26話「選ぶ場所」
翌朝。
無月が目を覚ますと、白嶺はソファで眠っていた。
昨夜と同じ場所だった。
毛布は床へ落ち、片足がソファからはみ出している。
胸元に置かれていた黄色い鳥は、腹の上まで移動していた。
宿彩だけは手の届く場所にある。
無月は白嶺の前へ立った。
「白嶺様」
返事はない。
「朝です」
『……聞こえてる』
「起きてください」
『あと少し』
「会社へ行かれるのでしょう」
『行くわよ』
「では、起きてください」
『起きてる』
白嶺は目を閉じたまま答えている。
無月はしばらく待った。
白嶺が動く様子はない。
「起きておられません」
『返事をしているでしょう』
「目を開けてください」
『開けなくても話はできる』
「会社でも、そのようになさるのですか」
『するわけないでしょう』
白嶺がようやく目を開けた。
髪は乱れ、頬には服の跡がついている。
無月は、昨夜から何度目か分からない溜息をついた。
「外と家で、別人のようですね」
『家でも気を張っていたら休めないわ』
「気を抜くことと、だらしなくすることは違います」
『朝からうるさいわね』
寝室から彩華の声が聞こえた。
「あー」
白嶺はすぐに起き上がった。
毛布と黄色い鳥が床へ落ちる。
『彩華が起きた』
「その前に御自分の身支度を――」
『彩華が先よ』
白嶺は無月の横を抜け、寝室へ向かった。
先ほどまで起きられないと言っていた人間とは思えない動きだった。
無月は床の黄色い鳥を拾う。
「自分のことになると、途端にこれですか」
◇
白嶺は彩華の着替えと食事を済ませてから、自分の支度を始めた。
乱れていた髪を整える。
化粧をし、皺のないスーツへ着替える。
頬に残っていた跡も隠した。
居間へ戻ったときには、昨夜ソファで眠っていた姿など想像できないほど整っていた。
無月は、白嶺から借りた部屋着の袖を折り返しながら、その姿を見る。
「やはり、別人です」
『何が?』
「何でもありません」
白嶺は台所へ立った。
冷蔵庫から、彩華の昼食と無月が食べるものを取り出す。
『彩華の分は、こっち』
「はい」
『蓋を少しずらして、これに入れる』
白嶺は電子レンジの扉を開けた。
無月が中を覗く。
「火もないのに温まるのですか」
『温まるわ』
「どのような仕組みで」
『知らない』
「知らずに使っておられるのですか」
『使い方さえ分かればいいでしょう』
白嶺は容器を中へ入れ、ボタンを示す。
『この数字まで押して、最後にここ』
「爆発しませんか」
『普通に使えばね』
「普通が分かりません」
『なら、冷たいまま食べなさい』
「彩華様にも冷たいものを食べさせるおつもりですか」
『……今、教えているでしょう』
無月は白嶺の指先を目で追った。
表示された数字と、押したボタンの位置を確かめる。
「もう一度お願いします」
『一度で覚えて』
「あなたは、私がこの道具に触れたことがないと御存じでしょう」
『面倒ね』
「彩華様の食事に関わることです」
白嶺は小さく息を吐き、もう一度最初から説明した。
無月は今度こそ順番を覚えた。
『何かあっても、外へは出ないで』
「承知しております」
『誰が来ても扉を開けない』
「昨日も守りました」
『彩華から目を離さない』
「分かっております」
『それから――』
「白嶺様」
無月が言葉を遮った。
「早く出なければ、遅れるのではありませんか」
白嶺が時計を見る。
『……行ってくるわ』
「はい」
『彩華』
床へ座っていた彩華が顔を上げる。
『行ってきます』
「あぅ」
白嶺は彩華の頬へ触れ、玄関へ向かった。
靴を履いてから、もう一度振り返る。
無月と彩華が居間にいる。
その光景を確かめ、白嶺は扉を閉めた。
