27話「自分の意思」
翌朝。
白嶺が寝室から出ると、無月はすでに起きていた。
白嶺から借りた服を着て、彩華の隣へ座っている。
床には黄色い鳥と、いくつかの玩具が並べられていた。
彩華は黄色い鳥を握ったまま、無月の膝へ身体を預けている。
『随分と懐いたわね』
「そうでしょうか」
『あなたが離れると、目で追っているでしょう』
無月が立ち上がる。
彩華の目も、その動きに合わせて上へ動いた。
「白嶺様も追われています」
『あたしは母親だもの』
「では、私を追う理由は何ですか」
『知らないわよ。気に入られたんじゃない?』
無月は彩華を見る。
彩華が黄色い鳥を差し出した。
「あー」
無月が受け取る。
すぐに彩華が手を伸ばした。
「渡したのではないのですか」
『取ってほしかっただけでしょう』
「そのような遊びがあるのですか」
『今できたんじゃない?』
無月は黄色い鳥を彩華へ返した。
彩華は受け取ると、再び無月へ差し出す。
無月の眉がわずかに寄った。
「終わらないのですが」
『飽きるまで付き合ってあげて』
「白嶺様は?」
『会社へ行くわ』
「逃げるのですか」
『仕事よ』
白嶺は台所へ向かい、彩華と無月の食事を確認した。
昨日と同じように、温めるものを分けて置いてある。
無月は電子レンジの使い方を覚えた。
一日程度なら、彩華を任せても問題はない。
それでも、白嶺は何度も容器の位置を確かめた。
「昨日と同じですね」
『そうよ』
「使い方も覚えております」
『分かっているわ』
「では、何を確認しておられるのですか」
『念のためよ』
虹結家は、彩華の存在を把握している。
その言葉が、頭から離れなかった。
本家の女は、黒花が抑えていると言っていた。
何を、どこまで抑えているのかは分からない。
昨日は無月へ外へ出るなと命じた。
今日も同じようにするつもりだった。
『誰が来ても、扉を開けないで』
「分かっております」
『呼び鈴が鳴っても無視して』
「昨日も聞きました」
『窓も開けない』
「それも聞きました」
『彩華から目を離さない』
「白嶺様」
『何?』
「私へ任せると決めたのであれば、少しは信用してください」
白嶺は口を閉じた。
無月は真っ直ぐに白嶺を見ている。
『信用していなければ、彩華を任せたりしないわ』
「でしたら、同じことを何度も仰らないでください」
『確認しているだけよ』
「三度目からは確認ではなく、疑っていると言います」
『細かいわね』
「あなたが細かすぎるのです」
彩華が黄色い鳥を床へ落とした。
無月はすぐに拾い、彩華の手へ戻す。
その動きを見て、白嶺は息を吐いた。
『何かあったら、彩華を連れて逃げて』
「はい」
『あたしが戻るまで、外には出ないで』
「はい」
『それから――』
「遅れるのではありませんか」
白嶺が時計を見る。
昨日と同じ流れだった。
『……行ってくるわ』
「行ってらっしゃいませ」
白嶺は玄関へ向かう。
靴を履き、扉へ手をかけた。
振り返ると、無月が彩華を抱き上げている。
彩華が白嶺へ向かって手を伸ばした。
「あぅ」
『行ってきます』
白嶺は彩華の手へ触れてから、家を出た。
◇
会社に着くと、白嶺は普段どおりに仕事を始めた。
午前中の予定を確認し、届いていたメールへ順番に返信する。
身体の奥には、まだ藍色の感覚が残っていた。
アイムを封じた影響は、昨日より弱くなっている。
それでも、目を閉じると、自分のものではない記憶が浮かびそうになる。
白嶺は指先で目元を押さえた。
「加藤主任、今いいですか」
顔を上げる。
玲奈が資料を持って立っていた。
『何?』
「昨日の資料、前月との比較を足しました。これでお願いします」
