↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/36

36話「離れない手」

翌朝。


 白嶺が目を覚ますと、掛け布団は腰の下へ丸まっていた。


 枕は床に落ちている。


 昨夜、脱いだ上着は椅子の背へ半分だけ掛かり、その下には会社用の鞄が開いたまま置かれていた。


 机には飲みかけの水。


 空になったコーヒーの缶。


 読みかけの本。


 使った覚えのない髪留めが二つ。


 宿彩の鞘には、薄手の部屋着が掛けられている。


 白嶺は横になったまま、部屋の中を見渡した。


 昨夜より散らかっている気がする。


 誰かが入った形跡はない。


 ならば、自分で散らかしたのだろう。


『……寝ている間に増えたのかしら』


「増やしたのは白嶺様です」


 すぐ近くから声がした。


 白嶺が顔を向ける。


 無月が床へ座り、椅子から落ちかけていた上着を畳んでいた。


 その脇には彩華がいる。


 黄色い鳥を片手に握り、もう片方の手で無月の袖を掴んでいた。


『何をしているの?』


「片づけています」


『見れば分かるわ。どうして片づけているのかと聞いているの』


「起きましたので」


『起きたら片づける決まりはないでしょう』


「散らかしたままにする決まりもありません」


 無月は畳んだ上着を脇へ置き、床の衣服へ手を伸ばした。


 その動きが、わずかに止まる。


 昨夜受けた傷は浅い。


 手当ても済んでいる。


 それでも、身体を曲げれば痛みはあるらしい。


 白嶺は上半身を起こした。


『やめなさい』


「問題ありません」


『問題があるかどうかは、あたしが決めるわ』


「私の身体です」


『この部屋はあたしの部屋よ』


「だから片づけています」


『なら、なおさら触らないで』


 無月が白嶺を見る。


「散らかっている方がよいのですか」


『散らかっているのではないわ』


「では、何ですか」


『配置よ』


 白嶺は床を指した。


『どこに何があるか、すべて把握している』


「その衣服は何ですか」


『……部屋着』


「その下にあるものは」


『別の部屋着』


「その隣は」


『いつか着る部屋着』


「把握できていません」


『種類までは把握しているわ』


 無月はしばらく白嶺を見たあと、再び衣服へ手を伸ばした。


『だから、やめなさい』


 白嶺は布団から出る。


 素足で床へ下りたところで、何かを踏んだ。


 足を上げる。


 髪留めだった。


『これは、ここに置いた覚えがないわね』


「先ほど、把握していると仰ったばかりです」


『知らないものまで把握するのは不可能でしょう』


「白嶺様のものではないのですか」


『あたしのものよ』


「では、なぜ知らないのですか」


『朝から質問が多いわね』


 白嶺は髪留めを机へ置いた。


 無月の手から衣服を取り上げ、床へ戻す。


「なぜ戻すのですか」


『あなたに片づけさせないためよ』


「御自身で片づけてください」


『あとでやるわ』


「昨日も同じことを仰っていました」


『昨日のあたしと今日のあたしを同じにしないで』


「何か変わったのですか」


『日付が変わったわ』


「それ以外は」


『今から探すところよ』


 無月は何も言わなかった。


 代わりに、彩華が声を上げる。


「あぅ」


 黄色い鳥を振り、無月の袖を引いた。


 無月が彩華を見る。


「起きています」


「あー」


「ここにいます」


 それでも彩華は袖を離さなかった。


 昨夜から、何度も同じことを繰り返している。


 無月が少し離れようとするだけで、彩華は手を伸ばした。


 姿が見えなくなれば泣く。


 隣へ戻れば、何事もなかったように黄色い鳥で遊び始める。


 白嶺は彩華の前へしゃがんだ。


『彩華』


「あぅ」


『無月は逃げないわよ』


 彩華は白嶺を見た。


 続いて無月を見る。


 袖を掴む指へ、さらに力を込めた。


『信用されていないみたいね』


「白嶺様がですか」


