36話「離れない手」
翌朝。
白嶺が目を覚ますと、掛け布団は腰の下へ丸まっていた。
枕は床に落ちている。
昨夜、脱いだ上着は椅子の背へ半分だけ掛かり、その下には会社用の鞄が開いたまま置かれていた。
机には飲みかけの水。
空になったコーヒーの缶。
読みかけの本。
使った覚えのない髪留めが二つ。
宿彩の鞘には、薄手の部屋着が掛けられている。
白嶺は横になったまま、部屋の中を見渡した。
昨夜より散らかっている気がする。
誰かが入った形跡はない。
ならば、自分で散らかしたのだろう。
『……寝ている間に増えたのかしら』
「増やしたのは白嶺様です」
すぐ近くから声がした。
白嶺が顔を向ける。
無月が床へ座り、椅子から落ちかけていた上着を畳んでいた。
その脇には彩華がいる。
黄色い鳥を片手に握り、もう片方の手で無月の袖を掴んでいた。
『何をしているの?』
「片づけています」
『見れば分かるわ。どうして片づけているのかと聞いているの』
「起きましたので」
『起きたら片づける決まりはないでしょう』
「散らかしたままにする決まりもありません」
無月は畳んだ上着を脇へ置き、床の衣服へ手を伸ばした。
その動きが、わずかに止まる。
昨夜受けた傷は浅い。
手当ても済んでいる。
それでも、身体を曲げれば痛みはあるらしい。
白嶺は上半身を起こした。
『やめなさい』
「問題ありません」
『問題があるかどうかは、あたしが決めるわ』
「私の身体です」
『この部屋はあたしの部屋よ』
「だから片づけています」
『なら、なおさら触らないで』
無月が白嶺を見る。
「散らかっている方がよいのですか」
『散らかっているのではないわ』
「では、何ですか」
『配置よ』
白嶺は床を指した。
『どこに何があるか、すべて把握している』
「その衣服は何ですか」
『……部屋着』
「その下にあるものは」
『別の部屋着』
「その隣は」
『いつか着る部屋着』
「把握できていません」
『種類までは把握しているわ』
無月はしばらく白嶺を見たあと、再び衣服へ手を伸ばした。
『だから、やめなさい』
白嶺は布団から出る。
素足で床へ下りたところで、何かを踏んだ。
足を上げる。
髪留めだった。
『これは、ここに置いた覚えがないわね』
「先ほど、把握していると仰ったばかりです」
『知らないものまで把握するのは不可能でしょう』
「白嶺様のものではないのですか」
『あたしのものよ』
「では、なぜ知らないのですか」
『朝から質問が多いわね』
白嶺は髪留めを机へ置いた。
無月の手から衣服を取り上げ、床へ戻す。
「なぜ戻すのですか」
『あなたに片づけさせないためよ』
「御自身で片づけてください」
『あとでやるわ』
「昨日も同じことを仰っていました」
『昨日のあたしと今日のあたしを同じにしないで』
「何か変わったのですか」
『日付が変わったわ』
「それ以外は」
『今から探すところよ』
無月は何も言わなかった。
代わりに、彩華が声を上げる。
「あぅ」
黄色い鳥を振り、無月の袖を引いた。
無月が彩華を見る。
「起きています」
「あー」
「ここにいます」
それでも彩華は袖を離さなかった。
昨夜から、何度も同じことを繰り返している。
無月が少し離れようとするだけで、彩華は手を伸ばした。
姿が見えなくなれば泣く。
隣へ戻れば、何事もなかったように黄色い鳥で遊び始める。
白嶺は彩華の前へしゃがんだ。
『彩華』
「あぅ」
『無月は逃げないわよ』
彩華は白嶺を見た。
続いて無月を見る。
袖を掴む指へ、さらに力を込めた。
『信用されていないみたいね』
「白嶺様がですか」
『どうしてあたしになるのよ』
「彩華様は、私ではなく白嶺様の言葉を聞いたあとに袖を掴み直しました」
