダにあるよ」
「どのファイルでしたっけ」
「前回調査の中に、分析用と提出用の二つがあるんだけど」
「はい」
「分析用の方。月がファイル名の先頭についてる」
美咲が自分の画面を確認する。
「あ、ありました。ありがとうございます」
「前にも使ってなかった?」
「すみません。場所を忘れていました」
「別にいいけど」
玲奈は再び集計作業へ戻った。
美咲も礼をして、自分の席へ戻る。
後輩へ教えること自体は嫌ではない。
頼られれば答える。
必要なら助ける。
だが、美咲が白嶺へ向ける表情と、自分へ向ける表情は違っていた。
玲奈は入力した数値を見直す。
考える必要のないことだった。
◇
昼休み。
玲奈が席を立つと、美咲が後ろから追いついてきた。
「中村さん、お昼、一緒に食べてもいいですか?」
「いいけど。珍しいね」
「駄目でしたか?」
「いいって言ったでしょう」
二人は社員食堂へ向かった。
空いている席を選び、向かい合って座る。
美咲はしばらく黙って食事をしていたが、やがて箸を置いた。
「さっきはすみません」
「何が?」
「ファイルの場所です。前にも教えてもらったのに」
「そんなこと気にしてたの?」
「はい」
「忘れることくらいあるでしょう。次から覚えておけばいいよ」
「ありがとうございます」
美咲が小さく笑う。
その素直な反応に、玲奈の肩から少し力が抜けた。
「中村さんって、すごいですよね」
「急に何?」
「加藤さんから集計を全部任されていたので」
「まとめるだけだよ」
「私だったら、各担当の数字をまとめるだけでも混乱しそうです」
「慣れれば誰でもできる」
「そういう意味ではなくて」
美咲は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「加藤さんも、中村さんなら任せられると思っているんでしょうね」
「どうだろうね」
「そうじゃなかったら、頼まないと思います」
「面倒な仕事を回されてるだけかもしれないよ」
「加藤さんは、そんなふうに仕事を振らないと思います」
迷いのない返事だった。
玲奈は美咲を見る。
「ずいぶん加藤さんのことを分かってるみたいに言うね」
「え?」
「家にも行ったものね」
美咲の表情が固まった。
「それは、前にもお話ししましたよね」
「聞いたよ」
「あ……そういうわけではなくて」
「何が?」
「中村さんが気を悪くされたのかと思って」
「別に怒ってない」
玲奈は箸を動かした。
言葉ほど平静ではなかった。
白嶺の家へ行った美咲。
白嶺に直接教えられ、認められ、以前より近い場所にいる美咲。
そのどれもが、胸の奥へ細い棘のように刺さっている。
「怒っていますか?」
「怒ってないって」
「でも――」
「佐藤さん」
玲奈は美咲の言葉を遮った。
「休憩中まで加藤さんの話をしなくていいでしょう」
「……すみません」
美咲はそれ以上何も言わなかった。
玲奈も黙って食事を続ける。
食堂のざわめきだけが、二人の間を埋めていた。
◇
午後四時。
白嶺は玲奈がまとめた集計結果を確認していた。
『数値に間違いはないわ』
「ありがとうございます」
『ただ、この区分だけ前回と揃っていない』
白嶺が画面の一部を示す。
『ここを分けると、前回から増えたように見えるでしょう』
「今回は回答数が多かったので、細かく分けた方が見やすいと思ったんです」
『今回だけを見るなら、そうね』
「では、このままでも問題ないのでは?」
『前回との比較に使うと、受け取る側が誤解するわ』
玲奈は画面を見た。
白嶺の指摘は正しい。
打ち合わせでも、区分を変えないように言われていた。
「修正します」
『お願い』
白嶺はそれ以上何も言わず、次の資料を確認し始めた。
責められたわけではない。
必要な修正を指摘されただけだった。
それでも玲奈の中には、納得しきれないものが残る。
間違ってはいない。
見やすくしようと考えた結果だった。
白嶺は、なぜその意図を評価しないのか。
玲奈は自分の席へ戻った。
指示どおりに区分を修正する。
作業そのものは数分で終わった。
正しい形になったことも分かる。
だからこそ、余計に腹立たしかった。
◇
退勤時刻を過ぎても、玲奈は席に残っていた。
修正済みの集計表を確認し、その数値を使って分析資料を整えていく。
周囲の社員は、少しずつ帰り始めていた。
「中村さん、まだ帰らないんですか?」
美咲が鞄を持って立っていた。
「これだけ終わらせてから帰る」
「手伝えることはありますか?」
「ないよ」
「でも、集計の量が多そうですし」
「佐藤さんに任せられるところはもう終わってる。自分の仕事が終わったなら帰りな」
「……分かりました」
美咲は少し迷ってから頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