『どうしてあたしになるのよ』


「彩華様は、私ではなく白嶺様の言葉を聞いたあとに袖を掴み直しました」


『偶然よ』


「そうでしょうか」


『そういうことにしておきなさい』


 白嶺は彩華を抱き上げようとした。


 彩華の身体が持ち上がる。


 だが、手は無月の袖を掴んだままだった。


 布が引かれ、無月の上半身がわずかに傾く。


『離しなさい。無月までついてくるでしょう』


「あー」


『二人まとめて抱くのは無理よ』


「試す必要はありません」


『まだ何もしていないわ』


「しようとはしたのですね」


『少しだけ』


 無月は彩華の指を一本ずつ袖から外した。


 離れた瞬間、彩華の眉が下がる。


 泣き出す前に、無月が立ち上がった。


 白嶺の腕の中にいる彩華へ手を伸ばす。


 彩華はすぐにその指を握った。


「これでよいでしょうか」


「あぅ」


 今度は泣かなかった。


 白嶺は、無月の指を握る小さな手を見る。


 胸の奥で紫がわずかに揺れた。


 自分が抱いているのに、彩華が求めているのは無月だった。


 面白くない。


 浮かんだ感情を、白嶺は否定しなかった。


 そのすぐ隣で、桃色が甘く滲む。


 もっと近くにいたい。


 触れていたい。


 離れたくない。


 誰の思いへ向いているのか、色の境目が曖昧だった。


 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、桃。


 八つの色が、今は白嶺の中にある。


 感じることと、従うことは違う。


 昨日、自分へ言い聞かせた言葉を思い出す。


『しばらく、そのままでいてあげて』


「白嶺様はよいのですか」


『何が?』


「彩華様が私を求めても」


 白嶺は無月を見た。


 無月は表情を変えていない。


 だが、尋ねる必要がないことまで尋ねている。


 白嶺が嫉妬を自覚していることを、無月も知っていた。


『面白くはないわ』


「やはり」


『でも、離しなさいとは言わない』


 白嶺は彩華を抱き直した。


『彩華が自分から掴んだものを、あたしの都合で取り上げるつもりはないわ』


 彩華の指が、無月の人差し指を包んでいる。


 小さく、弱い手だった。


 それでも、無月は動かなかった。


「承知しました」


『ただし』


「何でしょうか」


『腕ごと持っていかれないように気をつけなさい』


「そのような力はありません」


『彩華を侮らない方がいいわ』


「白嶺様と同じに考えていませんか」


『あたしは人の腕を持っていかないわよ』


「昨日、私を抱き上げようとしました」


『運ぼうとしただけでしょう』


「断りました」


『だから歩かせたわ』


「傷が浅いと分かっていたからです」


『最初から分かっていたわ』


「なら、なぜ抱き上げようとしたのですか」


『できそうだったから』


「理由になっていません」


『朝食にしましょう』


 白嶺は話を切り上げ、彩華を抱いたまま部屋を出た。


 無月も指を握られたまま、そのあとへ続いた。


          ◇


 彩華の朝食を用意したあと、白嶺は自分の前へコーヒーを置いた。


 無月の前には、昨夜の残りで作った雑炊がある。


 負傷した身体でも食べやすいよう、味は薄くしてあった。


 無月が白嶺の前を見る。


 あるのはコーヒーだけだった。


「白嶺様の朝食は」


『これよ』


「飲み物です」


『豆からできているわ』


「飲み物です」


『牛乳も入っている』


「食事にはなりません」


『朝は固形物を受けつけないのよ』


「昨日、眠る前に菓子を食べていました」


『夜だったからでしょう』


「机に袋が残っていました」


『やはり配置は把握できていたわね』


「片づけてください」


 白嶺はコーヒーへ口をつけた。


 向かいでは彩華が椅子に座り、朝食を口へ運ばれている。


 白嶺が匙を差し出せば、素直に口を開ける。


 自分の食事はコーヒーで済ませようとする一方で、彩華の分量と栄養は毎日確かめていた。