『偶然よ』
「そうでしょうか」
『そういうことにしておきなさい』
白嶺は彩華を抱き上げようとした。
彩華の身体が持ち上がる。
だが、手は無月の袖を掴んだままだった。
布が引かれ、無月の上半身がわずかに傾く。
『離しなさい。無月までついてくるでしょう』
「あー」
『二人まとめて抱くのは無理よ』
「試す必要はありません」
『まだ何もしていないわ』
「しようとはしたのですね」
『少しだけ』
無月は彩華の指を一本ずつ袖から外した。
離れた瞬間、彩華の眉が下がる。
泣き出す前に、無月が立ち上がった。
白嶺の腕の中にいる彩華へ手を伸ばす。
彩華はすぐにその指を握った。
「これでよいでしょうか」
「あぅ」
今度は泣かなかった。
白嶺は、無月の指を握る小さな手を見る。
胸の奥で紫がわずかに揺れた。
自分が抱いているのに、彩華が求めているのは無月だった。
面白くない。
浮かんだ感情を、白嶺は否定しなかった。
そのすぐ隣で、桃色が甘く滲む。
もっと近くにいたい。
触れていたい。
離れたくない。
誰の思いへ向いているのか、色の境目が曖昧だった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、桃。
八つの色が、今は白嶺の中にある。
感じることと、従うことは違う。
昨日、自分へ言い聞かせた言葉を思い出す。
『しばらく、そのままでいてあげて』
「白嶺様はよいのですか」
『何が?』
「彩華様が私を求めても」
白嶺は無月を見た。
無月は表情を変えていない。
だが、尋ねる必要がないことまで尋ねている。
白嶺が嫉妬を自覚していることを、無月も知っていた。
『面白くはないわ』
「やはり」
『でも、離しなさいとは言わない』
白嶺は彩華を抱き直した。
『彩華が自分から掴んだものを、あたしの都合で取り上げるつもりはないわ』
彩華の指が、無月の人差し指を包んでいる。
小さく、弱い手だった。
それでも、無月は動かなかった。
「承知しました」
『ただし』
「何でしょうか」
『腕ごと持っていかれないように気をつけなさい』
「そのような力はありません」
『彩華を侮らない方がいいわ』
「白嶺様と同じに考えていませんか」
『あたしは人の腕を持っていかないわよ』
「昨日、私を抱き上げようとしました」
『運ぼうとしただけでしょう』
「断りました」
『だから歩かせたわ』
「傷が浅いと分かっていたからです」
『最初から分かっていたわ』
「なら、なぜ抱き上げようとしたのですか」
『できそうだったから』
「理由になっていません」
『朝食にしましょう』
白嶺は話を切り上げ、彩華を抱いたまま部屋を出た。
無月も指を握られたまま、そのあとへ続いた。
◇
彩華の朝食を用意したあと、白嶺は自分の前へコーヒーを置いた。
無月の前には、昨夜の残りで作った雑炊がある。
負傷した身体でも食べやすいよう、味は薄くしてあった。
無月が白嶺の前を見る。
あるのはコーヒーだけだった。
「白嶺様の朝食は」
『これよ』
「飲み物です」
『豆からできているわ』
「飲み物です」
『牛乳も入っている』
「食事にはなりません」
『朝は固形物を受けつけないのよ』
「昨日、眠る前に菓子を食べていました」
『夜だったからでしょう』
「机に袋が残っていました」
『やはり配置は把握できていたわね』
「片づけてください」
白嶺はコーヒーへ口をつけた。
向かいでは彩華が椅子に座り、朝食を口へ運ばれている。
白嶺が匙を差し出せば、素直に口を開ける。
自分の食事はコーヒーで済ませようとする一方で、彩華の分量と栄養は毎日確かめていた。
無月はそれ以上、白嶺の朝食について言わなかった。
『今日一日は休みなさい』
