↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/36

28話「映る理想」

朝。


 白嶺は台所で、昼食の準備をしていた。


 彩華はリビングの床へ座り、黄色い鳥の玩具を両手で持っている。


「あぅ」


 隣では、無月が彩華の様子を見守っていた。


 身につけているのは、白嶺から借りた服だった。


『昼は、冷蔵庫に入れてあるものを温めて』


「承知しました」


『彩華の分は、こちら。量が違うから間違えないで』


「心得ています」


 色霊をすべて封印するまで、彩華は保育園を休ませることになっている。


 白嶺が会社にいる間、彩華を守るのは無月だった。


 白嶺は二人分の昼食を冷蔵庫へ入れた。


 続いて彩華の着替えとおむつの場所を確認する。


「白嶺様」


『何?』


「毎朝、同じ場所を確かめなくとも、すでに覚えております」


『確認しているだけよ』


「私が信用できませんか」


『そういう意味ではないわ』


 白嶺は冷蔵庫の扉を閉めた。


『あたしがいない間に何かあったら、あなたが判断して。彩華を守ることを最優先にして』


「無論です」


 無月が静かに答える。


「この命に代えても、お守りします」


『命に代えないで』


「しかし――」


『あなたも無事でいなさい』


 無月は口を閉じた。


 白嶺は彩華の前へ膝をつく。


『行ってくるわね』


「あー」


 彩華が黄色い鳥を持ったまま、白嶺へ手を伸ばした。


 その手を握る。


 胸の奥で、封じた赤がわずかに疼いた。


 離れるな。


 連れていけ。


 白嶺はその衝動を押さえ、彩華の手を離した。


『夕方には戻るわ』


「白嶺様」


 立ち上がった白嶺へ、無月が声をかける。


「どうか、お気をつけて」


『ええ。二人とも頼んだわよ』


「お任せください」


 宿彩は自宅に置いたまま、白嶺は鞄だけを持って玄関を出た。


          ◇


 午前九時。


 営業企画部では、新商品の販促企画に関する打ち合わせが始まっていた。


 白嶺は配布資料へ目を落としながら、各担当者の報告を聞いている。


『では、中村さんは各担当から上がった数値の集計と分析をお願い』


「分かりました」


『佐藤さんは、昨日指摘した箇所を反映して企画書を修正して』


「はい」


『今日の午後四時に一度確認するわ。それまでに形にして』


 白嶺が次の議題へ移る。


 玲奈は手元の資料を見た。


 各担当の数値をまとめる仕事は、量こそ多いものの難しくはない。


 自分なら問題なく終えられる。


 白嶺も、それが分かっているから任せたのだろう。


 信頼されている。


 そう考えるべきだった。


 しかし、玲奈の胸には小さな不満が残った。


 白嶺が全体を指揮し、自分はその指示を受ける。


 いつもと同じ形だった。


 以前は、それを当然だと思っていた。


 白嶺の判断は早く、見落としも少ない。


 上司として認めていた。


 今も能力を疑っているわけではない。


 それでも最近は、白嶺の下で働くことに、以前にはなかった息苦しさを覚えるようになっていた。


 自分も同じことができる。


 場合によっては、自分の方がうまくできる。


 そう思う瞬間が増えている。


『中村さん』


「はい」


『聞いている?』


「聞いています。集計項目を前回と揃えるんですよね」


『そう。比較に使うから、区分を変えないようにして』


「分かりました」


 玲奈が答えると、白嶺はすぐに次の確認へ移った。


 特別に褒めることもない。


 できて当然だと思われている。


 玲奈は資料の端を指で押さえた。


          ◇


 打ち合わせが終わると、美咲はすぐに企画書の修正へ取りかかった。


 玲奈も各担当から送られてきた数値を一覧へまとめていく。


 しばらくして、美咲が印刷した資料を持って白嶺の席へ向かった。


「加藤さん、少しよろしいですか?」


『何?』


「対象年齢について確認したいところがあります」