 無月はそれ以上、白嶺の朝食について言わなかった。


『今日一日は休みなさい』


「必要ありません」


『掃除も鍛錬も禁止よ』


「傷は浅いものです」


『浅いから動いていいとは限らないでしょう』


「彩華様のおそばを離れるつもりはありません」


『それと休むことは両立できるわ』


「何もしない方が落ち着きません」


『なら、彩華を見ていて』


「それは普段と変わりません」


『普段どおりなら落ち着くでしょう』


 無月は答えなかった。


 彩華が黄色い鳥を机へ置き、無月へ手を伸ばす。


 無月が指を差し出すと、すぐに握った。


『それで十分よ』


「しかし」


『命令』


 白嶺が短く告げる。


 無月は口を閉じた。


「承知しました」


『素直で助かるわ』


「命令でなければ従っていません」


『結果が同じなら問題ないでしょう』


 彩華が口を開ける。


 白嶺は次の一匙を食べさせた。


 無月の雑炊から湯気が立っている。


『冷める前に食べなさい』


「白嶺様も何か召し上がってください」


『あとで』


「いつですか」


『日付が変わる前には』


「朝食ではありません」


『細かいわね』


 白嶺は冷蔵庫から小さなヨーグルトを取り出した。


 蓋を開け、無月へ見せる。


『これでいい?』


「私へ確認することではありません」


『あなたが言ったのでしょう』


「子供ではないのですから、御自身で決めてください」


『子供でもないのに朝食を監視されているのだけれど』


「監視ではありません」


『なら、見ないで』


「召し上がれば見ません」


 白嶺は諦めて、ヨーグルトを口へ運んだ。


          ◇


 営業企画部へ入った白嶺は、いつもどおり自分の席へ向かった。


 髪は整っている。


 スーツに皺はない。


 自宅の床へ部屋着を三着置いてきた人間には見えなかった。


 席へ着く前に、美咲が立ち上がる。


「加藤さん」


『おはよう』


「おはようございます」


 美咲の顔には、まだ疲れが残っていた。


 桃色の気配はない。


 白嶺がモモマユを封じたことで、美咲の中へ張り巡らされていた糸は消えている。


 それでも、モモマユに膨らまされた感情までなくなったわけではない。


「昨日は……すみませんでした」


 周囲へ聞こえないよう、美咲が声を落とす。


『ここでする話ではないわ』


「はい」


『昼休みに会議室へ来て』


「分かりました」


 美咲は席へ戻った。


 少し離れた場所から、玲奈がその様子を見ている。


 白嶺と目が合うと、玲奈は小さく頷いた。


          ◇


 昼休み。


 美咲が会議室へ入ると、すでに玲奈がいた。


「中村先輩も……?」


「加藤さんに呼ばれたの」


 白嶺は扉を閉め、美咲と玲奈を向かい合わせて座らせた。


『昨日のことを話す前に、二人へ説明しておくことがあるわ』


 美咲が白嶺を見る。


 玲奈は何も言わなかった。


『中村さんには以前、少しだけ話したけれど、佐藤さんもいるから改めて説明する』


「はい」


『人の感情へ取りつき、それを膨らませるものがいるの』


 美咲の表情が僅かに強張った。


『あたしたちは、それを色霊と呼んでいる』


「色霊……」


『それぞれが異なる色と性質を持っている。怒りや欲望、嫉妬、憧れ。人の中にある感情へ入り込み、本人では抑えられないほど強くする』


「では、昨日の私は……」


『桃色の色霊に取りつかれていた』


 美咲が胸元へ手を当てた。


 すでに桃色の糸はない。


『名前はモモマユ。人の中にある憧れや慕う気持ちを強くして、相手だけを求めるように変えていく色霊よ』


「中村先輩のときも、同じだったんですか」


『あのときは紫の色霊。名前はシトウ。膨らませる感情は嫉妬よ』


 玲奈が静かに頷いた。


「私が佐藤さんに向けていた嫉妬を、抑えられなくした」


『色霊は、何もないところから感情を作るわけではない』


 白嶺は二人を見る。