「必要ありません」
『掃除も鍛錬も禁止よ』
「傷は浅いものです」
『浅いから動いていいとは限らないでしょう』
「彩華様のおそばを離れるつもりはありません」
『それと休むことは両立できるわ』
「何もしない方が落ち着きません」
『なら、彩華を見ていて』
「それは普段と変わりません」
『普段どおりなら落ち着くでしょう』
無月は答えなかった。
彩華が黄色い鳥を机へ置き、無月へ手を伸ばす。
無月が指を差し出すと、すぐに握った。
『それで十分よ』
「しかし」
『命令』
白嶺が短く告げる。
無月は口を閉じた。
「承知しました」
『素直で助かるわ』
「命令でなければ従っていません」
『結果が同じなら問題ないでしょう』
彩華が口を開ける。
白嶺は次の一匙を食べさせた。
無月の雑炊から湯気が立っている。
『冷める前に食べなさい』
「白嶺様も何か召し上がってください」
『あとで』
「いつですか」
『日付が変わる前には』
「朝食ではありません」
『細かいわね』
白嶺は冷蔵庫から小さなヨーグルトを取り出した。
蓋を開け、無月へ見せる。
『これでいい?』
「私へ確認することではありません」
『あなたが言ったのでしょう』
「子供ではないのですから、御自身で決めてください」
『子供でもないのに朝食を監視されているのだけれど』
「監視ではありません」
『なら、見ないで』
「召し上がれば見ません」
白嶺は諦めて、ヨーグルトを口へ運んだ。
◇
営業企画部へ入った白嶺は、いつもどおり自分の席へ向かった。
髪は整っている。
スーツに皺はない。
自宅の床へ部屋着を三着置いてきた人間には見えなかった。
席へ着く前に、美咲が立ち上がる。
「加藤さん」
『おはよう』
「おはようございます」
美咲の顔には、まだ疲れが残っていた。
桃色の気配はない。
白嶺がモモマユを封じたことで、美咲の中へ張り巡らされていた糸は消えている。
それでも、モモマユに膨らまされた感情までなくなったわけではない。
「昨日は……すみませんでした」
周囲へ聞こえないよう、美咲が声を落とす。
『ここでする話ではないわ』
「はい」
『昼休みに会議室へ来て』
「分かりました」
美咲は席へ戻った。
少し離れた場所から、玲奈がその様子を見ている。
白嶺と目が合うと、玲奈は小さく頷いた。
◇
昼休み。
美咲が会議室へ入ると、すでに玲奈がいた。
「中村先輩も……?」
「加藤さんに呼ばれたの」
白嶺は扉を閉め、美咲と玲奈を向かい合わせて座らせた。
『昨日のことを話す前に、二人へ説明しておくことがあるわ』
美咲が白嶺を見る。
玲奈は何も言わなかった。
『中村さんには以前、少しだけ話したけれど、佐藤さんもいるから改めて説明する』
「はい」
『人の感情へ取りつき、それを膨らませるものがいるの』
美咲の表情が僅かに強張った。
『あたしたちは、それを色霊と呼んでいる』
「色霊……」
『それぞれが異なる色と性質を持っている。怒りや欲望、嫉妬、憧れ。人の中にある感情へ入り込み、本人では抑えられないほど強くする』
「では、昨日の私は……」
『桃色の色霊に取りつかれていた』
美咲が胸元へ手を当てた。
すでに桃色の糸はない。
『名前はモモマユ。人の中にある憧れや慕う気持ちを強くして、相手だけを求めるように変えていく色霊よ』
「中村先輩のときも、同じだったんですか」
『あのときは紫の色霊。名前はシトウ。膨らませる感情は嫉妬よ』
玲奈が静かに頷いた。
「私が佐藤さんに向けていた嫉妬を、抑えられなくした」
『色霊は、何もないところから感情を作るわけではない』
白嶺は二人を見る。
『もともと本人の中にあった感情へ入り込み、それを利用する。だから、色霊が消えても、抱いていた感情まで消えるわけではない』
