25話「夢の底」
白嶺が目を開けると、雨が降っていた。
傘は持っていない。
濡れた石畳が、屋敷の門まで続いている。
振り返っても、街はなかった。
あるのは、虹結家の屋敷だけだった。
閉ざされた門の前に、幼い白嶺が立っている。
髪も、着物も、雨に濡れていた。
幼い白嶺は門を見上げたまま、動かない。
『これは、あたしの記憶ではないわね』
白嶺は告げた。
幼い頃、雨の中で門の外へ立たされたことはある。
だが、そのときの自分は泣いていた。
目の前の少女のように、何も感じていない顔などしていなかった。
アイムは記憶を読める。
人物の姿や声だけでなく、その者が抱いている秘密まで探ろうとする。
しかし、起きたことを完全に再現できるわけではない。
読み取った記憶を組み替え、相手が信じたくなる形へ変えている。
門が開いた。
内側に黒花が立っている。
『戻りなさい、白嶺』
黒花の声だった。
話し方も、目の動かし方も似ている。
『あなたは虹結の娘です。外で生きる必要などありません』
『母上は、そんな言い方をしないわ』
『では、どのように言うのです』
『お前に教える必要はない』
黒花の顔が歪んだ。
輪郭が藍色に滲み、その姿が雨へ溶けていく。
屋敷も消えた。
白嶺は暗闇の中へ立っていた。
遠くに、細い藍色の光が見える。
現実で断ち切ったアイムとの繋がり。
その残りが、夢の奥へ伸びている。
白嶺は光を追った。
足元に道はない。
それでも、進もうとすれば身体は前へ動いた。
眠りへ落ちる直前まで握っていた宿彩の感触が、右手に残っている。
白嶺が指を閉じる。
手の中へ、宿彩が現れた。
実物ではない。
白嶺の意識が形にしたものだった。
それでも、繋がりを斬るには充分だった。
◇
無月は、眠る白嶺の傍らへ座っていた。
白嶺の右手は、宿彩の柄を握ったまま動かない。
呼吸は浅い。
額には汗が浮かんでいる。
無月は手を伸ばしかけ、止めた。
不用意に揺り起こせば、夢の中に意識を残したまま、身体だけが目覚めるかもしれない。
色霊が眠りへ干渉したとき、何が起こるのか。
無月にも、すべては分からなかった。
寝室から彩華の声がした。
「あぅ」
無月は立ち上がり、寝室へ入る。
彩華はベビーベッドの中で目を覚ましていた。
枕元の黄色い鳥へ手を伸ばしている。
無月は玩具を取り、彩華へ渡した。
「白嶺様は、今しばらくお休みです」
「あー」
「大きな声を出してはいけません」
「あぅ」
「……返事だけは良いですね」
彩華が黄色い鳥を振る。
無月は彩華を抱き上げた。
白嶺から借りた服の袖が長く、彩華の頬へ触れそうになる。
片手で袖を折り返してから、抱き直した。
玄関の呼び鈴が鳴った。
無月の身体が固まる。
彩華を抱いたまま、寝室の扉から居間を見る。
白嶺は目を覚まさない。
もう一度、呼び鈴が鳴った。
無月は応じなかった。
白嶺から、誰が来ても扉を開けるなと言われている。
廊下へ出てもならない。
それに、今は白嶺と彩華から離れられなかった。
しばらくして、呼び鈴は止んだ。
扉の向こうから、人の気配が消えていく。
無月は彩華を抱いたまま居間へ戻った。
白嶺の呼吸が、さらに浅くなっている。
宿彩を握る指へ、力が入っていた。
「白嶺様」
返事はない。
「私は、ここにおります」
無月は白嶺の前へ膝をついた。
「彩華様も御無事です」
その言葉が届くのかは分からない。
それでも無月は、声を止めなかった。
「あなたは、帰ると仰いました」
◇
藍色の光を追ううちに、白嶺は駅前へ出た。
雨が降っている。
人通りの少ない歩道に、かつての夫が立っていた。
手には傘を持っている。
まだ白嶺が虹結の屋敷で暮らしていた頃。
外へ出た白嶺が、偶然彼と出会った日の姿だった。
「濡れますよ」
男が傘を差し出す。
あの日と同じ言葉だった。
白嶺は立ち止まった。
「どうして、何も話してくれなかったんですか」
続いた言葉は、あの日のものではない。
「あなたが何者なのか。何から逃げているのか。どうして、僕と別れようとしたのか」
『黙りなさい』
「僕を守るためだったと言えば、何をしても許されるんですか」
『黙れ』
「僕は、あなたに守ってほしいとは頼んでいない」
胸の奥が、強く痛んだ。
言われたことのない言葉だった。
それでも、かつて何度も想像した。
本当のことをすべて知れば、彼はそう言ったかもしれない。
白嶺を責めたかもしれない。
あるいは、一緒に逃げると言ったかもしれない。
白嶺は、そのどちらも選ばせなかった。
自分だけで決めて、別れを告げた。
「あなたはいつもそうだ」