美咲が営業企画部を出ていく。
白嶺も、それから間もなく席を立った。
『中村さん』
「はい」
『遅くなりすぎないようにして』
「分かりました」
『お疲れさま』
「お疲れさまです」
白嶺が部屋を出る。
玲奈は一人、画面へ向き直った。
静かになった室内で、キーボードを打つ音だけが続く。
集計表。
分析結果。
修正された区分。
すべて白嶺の指示に沿っている。
玲奈が手を止めた。
自分が考えた形ではない。
白嶺が正しいと判断した形だ。
自分は、ただそれを整えているだけだった。
「私だって、できるのに」
誰もいない室内で、声が落ちる。
白嶺がいなくても判断できる。
白嶺よりうまく進められることだってある。
周囲がそれに気づいていないだけだ。
玲奈は資料を保存し、パソコンの電源を落とした。
◇
会社を出ると、辺りはすでに暗くなっていた。
玲奈は駅へ向かって歩く。
昼間に降った雨が、歩道の端へ残っている。
通り沿いの建物には、明るい店舗の窓が並んでいた。
玲奈は一枚の窓ガラスの前で足を止めた。
ガラスには、自分の姿が映っている。
いつもの自分だった。
だが、瞬きをした次の瞬間、映っている姿が変わった。
営業企画部の中央に立つ玲奈。
周囲の社員が、玲奈の指示を待っている。
白嶺はその中にいなかった。
玲奈がすべてを決めていた。
誰も玲奈の判断を否定しない。
誰も玲奈を白嶺と比べない。
美咲も、尊敬の目を玲奈だけへ向けている。
「……何、これ」
玲奈はガラスへ近づいた。
映像の中で、部長が玲奈へ頭を下げる。
玲奈の提案によって企画は成功し、誰もがその能力を認めている。
白嶺よりも優れている。
最初から、自分が上に立つべきだった。
そんな考えが、自然に胸へ広がっていく。
ガラスの奥で、紫色の影が揺れた。
細い指が、映像の中の玲奈の肩へ触れる。
「それが、本当のあなた」
声が聞こえた。
玲奈は周囲を見る。
通行人は誰も足を止めていない。
「あなたは、もっと認められるべき」
「誰?」
「奪われているだけ」
ガラスの中で、白嶺が玲奈の前へ現れた。
周囲の視線も、評価も、信頼も、すべて白嶺へ集まっていく。
美咲も白嶺の隣へ立った。
玲奈には誰も残らない。
「違う」
「なら、取り戻せばいい」
紫の影が、ガラスの中から玲奈へ手を伸ばす。
指先が鏡面を越え、玲奈の胸へ触れた。
「理想の自分を、現実にすればいい」
紫色の光が、玲奈の身体へ吸い込まれた。
玲奈は息を呑む。
次の瞬間には、窓ガラスへ映るものは元へ戻っていた。
夜道に立つ、自分の姿。
玲奈は胸元へ手を当てた。
先ほどまであった苛立ちは消えている。
代わりに、確かな考えがそこにあった。
白嶺よりも、自分の方が上に立つべきだ。
それを証明すればいい。
玲奈はガラスに映る自分を見つめた。
その背後で、紫色の瞳が一度だけ開いた。
◇
同じ頃。
白嶺は会社から少し離れた駅前を歩いていた。
不意に足を止める。
胸の奥で、封じた六つの色が反応した。
赤。
橙。
黄色。
茶。
緑。
藍。
それらとは異なる気配が、遠くで生まれている。
紫。
白嶺は振り返った。
視線の先には、先ほど出てきた会社のある方角がある。
『シトウ……』
紫の色霊。
人が思い描く理想を映し、現実との隔たりを憎しみに変えるもの。
すでに誰かの心へ入り込んだ。
白嶺は鞄を握り直した。
宿彩は自宅にある。
今から気配だけを頼りに追っても、相手を特定できるとは限らない。
周囲に異変が起きている様子もなかった。
まずは戻り、無月と状況を確認する必要がある。
白嶺は足を速めた。
◇
自宅の扉を開けると、無月が玄関まで出てきた。
「お帰りなさいませ、白嶺様」
『ただいま』
リビングから彩華の声が聞こえる。
「あー」
白嶺は靴を脱ぎながら、無月へ目を向けた。
『無月』
「はい」
『シトウが動いたわ』
無月の表情が変わる。
「紫の色霊が?」
『ええ。さっき、誰かの中へ入った』
「場所は分かりますか」
『会社の近く。でも、誰に取り憑いたのかまでは分からない』
無月はリビングへ視線を向けた。
彩華は床へ座り、黄色い鳥で遊んでいる。
「明日、探しますか」
『ええ』
白嶺は宿彩へ目を向ける。
『シトウは、取り憑いた相手へ理想を見せる。その理想と現実の差が大きいほど、心を深く奪われるわ』
「では、今宵のうちにも影響が現れるやもしれません」
『そうね』
誰に取り憑いたのか。
その人間が、どのような理想を抱いているのか。
今の白嶺には分からない。
ただ、紫の気配が生まれた方角だけは、はっきりと覚えていた。
白嶺は彩華の前へ歩み寄る。
彩華が顔を上げ、両手を伸ばした。
「あぅ」
白嶺は彩華を抱き上げた。
胸の奥で、六つの色が静かに揺れている。
七つ目の色は、すでに誰かの理想へ入り込んでいた。