◇
会社にいる間、白嶺は普段と変わらなかった。
昨日、色霊を封じたばかりだとは、誰にも気づかせない。
予定どおりに会議へ出席する。
部下の資料を確認し、修正点を伝える。
取引先からの問い合わせにも、その場で回答した。
ただ、ふとした瞬間に眠気が残った。
アイムが身体へ沈んだ影響だった。
目を閉じれば、他人の記憶へ触れてしまいそうな感覚がある。
白嶺は一度も目を閉じなかった。
昼休みになり、美咲が席を立つ。
「加藤さん、お昼はどうしますか?」
『後で行くわ』
「分かりました。何か買ってきましょうか?」
『大丈夫よ』
「はい」
美咲が玲奈たちと部屋を出る。
営業企画部に残る者は少なかった。
白嶺は机の上の資料を閉じる。
朝から、誰かに見られている。
会社へ着く前から気づいていた。
正面玄関ではなく、建物脇の出入口を使う。
外へ出ると、壁際に一人の女が立っていた。
黒いスーツ。
髪を一つに束ね、装飾品は身につけていない。
年齢は、白嶺より少し上に見える。
女は白嶺へ向かい、静かに頭を下げた。
「お久しぶりでございます。白嶺様」
『誰だったかしら』
「私の名など、覚えていただく必要はございません」
『なら、名乗らなくていいわ。用件は?』
「宿彩を御返却ください」
『断る』
女は顔を上げた。
「まだ、何も説明しておりません」
『聞く必要がないもの』
「では、無月もお返しいただきます」
白嶺の目が細くなる。
『あの子は、物ではないわ』
「分家の影です。本家の命に従うために育てられた者。白嶺様の所有物でもございません」
『だから、返すという言い方がおかしいと言っているのよ』
「無月は任務に失敗しました」
『ええ』
「宿彩を取り戻せず、あなたの命を奪うこともできなかった」
『あたしが勝ったからね』
「失敗した影を、本家へ戻さなければなりません」
『戻して、どうするの』
女は答えなかった。
その沈黙だけで充分だった。
白嶺は女を見つめる。
『処分するのね』
「役目を果たせなかった者が、相応の裁きを受けるだけです」
『随分と勝手な話ね』
「虹結家の掟です」
『あたしは、もう虹結の人間ではないわ』
「無月は違います」
『無月も帰らない』
女の表情が、わずかに変わった。
「御本人が、そう申したのですか」
白嶺は答えられなかった。
家にいろと命じたのは自分だ。
無月は、それを受け入れた。
だが、本家へ戻るかどうかを、本人へ尋ねたことはない。
「また、御自分だけでお決めになるのですか」
昨夜、アイムが借りた無月の言葉が蘇る。
守ると言いながら、相手から選ぶ権利を奪う。
あれは、白嶺自身が抱いている後悔から作られた言葉だった。
だからこそ、無視できなかった。
『あの子に選ばせるわ』
「本家へ戻ることを許すと?」
『無月が望むならね』
「戻れば、どのような扱いを受けるか御分かりでしょう」
『分かっている』
「それでも、お尋ねになるのですか」
『あたしの都合だけで決めるよりはいいわ』
女は白嶺を見た。
「変わられましたね」
『昔のあたしを知っているような言い方ね』
「屋敷にいた頃のあなたは、他人の意思など気になさらなかった」
『そうだったかもしれないわね』
「無月を置いて逃げたことも、その一つでしょう」
白嶺は否定しなかった。
胸の奥で、赤い欲望が揺れる。
目の前の女を黙らせろ。
藍色が、その記憶を奪えと囁く。
白嶺はどちらにも従わなかった。
『それを、あたし以外の口から無月へ言わないで』
「事実でしょう」
『ええ。だから、あたしが背負う』
女は一歩、白嶺へ近づいた。
「本家は、ご息女の存在も把握しております」
空気が変わった。
白嶺の手が、腰へ伸びかける。