男の顔が変わる。
無月になった。
「守ると言いながら、相手から選ぶ権利を奪う」
無月が白嶺を見つめる。
「私を置いていったときも」
『その顔で、それ以上話すな』
「役目が終われば、また私を捨てるのでしょう?」
無月の輪郭から、藍色の雫が落ちた。
「本当は、もう決めているのではありませんか」
白嶺は宿彩を抜いた。
『それを無月へ言うのは、あたしよ』
「言えないから、隠しているのでしょう?」
『ええ。まだ言っていない』
「ならば、私が代わりに――」
『お前の口から言わせない』
宿彩を振る。
無月の姿が、横一文字に断たれた。
傷口は開かない。
身体全体が藍色の霧となって崩れ、その奥から細い光が現れた。
光は、さらに暗い場所へ続いている。
白嶺は迷わず踏み込んだ。
◇
夢の底に、子供が座っていた。
顔がない。
髪も、服も、肌も、すべてが薄い藍色でできている。
周囲には、数え切れないほどの顔が浮かんでいた。
黒花。
かつての夫。
彩華。
美咲。
玲奈。
無月。
そして、白嶺自身。
子供が顔のない頭を上げる。
「どれが、お前だ」
声は、幾人もの声が重なっていた。
『加藤白嶺よ』
「虹結白嶺ではないのか」
『それも、あたしの名前だった』
「妻ではないのか」
『そうだったこともある』
「虹結から逃げた娘」
『間違ってはいないわね』
「彩華の母親」
『今のあたしにとって、一番大切なものよ』
浮かんでいた顔が、一斉に白嶺を見た。
「では、無月にとって、お前は何だ」
白嶺は答えなかった。
子供の顔に、口だけが現れる。
「言えない」
『そうね』
「隠している」
『ええ』
「ならば、それを寄越せ」
周囲の顔が笑った。
「言えないものは、お前のものではない」
藍色の腕が、白嶺の胸へ伸びる。
指先が触れる直前、現実から声が聞こえた。
遠い。
それでも、聞き間違えるはずがなかった。
「あなたは、帰ると仰いました」
無月の声だった。
白嶺は藍色の腕を掴んだ。
『聞こえているわよ』
子供が初めて後ずさる。
『あたしが誰かは、あたしが決める』
「お前は隠している」
『隠していることも、あたしの一部よ』
「ならば言え」
『お前に命令されて言うことではない』
白嶺の髪が伸びる。
腰を越え、膝へ届く。
赤、橙、黄、褐色、緑。
封じた色が一部の髪へ現れ、暗い夢の底を照らした。
白嶺は宿彩を構える。
『無月には、役目がなくなっても家にいてほしいと思っている』
子供の身体が揺れた。
周囲に浮かんでいた無月の顔へ、亀裂が入る。
『これは、あたしの秘密よ』
「言った」
『ええ』
「隠さなかった」
『いずれ本人にも話す。だから、お前には渡さない』
子供の背後に、藍色の塊が現れた。
人の顔を借りる前の、歪んだ色。
光の筋は、そこへ繋がっている。
白嶺は踏み込んだ。
子供が黒花へ変わる。
『白嶺』
かつての夫へ変わる。
「待ってください」
彩華へ変わる。
「まー」
最後に、無月へ変わった。
「置いていかないでください」
宿彩の切っ先が止まりかける。
現実の無月の声が、もう一度届いた。
「私は、ここにおります」
偽物の無月が笑う。
「斬れるのですか」
『斬るわ』
白嶺は宿彩を振り下ろした。
『本物は、あたしの帰りを待っている』
刃が藍色の塊を断つ。
夢の底に、細い光が走った。
浮かんでいた顔が砕ける。
雨の駅も、虹結の屋敷も、暗闇も、すべてが藍色へ溶けていく。
子供の姿へ戻ったアイムが、白嶺を見上げた。
「顔が、ない」
『借り続けたからでしょう』
「お前の顔を、寄越せ」
『嫌よ』
白嶺は宿彩の切っ先を返し、そのまま突き出した。
刃が、アイムの中心を貫く。
藍色の光が白嶺へ流れ込んだ。
髪の一部が、深い藍へ染まる。
眠気。
秘密。
他者の記憶を覗き、その姿を借りる欲望。
それらすべてが、白嶺の胸の奥へ沈んでいく。
アイムの姿が消えた。
夢の底に、何もなくなる。
『帰らないと』
白嶺は目を閉じた。
◇
白嶺の身体が大きく震えた。
「白嶺様」
無月が身を乗り出す。
白嶺の目が開いた。
伸びていた髪は元へ戻り、藍色に染まった一房も白へ戻っていく。
白嶺は天井を見たまま、何度か呼吸をした。
『……水』
最初に出た言葉に、無月は瞬きをした。
「大丈夫なのですか」
『大丈夫ではないから、水が欲しいの』
「封じたのですか」
『封じたわ。だから、早く』
無月は彩華を片腕で抱いたまま、台所へ向かった。
コップへ水を入れ、白嶺へ差し出す。
白嶺は起き上がろうとして、途中で力を失った。
『無月』
「何でしょう」
『飲ませて』