白嶺は資料を受け取った。
追加された項目へ目を通す。
数字だけではなく、変動が大きかった部分に短い説明も加えられている。
『分かりやすくなったわ。このまま会議で使いましょう』
「はい」
玲奈は返事をしたが、その場から動かなかった。
『ほかに何かある?』
「……顔色、悪いですよ」
『そう?』
「さっきから何度か目元を押さえてましたけど。寝てないんですか」
『少し疲れているだけよ』
「ならいいですけど」
『心配してくれているの?』
「無理して確認を間違えられると困るので」
『そう』
「何ですか」
『別に』
玲奈は白嶺を見たまま、少し眉を寄せた。
「本当に大丈夫なんですか」
『仕事に支障はないわ』
「そうですか」
『急がないものは明日に回してもいいわよ』
「そこまで言ってません」
『なら、予定どおりお願い』
「はい」
玲奈は自分の席へ戻った。
以前なら、必要なことだけを伝え、白嶺の体調など気にしなかっただろう。
何かが大きく変わったわけではない。
玲奈が白嶺へ向ける距離も、まだ縮まってはいない。
それでも、完全に背を向けられているわけではなかった。
白嶺は資料を机へ置く。
昨日よりも、目の奥の重さが少しだけ薄れた気がした。
◇
昼を過ぎても、無月のいる部屋に変わったことはなかった。
彩華へ食事を与える。
汚れた口元を拭き、着替えさせる。
眠そうに目を擦り始めた彩華を抱き、背中を軽く叩く。
無月は、教えられたとおりに動いた。
彩華の目が閉じる。
腕の中から力が抜けたことを確かめ、無月は寝室へ運んだ。
ベビーベッドへ寝かせる。
黄色い鳥を隣へ置くと、彩華は眠ったまま手を伸ばした。
無月は、その手へ玩具を近づけた。
小さな指が黄色い鳥を掴む。
「それほど大切なものなのですか」
返事はない。
当然だった。
無月は彩華へ布団をかけ、寝室を出た。
静かになった居間へ座る。
耀彩は、すぐ手に取れる場所へ置いてある。
宿彩も、いつもの場所に置かれている。
本家へ戻らない。
昨夜、自分でそう決めた。
白嶺の命令ではない。
処分を恐れただけでもない。
それでも、長く命令に従うことだけを教えられてきた無月には、自分で決めたという感覚がまだ馴染まなかった。
何をすべきかは分かる。
彩華を守る。
白嶺が戻るまで、この部屋から出ない。
だが、それは白嶺に命じられたことでもある。
命じられたから残っているのか。
自分で残ると決めたから、ここにいるのか。
結果だけを見れば、何も変わらない。
無月は耀彩へ目を向けた。
役目のために与えられた刀。
本家の影として生きるために持たされたもの。
それを手放すつもりはなかった。
だが、誰のために抜くのかは、自分で決められる。
寝室から、彩華の小さな声が聞こえた。
「あぅ……」
無月はすぐに立ち上がった。
◇
定時を過ぎ、白嶺は会社を出た。
帰宅までの間、異変の痕跡はなかった。
何も起きていないということだろう。
そう考えても、足は普段より速くなった。
建物の前まで来たところで、白嶺は立ち止まった。
昨日、会社の近くに現れた女が立っている。
黒いスーツ。
一つに束ねた髪。
昨日と変わらない姿だった。
『会社には来るなと言ったけれど、自宅へ来ていいとは言っていないわ』
「御自宅へ伺うと申し上げました」
『あたしは来るなと言ったでしょう』
「返答を伺いに参りました」
『昨日答えたわ。宿彩は返さない。無月も戻さない』
「それは、白嶺様の御返答です」
女は白嶺の後ろにある建物を見た。
「無月本人の返答を、まだ伺っておりません」
『本人が戻らないと決めた。それで充分でしょう』
「白嶺様が、そう言わせた可能性もございます」