だが、今は宿彩を持っていない。
会社へ刀を持ち込むことはできなかった。
『彩華に手を出したら、虹結を潰すわよ』
「脅しですか」
『警告よ』
「黒花様が、いつまで抑えてくださるかは分かりません」
白嶺の指が止まる。
『母上が?』
「これ以上は、私から申し上げられません」
女は再び頭を下げた。
「無月へ、選ばせてください」
『言われなくても、そうするわ』
「次にお会いするとき、返答を伺います」
『二度と会社には来ないで』
「では、御自宅へ」
『もっと来るな』
女は表情を変えなかった。
白嶺の横を通り、歩き去る。
その背中が見えなくなるまで、白嶺は動かなかった。
◇
定時になると、白嶺は仕事を終えた。
同僚から見れば、いつもどおりの退勤だった。
帰宅途中で食料品を買う。
彩華の分。
自分の分。
無月の分。
買い物籠へ三人分を入れてから、白嶺はしばらく動きを止めた。
無月が本家へ戻ることを選ぶかもしれない。
その可能性を考えていなかったわけではない。
ただ、考えないようにしていた。
役目がなくなっても、家にいてほしい。
夢の中では言えた。
顔のない色霊を前にしてなら、認めることができた。
本人を前にして、同じ言葉を口にできるかは分からない。
白嶺は無月の分の食材を籠から出さなかった。
◇
玄関の扉を開ける。
「お帰りなさいませ」
無月が迎えた。
白嶺から借りた服を着ている。
袖は折り返されているが、肩も丈も合っていない。
その後ろでは、彩華が床に座り、黄色い鳥を握っていた。
『ただいま』
白嶺は部屋へ入る。
彩華を抱き上げ、身体の様子を確かめた。
『変わったことは?』
「ございません。食事も、教えられたとおりに温めました」
『できたのね』
「私を何だと思っておられるのですか」
『朝は爆発するかって聞いていたでしょう』
「爆発しないと教えていただいたので、使いました」
『そう』
白嶺は彩華を抱いたまま、買ってきたものを台所へ置いた。
無月が袋の中を見る。
「随分と多いですね」
『あなたも食べるでしょう』
「……いただきます」
白嶺は冷蔵庫へ食材をしまう。
背中を向けたまま、口を開いた。
『今日、虹結の人間が来たわ』
無月の気配が変わった。
「どちらへ」
『会社の近く』
「何と申しておりましたか」
『宿彩を返せ。無月も本家へ戻せって』
無月は黙った。
白嶺は冷蔵庫の扉を閉じる。
振り返り、無月を見る。
『戻りたい?』
「何を仰っているのです」
『聞いているのよ』
「私は、ここにいろと命じられました」
『命令は関係ないわ』
「白嶺様の命は、私にとって――」
『それを抜きにして考えて』
無月の言葉が止まる。
『あたしが何も命じなかったとして、あなたは本家へ戻りたいの?』
「戻ったところで、待っているのは処分です」
『それも抜きにして』
「抜きにできることではありません」
『分かっているわよ』
白嶺は彩華を抱く腕へ入りかけた力を抜いた。
『本家に戻れば、役目を果たせなかった責任を取らされる。ここに残れば、虹結から狙われるかもしれない。どちらも安全ではない』
「はい」
『だから、あなたが選びなさい』
無月は白嶺を見つめた。
「私に、選べと?」
『そうよ』
「あなたは、私を家に置くと決めたのではなかったのですか」
『決めたわ』
「では、なぜ今さら尋ねるのです」
『あたしが勝手に決めただけだったからよ』
無月の目が揺れる。
白嶺は視線を逸らさなかった。
『昔、あなたを置いていったときも、あたしが一人で決めた』
「…………」
『今度は、あなたが決めなさい』
「戻ると答えたら、止めないのですか」
白嶺は、すぐには答えられなかった。
止めたい。
戻したくない。