「……承知しました」
無月の顔がわずかに引きつった。
「本当に、家の中では遠慮がないのですね」
『家の中でまで格好をつける必要はないでしょう』
「限度というものがあります」
そう言いながらも、無月は白嶺の肩を支え、コップを口元へ運んだ。
白嶺は半分ほど飲んだところで顔を背ける。
『もういい』
「まだ残っています」
『一度に飲むと気持ち悪くなる』
「では、残りはここへ置いておきます」
無月はコップを机へ置いた。
腕の中の彩華が、白嶺へ手を伸ばす。
「まー」
白嶺はすぐに身体を起こした。
先ほどまで動けないと言っていた人間とは思えない速さだった。
無月から彩華を受け取り、頬や手足を確かめる。
『何ともない?』
「あぅ」
『変な夢は見なかった?』
「あー」
「彩華様に異変はありません。御無事です」
無月が答えた。
白嶺は彩華を胸へ抱き寄せる。
強くなりかけた腕から、自分で力を抜いた。
『ありがとう』
無月は目を伏せた。
「私は、何もしておりません」
『声が聞こえたわ』
無月が顔を上げる。
『帰ると約束したって、随分しつこく言っていたでしょう』
「一度しか申しておりません」
『夢の中では、何度も聞こえた気がしたのよ』
「では、色霊が勝手に増やしたのでしょう」
『そうかもしれないわね』
白嶺は彩華の髪を撫でた。
胸の奥には、六つの色が沈んでいる。
赤。
橙。
黄。
褐色。
緑。
そして、藍。
眠りの奥へ潜んでいた気配は、もう消えていた。
「アイムは、何を見せたのですか」
無月が尋ねる。
『色々よ』
「私の姿も使いましたか」
『使ったわ』
「何を言われたのです」
白嶺は無月を見る。
役目がなくなっても、ここにいてほしい。
夢の中では言えた。
だが、本人を前にすると、同じ言葉は簡単には出てこなかった。
『今、話す必要はないわ』
無月の眉がわずかに動く。
それでも、追及はしなかった。
「承知しました」
白嶺は視線を逸らした。
『それより、誰か来たの?』
「呼び鈴が鳴りました。扉は開けておりません」
『そう』
「先日と同じ者かは分かりません」
『開けなくて正解よ』
「言いつけは守ります」
『ええ。知っている』
無月は玄関へ目を向けた。
扉の向こうに、人の気配はない。
だが、虹結家がこの場所を見張っていることは変わらない。
色霊を一体封じても、危険が一つ減っただけだった。
白嶺は彩華を抱いたまま、ソファへ深く沈む。
『今日はもう何もしたくない』
「夕食はどうされるのですか」
『作って』
「私は、この時代の料理などできません」
『冷蔵庫にあるものを温めればいいわ』
「どれを、どのように温めるのです」
『それくらい自分で考えて』
「分からないから聞いているのです」
『じゃあ、今日は食べなくてもいい』
無月はしばらく白嶺を見つめた。
会社では隙なく働き、色霊との戦いでは迷わず刃を振るう。
その同じ人間が、家へ戻った途端、食事すら放棄しようとしている。
「……白嶺様」
『何?』
「これでは、彩華様だけでなく白嶺様からも目を離せません」
『分かっているわよ』
「本当に分かっておられますか」
『彩華の面倒を見てくれているだけで充分よ。あたしは勝手に生きるから』
「放っておけば、勝手に食事を抜くのでしょう」
『一食くらい平気よ』
無月は露骨に顔をしかめた。
白嶺は彩華を抱き、ソファへ横になる。
数分もしないうちに、その目が閉じ始めた。
「また眠るのですか」
『今度は、ただの睡眠よ』
「せめて寝台へ移ってください」
『動きたくない』
「風邪をひきます」
『毛布をかけて』
「…………」
無月は、しばらく言葉を失っていた。
やがて深い溜息をつき、白嶺の肩から彩華を受け取る。
白嶺は抵抗せずに手放した。
無月は寝室から毛布を持ってきて、白嶺へかける。
「屋敷におられた頃からは、想像もつかない御姿です」
『そうかもしれないわね』
「せめて、否定なさってください」
『面倒』
無月は本気で引いた顔をした。
それでも、毛布の端を整える。
彩華が黄色い鳥を白嶺の胸元へ置いた。
「あー」
白嶺は目を閉じたまま、玩具へ手を添える。
『おやすみ』
「まだ夕方です」
『少しだけよ』
無月は返事をしなかった。
彩華を抱いたまま、眠る白嶺の傍らへ座る。
今度の呼吸は穏やかだった。
藍色の影も現れない。
無月は白嶺の寝顔を見下ろした。
夢の中で何を見たのか。
自分の姿を借りたアイムが、何を語ったのか。
白嶺は答えなかった。
だが、帰ってきた。
約束を守り、彩華と無月のいる場所へ戻ってきた。
今は、それでよかった。