美咲が膝の上で手を握った。
「加藤さんは、どうしてそのようなものを知っているんですか」
『あたしの家に、昔から関わりのあるものだからよ』
「加藤さんの家……」
『今、話せるのはそこまで』
白嶺は静かに告げた。
『詳しく知れば、二人をこれまで以上に巻き込むことになる。あたしはそれを望んでいない』
「昨日、加藤さんが姿を変えたことも関係しているんですか」
『ええ』
「色霊を封じたのも、加藤さんなんですか」
『そうよ』
「封じた色霊は、どうなったんですか」
白嶺は僅かに間を置いた。
『あたしの中にいる』
美咲が目を見開く。
「危険ではないんですか」
『危険でないとは言えないわ』
「だったら、どうして……」
『放っておけば、ほかの人間へ取りつくからよ』
「でも、加藤さんが苦しむことになります」
『今のところ、仕事を休むほどではないわ』
「そういう問題ではありません」
『あたしにとっては重要な問題よ』
玲奈が小さく息を吐いた。
「佐藤さん。加藤さんは、こういう人だから」
「中村先輩は知っていたんですか」
「私のときにも、同じことをしたから」
美咲は白嶺を見つめた。
心配と戸惑いが、その顔へ浮かんでいる。
『今は、昨日あなたたちに起きたことを理解してくれればいい』
「……はい」
『色霊に膨らまされた感情へ従ったからといって、すべてがあなたたちの意思だったとは言わない。でも、すべてを色霊だけのせいにもできない』
美咲は視線を落とした。
今度は、自分が口にしてもよい言葉として、その名を繰り返す。
「色霊のせいだったからといって、全部が嘘だったわけではないんですね」
『ええ』
美咲が玲奈へ向き直る。
「中村先輩。本当に、すみませんでした」
「謝るのは私も同じだよ」
美咲は顔を上げた。
「どうしてですか」
「私も前に、似たようなことをしたから」
「でも、昨日の私は……」
「覚えてるんでしょう」
「はい」
忘れられなかった。
玲奈に向けた言葉。
白嶺を自分だけのものにしようとした思い。
邪魔をする者を遠ざけたいと願ったこと。
すべて、美咲の記憶に残っている。
「私の中に、もともとあった気持ちです。加藤さんを見てほしくない。中村先輩より近くにいたい。私だけを必要としてほしいって……」
「うん」
「否定しないんですか」
「否定してほしいの?」
美咲は答えられなかった。
玲奈は静かに続ける。
「私も、佐藤さんが加藤さんに褒められるのを面白くないと思ってた。佐藤さんが自分より近くにいるように見えて、勝手に比べてた」
「中村先輩が?」
「シトウは、そこへ入り込んだ。でも、嫉妬したのは私だよ」
玲奈は白嶺を見る。
「加藤さんに、そう教えてもらった」
美咲も白嶺へ目を向けた。
『感情があること自体を、悪いとは言わないわ』
「でも、私は中村先輩を傷つけました」
『ええ』
白嶺は否定しなかった。
『だから謝る。次に同じ感情を抱いたとき、どうするかを考える。それしかないでしょう』
「許してもらえるんでしょうか」
『それを決めるのは中村さんよ』
美咲は玲奈へ向き直った。
「中村先輩。御迷惑をおかけしました。許してもらえなくても、二度と同じことはしません」
玲奈はしばらく美咲を見た。
「許すよ」
「そんなに簡単に……」
「簡単じゃない。でも、私も加藤さんに許してもらったから」
『あたしは許すとは言っていないわよ』
「えっ」
玲奈が白嶺を見る。
『あなたが勝手に立ち直っただけでしょう』
「そこは許したことにしてくれてもいいじゃないですか」
『事実は正確に扱うべきよ』
「加藤さん、こういうところありますよね」
「あります」
美咲が小さく答えた。
玲奈が笑う。