 美咲が資料を机へ置く。


「現在の案では二十代から三十代を中心にしていますが、調査結果を見ると、三十代後半の反応も高いんです」


 白嶺は該当箇所へ目を落とした。


『確かにそうね』


「対象を広げると訴求が弱くなるでしょうか」


『広げること自体が問題なのではないわ。全員へ同じ見せ方をしようとするから弱くなるの』


 白嶺は資料の一部を指す。


『軸は二十代から三十代前半のままにする。そのうえで、別の使用場面を提示すれば三十代後半にも届くでしょう』


「使用場面を分けるんですね」


『ええ。そこに気づいたのはよかったわ』


 美咲の表情が明るくなる。


「ありがとうございます。修正してみます」


『数字の根拠も添えて。感覚だけで対象を広げたように見せないこと』


「はい」


 美咲は資料を抱え、自分の席へ戻った。


 玲奈は画面を見たまま、その会話を聞いていた。


 白嶺は、美咲に対して以前より時間をかけるようになった。


 質問へ答えるだけではない。


 考え方を伝え、美咲自身に答えを出させようとしている。


 美咲が成長したからだろう。


 それは分かっている。


 それでも、玲奈には二人の距離が近づいているように見えた。


「中村さん」


 美咲に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。


「前回の調査で、二十代の回答だけを分けた資料は残っていますか?」


「共有フォルダにあるよ」


「どのファイルでしたっけ」


「前回調査の中に、分析用と提出用の二つがあるんだけど」


「はい」


「分析用の方。月がファイル名の先頭についてる」


 美咲が自分の画面を確認する。


「あ、ありました。ありがとうございます」


「前にも使ってなかった?」


「すみません。場所を忘れていました」


「別にいいけど」


 玲奈は再び集計作業へ戻った。


 美咲も礼をして、自分の席へ戻る。


 後輩へ教えること自体は嫌ではない。


 頼られれば答える。


 必要なら助ける。


 だが、美咲が白嶺へ向ける表情と、自分へ向ける表情は違っていた。


 玲奈は入力した数値を見直す。


 考える必要のないことだった。


          ◇


 昼休み。


 玲奈が席を立つと、美咲が後ろから追いついてきた。


「中村さん、お昼、一緒に食べてもいいですか?」


「いいけど。珍しいね」


「駄目でしたか?」


「いいって言ったでしょう」


 二人は社員食堂へ向かった。


 空いている席を選び、向かい合って座る。


 美咲はしばらく黙って食事をしていたが、やがて箸を置いた。


「さっきはすみません」


「何が?」


「ファイルの場所です。前にも教えてもらったのに」


「そんなこと気にしてたの?」


「はい」


「忘れることくらいあるでしょう。次から覚えておけばいいよ」


「ありがとうございます」


 美咲が小さく笑う。


 その素直な反応に、玲奈の肩から少し力が抜けた。


「中村さんって、すごいですよね」


「急に何?」


「加藤さんから集計を全部任されていたので」


「まとめるだけだよ」


「私だったら、各担当の数字をまとめるだけでも混乱しそうです」


「慣れれば誰でもできる」


「そういう意味ではなくて」


 美咲は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。


「加藤さんも、中村さんなら任せられると思っているんでしょうね」


「どうだろうね」


「そうじゃなかったら、頼まないと思います」


「面倒な仕事を回されてるだけかもしれないよ」


「加藤さんは、そんなふうに仕事を振らないと思います」


 迷いのない返事だった。


 玲奈は美咲を見る。


「ずいぶん加藤さんのことを分かってるみたいに言うね」


「え?」


「家にも行ったものね」


 美咲の表情が固まった。


「それは、前にもお話ししましたよね」


「聞いたよ」


「あ……そういうわけではなくて」


「何が?」