白嶺の目が細くなる。
『あたしが嘘をついていると?』
「あなたは昔から、御自分が必要とするものを手放そうとはなさらない」
胸の奥で、赤い欲望が揺れた。
黙らせろ。
無月を渡すな。
自分のものだと認めさせろ。
白嶺は息を整えた。
『無月は、あたしのものではないわ』
「それを、御本人の口から確かめさせてください」
『断る』
「白嶺様」
『あなたを無月へ会わせる理由がない』
女は表情を変えなかった。
「では、ここで待ちます」
『警察を呼ぶわよ』
「それでも構いません」
『本当に面倒な一族ね』
「あなたも、その一人でございます」
『あたしは違うと言っているでしょう』
白嶺は女の横を通り過ぎた。
建物へ入り、自宅へ向かう。
女は追ってこなかった。
それでも、あのまま帰るとは思えない。
玄関の扉を開ける。
「お帰りなさいませ」
無月が居間から出てきた。
白嶺から借りた服の袖が、今日も折り返されている。
その後ろでは、彩華が黄色い鳥を握っていた。
『ただいま』
白嶺は扉を閉め、鍵をかけた。
無月が、その様子を見る。
「何かあったのですか」
『昨日の女が来ているわ』
無月の表情が変わった。
「どこに」
『建物の前』
『返答を聞きたいそうよ』
無月はしばらく黙っていた。
『あたしからは、あなたが戻らないと決めたと伝えたわ』
「はい」
『でも、あたしに言わされたかもしれないと言っている』
「それで、帰られなかったのですか」
『ええ』
無月は玄関へ目を向けた。
『会う必要はないわ』
「ですが、このままでは何度でも来ます」
『来るたびに追い返す』
「会社にも、自宅にも?」
『そうよ』
「それでは、白嶺様の生活に支障が出ます」
『今さらでしょう』
「彩華様にも関わることです」
白嶺は答えなかった。
無月は一度、居間へ戻った。
床に座っている彩華を抱き上げ、白嶺へ差し出す。
「お願いできますか」
『外へ出るつもり?』
「はい」
『駄目よ』
「なぜです」
『本家の人間が待っているのよ』
「私への用件でしょう」
『だから駄目だと言っているの』
「昨日、私に選べと仰ったのは白嶺様です」
白嶺の言葉が止まる。
「私が決めたことを、私の口から伝えます」
『あの女が、素直に帰るとは限らないわ』
「では、一緒に来てください」
『無月』
「命令なさるのですか」
真っ直ぐに問われ、白嶺は口を閉じた。
命じれば、無月は従うかもしれない。
だが、それでは昨日と同じだった。
無月が自分で決めたことを、白嶺が奪うことになる。
『……分かったわ』
白嶺は彩華を抱き直した。
『一緒に行く』
「ありがとうございます」
『ただし、あの女が妙な動きをしたら、すぐに戻りなさい』
「はい」
『返事が軽いわね』
「白嶺様がいらっしゃるのでしょう」
『あたしは彩華を抱いているのよ』
「それでも、私一人よりは安全です」
『あなた、あたしを何だと思っているの』
「御自分で虹結を潰すと仰る方です」
『聞いたの?』
「昨日、御自分で話しておられました」
『そうだったかしら』
「御忘れですか」
『忘れてはいないわ』
無月は耀彩を腰へ差した。
白嶺は宿彩を手に取る。
彩華を抱いたまま、三人で部屋を出た。
◇
建物の外へ出ると、女は同じ場所に立っていた。
無月の姿を認めても、表情は変わらない。
「無月」
女が名を呼ぶ。
無月は白嶺より半歩前へ出た。
「本家へ戻りなさい」
「戻りません」
女の目がわずかに細くなった。
「それは、白嶺様の命ですか」
「違います」
「では、処分を恐れているのですか」
「恐れていないとは申しません」
無月は女から目を逸らさなかった。
「ですが、それだけではありません」