『もともと本人の中にあった感情へ入り込み、それを利用する。だから、色霊が消えても、抱いていた感情まで消えるわけではない』


 美咲が膝の上で手を握った。


「加藤さんは、どうしてそのようなものを知っているんですか」


『あたしの家に、昔から関わりのあるものだからよ』


「加藤さんの家……」


『今、話せるのはそこまで』


 白嶺は静かに告げた。


『詳しく知れば、二人をこれまで以上に巻き込むことになる。あたしはそれを望んでいない』


「昨日、加藤さんが姿を変えたことも関係しているんですか」


『ええ』


「色霊を封じたのも、加藤さんなんですか」


『そうよ』


「封じた色霊は、どうなったんですか」


 白嶺は僅かに間を置いた。


『あたしの中にいる』


 美咲が目を見開く。


「危険ではないんですか」


『危険でないとは言えないわ』


「だったら、どうして……」


『放っておけば、ほかの人間へ取りつくからよ』


「でも、加藤さんが苦しむことになります」


『今のところ、仕事を休むほどではないわ』


「そういう問題ではありません」


『あたしにとっては重要な問題よ』


 玲奈が小さく息を吐いた。


「佐藤さん。加藤さんは、こういう人だから」


「中村先輩は知っていたんですか」


「私のときにも、同じことをしたから」


 美咲は白嶺を見つめた。


 心配と戸惑いが、その顔へ浮かんでいる。


『今は、昨日あなたたちに起きたことを理解してくれればいい』


「……はい」


『色霊に膨らまされた感情へ従ったからといって、すべてがあなたたちの意思だったとは言わない。でも、すべてを色霊だけのせいにもできない』


 美咲は視線を落とした。


 今度は、自分が口にしてもよい言葉として、その名を繰り返す。


「色霊のせいだったからといって、全部が嘘だったわけではないんですね」


『ええ』


 美咲が玲奈へ向き直る。


「中村先輩。本当に、すみませんでした」


「謝るのは私も同じだよ」


 美咲は顔を上げた。


「どうしてですか」


「私も前に、似たようなことをしたから」


「でも、昨日の私は……」


「覚えてるんでしょう」


「はい」


 忘れられなかった。


 玲奈に向けた言葉。


 白嶺を自分だけのものにしようとした思い。


 邪魔をする者を遠ざけたいと願ったこと。


 すべて、美咲の記憶に残っている。


「私の中に、もともとあった気持ちです。加藤さんを見てほしくない。中村先輩より近くにいたい。私だけを必要としてほしいって……」


「うん」


「否定しないんですか」


「否定してほしいの?」


 美咲は答えられなかった。


 玲奈は静かに続ける。


「私も、佐藤さんが加藤さんに褒められるのを面白くないと思ってた。佐藤さんが自分より近くにいるように見えて、勝手に比べてた」


「中村先輩が?」


「シトウは、そこへ入り込んだ。でも、嫉妬したのは私だよ」


 玲奈は白嶺を見る。


「加藤さんに、そう教えてもらった」


 美咲も白嶺へ目を向けた。


『感情があること自体を、悪いとは言わないわ』


「でも、私は中村先輩を傷つけました」


『ええ』


 白嶺は否定しなかった。


『だから謝る。次に同じ感情を抱いたとき、どうするかを考える。それしかないでしょう』


「許してもらえるんでしょうか」


『それを決めるのは中村さんよ』


 美咲は玲奈へ向き直った。


「中村先輩。御迷惑をおかけしました。許してもらえなくても、二度と同じことはしません」


 玲奈はしばらく美咲を見た。


「許すよ」


「そんなに簡単に……」


「簡単じゃない。でも、私も加藤さんに許してもらったから」


『あたしは許すとは言っていないわよ』


「えっ」


 玲奈が白嶺を見る。


『あなたが勝手に立ち直っただけでしょう』


「そこは許したことにしてくれてもいいじゃないですか」


『事実は正確に扱うべきよ』


「加藤さん、こういうところありますよね」


「あります」


 美咲が小さく答えた。


 玲奈が笑う。


 つられるように、美咲の口元も緩んだ。