つられるように、美咲の口元も緩んだ。
二人の間にあった張り詰めたものが、少しずつ解けていく。
その光景を見て、白嶺の胸の奥で紫が揺れた。
二人だけで分かり合っていることが、わずかに面白くない。
桃色は、その輪の中へ入りたいと求める。
白嶺は机へ置いた指先を動かさなかった。
これは、二人が向き合うための時間だった。
自分が奪うものではない。
「加藤さん」
美咲が白嶺を見た。
「私、これからも加藤さんの下で働いていいですか」
『異動の予定はないわ』
「そういう意味ではなくて……」
『分かっているわ』
美咲は返事を待った。
『昨日のことで、あなたの仕事に対する評価を変えるつもりはない』
「はい」
『ただし、あたしに認められることだけを目的にしないで』
美咲の表情が強張る。
『あなたが成長するのは、あたしのそばにいるためではないわ。自分でできることを増やすためよ』
「それでは、加藤さんは必要なくなります」
『必要がなくなることを喜ぶのが、教える側の仕事でしょう』
「加藤さんは、それでいいんですか」
今度は、白嶺がすぐに答えられなかった。
美咲が自分を必要としなくなる。
その想像へ、赤と紫が強く反応する。
桃色は、離れてほしくないと甘く絡みついた。
だが、それらに従って答えを変えることはできない。
『寂しいとは思うかもしれないわね』
美咲が目を見開く。
玲奈も驚いたように白嶺を見た。
『でも、必要とされるためにあなたの成長を止めるほど、あたしは落ちていないわ』
「……はい」
『どうして残念そうなの?』
「少しだけ、期待しました」
『何を?』
「秘密です」
『そう』
白嶺は追及しなかった。
美咲の顔には、朝よりも自然な笑みが戻っている。
その笑顔が自分へ向けられていることを、白嶺は嬉しいと感じた。
それが色霊の影響だけではないことも、もう否定しなかった。
◇
帰宅した白嶺は、自分の部屋を覗いた。
床の衣服は、朝と同じ場所にある。
コーヒーの空き缶も机に残っていた。
宿彩に掛けた部屋着まで、そのままだ。
『何も動いていないわね』
リビングから無月が答える。
「触るなと命じられましたので」
『そこまで忠実に守るとは思わなかったわ』
「守らなければ、命令した意味がありません」
『少しくらい片づけてもよかったのよ』
「どちらですか」
『融通を利かせなさいと言っているの』
「片づければ怒るのではありませんか」
『怒らないわ』
「では、御自身で片づけてください」
『それとこれとは別でしょう』
白嶺は自分の部屋を閉めた。
見なかったことにする。
リビングへ入ると、無月が壁へ背を預けて座っていた。
その膝へ彩華が身体を寄せている。
黄色い鳥は床に転がっていた。
『今日は鳥より無月なの?』
「あぅ」
『返事だけはいいわね』
白嶺が近づく。
彩華は顔を上げ、両腕を伸ばした。
白嶺は抱き上げる。
今度は、無月の服を掴まなかった。
『朝より聞き分けがよくなったわ』
「眠いだけです」
『あたしに会いたかったのかもしれないでしょう』
「その可能性もあります」
『珍しく否定しないのね』
「白嶺様を待っていたのは事実です」
彩華が白嶺の胸元へ顔を寄せる。
白嶺はその背中を撫でた。
『傷は?』
「問題ありません」
『痛む?』
「僅かに」
『なら、問題はあるでしょう』
「動けます」
『動けるかどうかを聞いていないわ』
無月は黙った。
白嶺はその隣へ座る。
しばらくすると、彩華が白嶺の腕の中から無月へ手を伸ばした。
無月が指を差し出す。
彩華はそれを握った。
白嶺に抱かれながら、無月とも繋がっている。
どちらか一方を選ぶ必要など、彩華にはないのだろう。
胸の奥で紫が小さく疼いた。
それでも、今朝ほど強くはなかった。