「影に、帰る場所を選ぶ権利はありません」
「そう教えられました」
「ならば、なぜ従わないのです」
「私が、ここに残ると決めたからです」
女の視線が、無月の腰にある耀彩へ向く。
「その刀も、本家から与えられたものです」
「承知しております」
「役目を捨てながら、持ち続けるおつもりですか」
「役目を捨てたつもりはありません」
「白嶺様を討つことが、あなたの役目だったはずです」
「その命には、もう従いません」
「では、何のために刀を持つのです」
無月は答える前に、白嶺を振り返った。
白嶺の腕の中で、彩華が黄色い鳥を握っている。
無月は再び女を見る。
「私が守ると決めたもののためです」
白嶺は何も言わなかった。
ここで口を挟めば、それは無月の答えではなくなる。
女は、しばらく無月を見つめていた。
「本家へ戻らないという意味を、理解しているのですね」
「はい」
「今後、虹結家から追われることになっても?」
「構いません」
「白嶺様の傍らにいれば、再び命を落とすかもしれません」
「一度目も、自分で選んだことです」
無月の声は揺れなかった。
「今度も、私が選びます」
女が白嶺を見る。
「この返答で、よろしいですか」
『あたしに確認しないで。答えたのは無月よ』
「……承知いたしました」
女は無月へ向き直った。
「返答は、本家へ伝えます」
「はい」
「次に会うときは、使者としてではないかもしれません」
無月の手が、耀彩の鞘へ触れた。
「そのときは、相応に対応します」
「変わりましたね」
「そうでしょうか」
「以前のあなたなら、命じられたこと以外は答えなかった」
無月は一瞬だけ目を伏せた。
「今も、何をすべきか分からないことはあります」
「それでも、戻らないと?」
「はい」
女は静かに頭を下げた。
白嶺に対してではない。
無月へ向けたものだった。
「確かに、伺いました」
女は背を向ける。
そのまま一度も振り返らず、歩き去った。
姿が見えなくなるまで、無月は動かなかった。
『終わったわね』
「はい」
『後悔している?』
「しておりません」
『そう』
「白嶺様は、何も仰らないのですか」
『あなたが自分で答えたでしょう』
「昨日は、御自分が先に答えておられました」
『今日は我慢したのよ』
「褒めてほしいのですか」
『少しくらい褒めてもいいでしょう』
「当然のことです」
『可愛くないわね』
彩華が白嶺の腕の中で身を乗り出した。
「あー」
無月へ手を伸ばしている。
無月は彩華を受け取った。
彩華の手が、無月の頬へ触れる。
「戻りましょう」
『ええ』
三人で建物へ入る。
無月は白嶺の後ろではなく、隣を歩いていた。
◇
部屋へ戻ると、無月は耀彩をいつもの場所へ置いた。
彩華を床へ座らせる。
黄色い鳥が手から落ち、床を転がった。
無月はそれを拾い、彩華へ返した。
『またそれ?』
「何度でも求められます」
『飽きるまで終わらないわよ』
「先ほど知りました」
彩華が黄色い鳥を無月へ差し出す。
無月は受け取り、すぐに返した。
「あぅ」
「これでよいのですか」
『喜んでいるでしょう』
無月は彩華の顔を見る。
確かに、口元が笑っている。
白嶺は二人の隣へ座った。
『無月』
「はい」
『お帰り、無月』
無月が白嶺を見る。
すぐには答えなかった。
命令された言葉を返すのではない。
決められた作法に従うのでもない。
無月は自分の意思で、この場所へ戻ってきた。
「……ただいま戻りました」
彩華が二人の間で、黄色い鳥を振った。
「あー」
白嶺は、その小さな頭を撫でる。
無月が残る場所は、本家ではない。
白嶺の命令の下でもない。
無月自身が選んだ、この部屋だった。