 二人の間にあった張り詰めたものが、少しずつ解けていく。


 その光景を見て、白嶺の胸の奥で紫が揺れた。


 二人だけで分かり合っていることが、わずかに面白くない。


 桃色は、その輪の中へ入りたいと求める。


 白嶺は机へ置いた指先を動かさなかった。


 これは、二人が向き合うための時間だった。


 自分が奪うものではない。


「加藤さん」


 美咲が白嶺を見た。


「私、これからも加藤さんの下で働いていいですか」


『異動の予定はないわ』


「そういう意味ではなくて……」


『分かっているわ』


 美咲は返事を待った。


『昨日のことで、あなたの仕事に対する評価を変えるつもりはない』


「はい」


『ただし、あたしに認められることだけを目的にしないで』


 美咲の表情が強張る。


『あなたが成長するのは、あたしのそばにいるためではないわ。自分でできることを増やすためよ』


「それでは、加藤さんは必要なくなります」


『必要がなくなることを喜ぶのが、教える側の仕事でしょう』


「加藤さんは、それでいいんですか」


 今度は、白嶺がすぐに答えられなかった。


 美咲が自分を必要としなくなる。


 その想像へ、赤と紫が強く反応する。


 桃色は、離れてほしくないと甘く絡みついた。


 だが、それらに従って答えを変えることはできない。


『寂しいとは思うかもしれないわね』


 美咲が目を見開く。


 玲奈も驚いたように白嶺を見た。


『でも、必要とされるためにあなたの成長を止めるほど、あたしは落ちていないわ』


「……はい」


『どうして残念そうなの?』


「少しだけ、期待しました」


『何を?』


「秘密です」


『そう』


 白嶺は追及しなかった。


 美咲の顔には、朝よりも自然な笑みが戻っている。


 その笑顔が自分へ向けられていることを、白嶺は嬉しいと感じた。


 それが色霊の影響だけではないことも、もう否定しなかった。


          ◇


 帰宅した白嶺は、自分の部屋を覗いた。


 床の衣服は、朝と同じ場所にある。


 コーヒーの空き缶も机に残っていた。


 宿彩に掛けた部屋着まで、そのままだ。


『何も動いていないわね』


 リビングから無月が答える。


「触るなと命じられましたので」


『そこまで忠実に守るとは思わなかったわ』


「守らなければ、命令した意味がありません」


『少しくらい片づけてもよかったのよ』


「どちらですか」


『融通を利かせなさいと言っているの』


「片づければ怒るのではありませんか」


『怒らないわ』


「では、御自身で片づけてください」


『それとこれとは別でしょう』


 白嶺は自分の部屋を閉めた。


 見なかったことにする。


 リビングへ入ると、無月が壁へ背を預けて座っていた。


 その膝へ彩華が身体を寄せている。


 黄色い鳥は床に転がっていた。


『今日は鳥より無月なの?』


「あぅ」


『返事だけはいいわね』


 白嶺が近づく。


 彩華は顔を上げ、両腕を伸ばした。


 白嶺は抱き上げる。


 今度は、無月の服を掴まなかった。


『朝より聞き分けがよくなったわ』


「眠いだけです」


『あたしに会いたかったのかもしれないでしょう』


「その可能性もあります」


『珍しく否定しないのね』


「白嶺様を待っていたのは事実です」


 彩華が白嶺の胸元へ顔を寄せる。


 白嶺はその背中を撫でた。


『傷は?』


「問題ありません」


『痛む?』


「僅かに」


『なら、問題はあるでしょう』


「動けます」


『動けるかどうかを聞いていないわ』


 無月は黙った。


 白嶺はその隣へ座る。


 しばらくすると、彩華が白嶺の腕の中から無月へ手を伸ばした。


 無月が指を差し出す。


 彩華はそれを握った。


 白嶺に抱かれながら、無月とも繋がっている。


 どちらか一方を選ぶ必要など、彩華にはないのだろう。


 胸の奥で紫が小さく疼いた。


 それでも、今朝ほど強くはなかった。


『欲張りね』


「あー」


『誰に似たのかしら』