「中村さんが気を悪くされたのかと思って」


「別に怒ってない」


 玲奈は箸を動かした。


 言葉ほど平静ではなかった。


 白嶺の家へ行った美咲。


 白嶺に直接教えられ、認められ、以前より近い場所にいる美咲。


 そのどれもが、胸の奥へ細い棘のように刺さっている。


「怒っていますか?」


「怒ってないって」


「でも――」


「佐藤さん」


 玲奈は美咲の言葉を遮った。


「休憩中まで加藤さんの話をしなくていいでしょう」


「……すみません」


 美咲はそれ以上何も言わなかった。


 玲奈も黙って食事を続ける。


 食堂のざわめきだけが、二人の間を埋めていた。


          ◇


 午後四時。


 白嶺は玲奈がまとめた集計結果を確認していた。


『数値に間違いはないわ』


「ありがとうございます」


『ただ、この区分だけ前回と揃っていない』


 白嶺が画面の一部を示す。


『ここを分けると、前回から増えたように見えるでしょう』


「今回は回答数が多かったので、細かく分けた方が見やすいと思ったんです」


『今回だけを見るなら、そうね』


「では、このままでも問題ないのでは?」


『前回との比較に使うと、受け取る側が誤解するわ』


 玲奈は画面を見た。


 白嶺の指摘は正しい。


 打ち合わせでも、区分を変えないように言われていた。


「修正します」


『お願い』


 白嶺はそれ以上何も言わず、次の資料を確認し始めた。


 責められたわけではない。


 必要な修正を指摘されただけだった。


 それでも玲奈の中には、納得しきれないものが残る。


 間違ってはいない。


 見やすくしようと考えた結果だった。


 白嶺は、なぜその意図を評価しないのか。


 玲奈は自分の席へ戻った。


 指示どおりに区分を修正する。


 作業そのものは数分で終わった。


 正しい形になったことも分かる。


 だからこそ、余計に腹立たしかった。


          ◇


 退勤時刻を過ぎても、玲奈は席に残っていた。


 修正済みの集計表を確認し、その数値を使って分析資料を整えていく。


 周囲の社員は、少しずつ帰り始めていた。


「中村さん、まだ帰らないんですか?」


 美咲が鞄を持って立っていた。


「これだけ終わらせてから帰る」


「手伝えることはありますか?」


「ないよ」


「でも、集計の量が多そうですし」


「佐藤さんに任せられるところはもう終わってる。自分の仕事が終わったなら帰りな」


「……分かりました」


 美咲は少し迷ってから頭を下げた。


「お疲れさまです」


「お疲れ」


 美咲が営業企画部を出ていく。


 白嶺も、それから間もなく席を立った。


『中村さん』


「はい」


『遅くなりすぎないようにして』


「分かりました」


『お疲れさま』


「お疲れさまです」


 白嶺が部屋を出る。


 玲奈は一人、画面へ向き直った。


 静かになった室内で、キーボードを打つ音だけが続く。


 集計表。


 分析結果。


 修正された区分。


 すべて白嶺の指示に沿っている。


 玲奈が手を止めた。


 自分が考えた形ではない。


 白嶺が正しいと判断した形だ。


 自分は、ただそれを整えているだけだった。


「私だって、できるのに」


 誰もいない室内で、声が落ちる。


 白嶺がいなくても判断できる。


 白嶺よりうまく進められることだってある。


 周囲がそれに気づいていないだけだ。


 玲奈は資料を保存し、パソコンの電源を落とした。


          ◇


 会社を出ると、辺りはすでに暗くなっていた。


 玲奈は駅へ向かって歩く。


 昼間に降った雨が、歩道の端へ残っている。


 通り沿いの建物には、明るい店舗の窓が並んでいた。


 玲奈は一枚の窓ガラスの前で足を止めた。


 ガラスには、自分の姿が映っている。


 いつもの自分だった。


 だが、瞬きをした次の瞬間、映っている姿が変わった。


 営業企画部の中央に立つ玲奈。


 周囲の社員が、玲奈の指示を待っている。