本家へ渡せば、無月がどうなるか分かっている。
それ以前に、無月がこの家からいなくなることを望んでいない。
『止めないわ』
ようやく、白嶺は答えた。
『でも、黙って見ているつもりはない』
「どういう意味ですか」
『本家の連中があなたを処分するつもりなら、その前にあたしが連れ戻す』
「それでは、選ばせる意味がないではありませんか」
『生きるか死ぬかまで自由に選ばせるとは言っていないわ』
「勝手ですね」
『知っているでしょう』
無月は呆れたように息を吐いた。
白嶺の腕の中で、彩華が黄色い鳥を振る。
「あー」
無月は彩華を見る。
続いて、広くはない部屋を見回した。
借りた服。
自分の耀彩。
白嶺が用意した食事。
床に散らばった彩華の玩具。
数日前まで、ここには無月のものなど何一つなかった。
今も、自分のために用意されたものは多くない。
それでも、無月がいる場所はできていた。
「戻りません」
無月が答えた。
『そう』
「本家の命ではなく、私が決めました」
『分かったわ』
「それだけですか」
『何を言えばいいのよ』
「尋ねたのは、白嶺様でしょう」
『残るなら、それでいいわ』
「私が残ることを、望んでおられるのですか」
夢の中で口にした言葉が蘇る。
役目がなくなっても、家にいてほしい。
白嶺は彩華の頭を撫でた。
『彩華を守る人間は、多い方がいいでしょう』
無月の目が細くなる。
「私でなくてもよい、ということですか」
『そうは言っていないわ』
「では、どのような意味です」
『面倒ね』
「御自分から話を始めたのですよ」
『あなたが残ると決めた。それで充分でしょう』
「白嶺様」
『夕食にするわよ』
白嶺は逃げるように台所へ向かった。
彩華を幼児用の椅子へ座らせる。
冷蔵庫を開け、先ほどしまった食材を取り出した。
「話を逸らさないでください」
『料理をするから邪魔しないで』
「先ほどまで、御自分の食事すら作ろうとなさらなかった方がですか」
『今日は作る気になったのよ』
「都合のよいときだけ動きますね」
『食べたくないなら、あなたの分は作らないわよ』
「いただきます」
『なら、座って待っていて』
無月は納得していない顔をしている。
それでも、それ以上は追及しなかった。
白嶺は調理を始める。
包丁を握り、野菜を切る。
しばらくして、無月が背後から尋ねた。
「白嶺様」
『今度は何?』
「本家の者には、どのように答えられたのですか」
白嶺の手が止まる。
『無月は帰らない、と』
「私へ尋ねる前に?」
『そうね』
「結局、最初から決めておられたではありませんか」
『結果は同じだったでしょう』
「私が戻ると答えていたら、どうするおつもりだったのです」
『さあ』
「……あなたという人は」
無月が本気で呆れている。
白嶺は再び包丁を動かした。
『あたしの答えと、あなたの答えが同じだった。それでいいじゃない』
「よくありません」
『細かいわね』
「細かくありません」
彩華が二人の声を聞き、楽しそうに黄色い鳥を振った。
「あぅ」
白嶺は振り返る。
無月も、彩華を見る。
どちらからともなく、会話が止まった。
白嶺は火を弱める。
『無月』
「はい」
『彩華を見ていて』
「承知しました」
無月は彩華の隣へ座った。
黄色い鳥を落とすたびに拾い、手へ戻す。
白嶺は二人へ背を向け、夕食を作り続けた。
無月が残ることを選んだ。
白嶺が、残ってほしいと望んだ。
二つは同じようで、まだ同じではない。
その違いを言葉にするには、もう少し時間が必要だった。
それでも、この家から無月がいなくなることはない。
少なくとも今夜は、三人分の食事を作ればいい。
白嶺には、それで充分だった。