『欲張りね』
「あー」
『誰に似たのかしら』
「白嶺様ではありませんか」
『あたしは慎ましいわよ』
「三千九百八十円の着物を、戦うたびに着ている方がですか」
『何度も使えているのだから、よい買い物だったでしょう』
「一度、斬られているではありませんか」
『浅かったわ』
「白嶺様ではなく、着物の話です」
『着物も浅かったわ』
「補修したから、今も着られるのです」
『なら、まだ元を取れるわね』
「値段の問題ではありません」
『さっきから問題が変わってばかりね』
「白嶺様が変えているのです」
無月が僅かに息を吐く。
呆れているのか、笑いかけたのか、白嶺には判別できなかった。
彩華の目が閉じていく。
無月の指を握る力だけは、まだ残っていた。
◇
夜。
眠った彩華をベビーベッドへ寝かせる。
白嶺が黄色い鳥を隣へ置いた。
無月は彩華の手から、ゆっくりと指を抜こうとした。
小さな指が動く。
離れかけた無月の指を、もう一度握った。
彩華の目は閉じたままだった。
「……離れません」
『そうね』
「どうすればよいでしょうか」
『そのままでいればいいでしょう』
「白嶺様は」
『あたしもここにいるわ』
「自室へ戻らないのですか」
『戻ったら片づけなければならないもの』
「片づけるつもりはあったのですね」
『眠る前に体力を使いたくないわ』
「明日の朝も同じことを仰るのでしょう」
『明日のあたしに聞いて』
白嶺はベビーベッドの脇へ座った。
無月も反対側に座っている。
二人の間で、彩華が眠っていた。
しばらく待っても、彩華は無月の指を離さない。
『人気者ね』
「困っています」
『嫌なの?』
「分かりません」
無月は握られた指を見る。
「このようなとき、どうすればよいのか知りません」
『何もしなくていいわ』
「しかし」
『必要とされているからといって、何かを返さなければならないわけではないでしょう』
無月が白嶺を見る。
『そこにいてあげるだけで足りることもあるわ』
「それだけでよいのですか」
『彩華に聞いてみれば?』
無月は眠っている彩華へ顔を向けた。
「これでよいのでしょうか」
返事はない。
代わりに、彩華の指が一度だけ動いた。
無月の指を、確かめるように握り直す。
『よいそうよ』
「答えていません」
『細かいことを気にすると眠れなくなるわ』
「白嶺様が適当すぎるのです」
『適当ではないわ。柔軟と言って』
無月は反論しなかった。
彩華の寝息だけが、静かな部屋へ続いている。
やがて、小さな手から力が抜けた。
無月は今度こそ指を離す。
彩華は目を覚まさなかった。
「では、自室へ戻ります」
『ええ。おやすみ』
「白嶺様も、床で眠らず寝室へ戻ってください」
『少しくらい、ここで休んでもいいでしょう』
「風邪を引きます」
『布団を持ってくれば解決するわね』
「寝室で眠ってください」
『分かったわよ』
無月が立ち上がり、自分の部屋へ向かう。
扉の前で一度だけ振り返った。
彩華が眠っていることを確かめる。
白嶺はその視線に気づいたが、何も言わなかった。
無月の部屋の扉が閉じる。
同じ家の中にいる。
壁と扉を一枚隔てただけの場所に。
白嶺は彩華の頬へ触れた。
胸の奥では、八つの色が静かに沈んでいる。
離したくないと思う。
近くにいてほしいと願う。
その感情を抱えたまま、それでも相手が戻る場所を奪わない。
白嶺は立ち上がった。
自分の部屋へ戻り、床に落ちていた枕だけを拾う。
衣服には目を向けなかった。
『片づけは、明日ね』
誰も聞いていない部屋で呟く。
昨日の白嶺も、同じことを言っていた。
明日の白嶺も、おそらく同じことを言う。
白嶺はその事実を深く考えず、布団へ入った。