 白嶺はその中にいなかった。


 玲奈がすべてを決めていた。


 誰も玲奈の判断を否定しない。


 誰も玲奈を白嶺と比べない。


 美咲も、尊敬の目を玲奈だけへ向けている。


「……何、これ」


 玲奈はガラスへ近づいた。


 映像の中で、部長が玲奈へ頭を下げる。


 玲奈の提案によって企画は成功し、誰もがその能力を認めている。


 白嶺よりも優れている。


 最初から、自分が上に立つべきだった。


 そんな考えが、自然に胸へ広がっていく。


 ガラスの奥で、紫色の影が揺れた。


 細い指が、映像の中の玲奈の肩へ触れる。


「それが、本当のあなた」


 声が聞こえた。


 玲奈は周囲を見る。


 通行人は誰も足を止めていない。


「あなたは、もっと認められるべき」


「誰?」


「奪われているだけ」


 ガラスの中で、白嶺が玲奈の前へ現れた。


 周囲の視線も、評価も、信頼も、すべて白嶺へ集まっていく。


 美咲も白嶺の隣へ立った。


 玲奈には誰も残らない。


「違う」


「なら、取り戻せばいい」


 紫の影が、ガラスの中から玲奈へ手を伸ばす。


 指先が鏡面を越え、玲奈の胸へ触れた。


「理想の自分を、現実にすればいい」


 紫色の光が、玲奈の身体へ吸い込まれた。


 玲奈は息を呑む。


 次の瞬間には、窓ガラスへ映るものは元へ戻っていた。


 夜道に立つ、自分の姿。


 玲奈は胸元へ手を当てた。


 先ほどまであった苛立ちは消えている。


 代わりに、確かな考えがそこにあった。


 白嶺よりも、自分の方が上に立つべきだ。


 それを証明すればいい。


 玲奈はガラスに映る自分を見つめた。


 その背後で、紫色の瞳が一度だけ開いた。


          ◇


 同じ頃。


 白嶺は会社から少し離れた駅前を歩いていた。


 不意に足を止める。


 胸の奥で、封じた六つの色が反応した。


 赤。


 橙。


 黄色。


 茶。


 緑。


 藍。


 それらとは異なる気配が、遠くで生まれている。


 紫。


 白嶺は振り返った。


 視線の先には、先ほど出てきた会社のある方角がある。


『シトウ……』


 紫の色霊。


 人が思い描く理想を映し、現実との隔たりを憎しみに変えるもの。


 すでに誰かの心へ入り込んだ。


 白嶺は鞄を握り直した。


 宿彩は自宅にある。


 今から気配だけを頼りに追っても、相手を特定できるとは限らない。


 周囲に異変が起きている様子もなかった。


 まずは戻り、無月と状況を確認する必要がある。


 白嶺は足を速めた。


          ◇


 自宅の扉を開けると、無月が玄関まで出てきた。


「お帰りなさいませ、白嶺様」


『ただいま』


 リビングから彩華の声が聞こえる。


「あー」


 白嶺は靴を脱ぎながら、無月へ目を向けた。


『無月』


「はい」


『シトウが動いたわ』


 無月の表情が変わる。


「紫の色霊が?」


『ええ。さっき、誰かの中へ入った』


「場所は分かりますか」


『会社の近く。でも、誰に取り憑いたのかまでは分からない』


 無月はリビングへ視線を向けた。


 彩華は床へ座り、黄色い鳥で遊んでいる。


「明日、探しますか」


『ええ』


 白嶺は宿彩へ目を向ける。


『シトウは、取り憑いた相手へ理想を見せる。その理想と現実の差が大きいほど、心を深く奪われるわ』


「では、今宵のうちにも影響が現れるやもしれません」


『そうね』


 誰に取り憑いたのか。


 その人間が、どのような理想を抱いているのか。


 今の白嶺には分からない。


 ただ、紫の気配が生まれた方角だけは、はっきりと覚えていた。


 白嶺は彩華の前へ歩み寄る。


 彩華が顔を上げ、両手を伸ばした。


「あぅ」


 白嶺は彩華を抱き上げた。


 胸の奥で、六つの色が静かに揺れている。


 七つ目の色は、すでに誰かの理想へ入り込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。