「白嶺様ではありませんか」


『あたしは慎ましいわよ』


「三千九百八十円の着物を、戦うたびに着ている方がですか」


『何度も使えているのだから、よい買い物だったでしょう』


「一度、斬られているではありませんか」


『浅かったわ』


「白嶺様ではなく、着物の話です」


『着物も浅かったわ』


「補修したから、今も着られるのです」


『なら、まだ元を取れるわね』


「値段の問題ではありません」


『さっきから問題が変わってばかりね』


「白嶺様が変えているのです」


 無月が僅かに息を吐く。


 呆れているのか、笑いかけたのか、白嶺には判別できなかった。


 彩華の目が閉じていく。


 無月の指を握る力だけは、まだ残っていた。


          ◇


 夜。


 眠った彩華をベビーベッドへ寝かせる。


 白嶺が黄色い鳥を隣へ置いた。


 無月は彩華の手から、ゆっくりと指を抜こうとした。


 小さな指が動く。


 離れかけた無月の指を、もう一度握った。


 彩華の目は閉じたままだった。


「……離れません」


『そうね』


「どうすればよいでしょうか」


『そのままでいればいいでしょう』


「白嶺様は」


『あたしもここにいるわ』


「自室へ戻らないのですか」


『戻ったら片づけなければならないもの』


「片づけるつもりはあったのですね」


『眠る前に体力を使いたくないわ』


「明日の朝も同じことを仰るのでしょう」


『明日のあたしに聞いて』


 白嶺はベビーベッドの脇へ座った。


 無月も反対側に座っている。


 二人の間で、彩華が眠っていた。


 しばらく待っても、彩華は無月の指を離さない。


『人気者ね』


「困っています」


『嫌なの?』


「分かりません」


 無月は握られた指を見る。


「このようなとき、どうすればよいのか知りません」


『何もしなくていいわ』


「しかし」


『必要とされているからといって、何かを返さなければならないわけではないでしょう』


 無月が白嶺を見る。


『そこにいてあげるだけで足りることもあるわ』


「それだけでよいのですか」


『彩華に聞いてみれば?』


 無月は眠っている彩華へ顔を向けた。


「これでよいのでしょうか」


 返事はない。


 代わりに、彩華の指が一度だけ動いた。


 無月の指を、確かめるように握り直す。


『よいそうよ』


「答えていません」


『細かいことを気にすると眠れなくなるわ』


「白嶺様が適当すぎるのです」


『適当ではないわ。柔軟と言って』


 無月は反論しなかった。


 彩華の寝息だけが、静かな部屋へ続いている。


 やがて、小さな手から力が抜けた。


 無月は今度こそ指を離す。


 彩華は目を覚まさなかった。


「では、自室へ戻ります」


『ええ。おやすみ』


「白嶺様も、床で眠らず寝室へ戻ってください」


『少しくらい、ここで休んでもいいでしょう』


「風邪を引きます」


『布団を持ってくれば解決するわね』


「寝室で眠ってください」


『分かったわよ』


 無月が立ち上がり、自分の部屋へ向かう。


 扉の前で一度だけ振り返った。


 彩華が眠っていることを確かめる。


 白嶺はその視線に気づいたが、何も言わなかった。


 無月の部屋の扉が閉じる。


 同じ家の中にいる。


 壁と扉を一枚隔てただけの場所に。


 白嶺は彩華の頬へ触れた。


 胸の奥では、八つの色が静かに沈んでいる。


 離したくないと思う。


 近くにいてほしいと願う。


 その感情を抱えたまま、それでも相手が戻る場所を奪わない。


 白嶺は立ち上がった。


 自分の部屋へ戻り、床に落ちていた枕だけを拾う。


 衣服には目を向けなかった。


『片づけは、明日ね』


 誰も聞いていない部屋で呟く。


 昨日の白嶺も、同じことを言っていた。


 明日の白嶺も、おそらく同じことを言う。


 白嶺はその事実を深く考えず、布団へ入った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。