観測する者・アーヴィン
アーヴィンは二人が座ったのを確認してから、煙草の火を消した。
「さっそくだが、本題に入る」
そう言うと、机の上の紙束から一枚を無造作に引き抜いた。
「空の大潮について、観測された内容を元に考察するレポート。これは先日課題として皆に提出してもらったものだ」
それを二人に見せるでもなく、ただ目線だけを落としたまま読み始めた。
『空の大潮とは、不定期に発生する大規模な大気・魔力の異常現象である。
発生時には空に光の渦状の揺らぎが観測され、局所的な天候の急変、風圧の増大、視界の歪みなどが報告されている。』
『以上の観測結果から、本現象は大気中魔力の局所的な飽和と放出による気象的現象であると考えられる。』
「……授業をちゃんと聞いている生徒、だな」
さらりとした評価だった。
「そして。こっちは、君たちが提出したものだ」
対比するように、アーヴィンはロゼッタのレポートを読む。
『周囲の空気が急に重くなるような感覚と、息がしづらく感じた。
光の渦を見たとき、少し時間がずれたような違和感があった。体感としてはそう感じた。』
さらにギルベルトのレポートへ移る。
『現象が起きる直前、周りの生き物が一斉に静かになったように感じた。普段の天気の変化では見られない反応だと思う。
また、空気が急に張りつめたような感覚があり、何か“危ないものが近づいている”ような印象を受けた。』
アーヴィンは読み終わると、二人のレポートを指でたたく。
「読んで明らかだが、お前たちの文章は、“観測者の考察”ではない」
静かな断定だった。
「どちらも、“その場にいた者の反応”になっている」
アーヴィンは続けた。
「本来、この課題で必要なのは距離だ。現象と観測者の間に、一段階の隔たりを作る」
そこで初めて、二人を見た。
「だが、君たちはその距離を飛ばしている」
そこで一度、言葉が切れた。
「つまり——」
アーヴィンは少しだけ言葉を選ぶように沈黙し、
「君たちは“見た”のではなく、“体験している側の視点”で書いている」
アーヴィンはしばらく二人を見ていた。
やがて、短く息を吐く。
「……確認する」
静かな声。それまでの分析口調とは少し違う、温度の低い声。
「君たちは、巻き込まれたことがあるのか?」
一瞬、部屋の空気が止まる。
質問は単純だったが、意味は単純ではない。
ロゼッタの喉がわずかに動く。ギルベルトは表情を変えない。
アーヴィンは急かさない。
答えを待っているというより、すでに何かを確かめているような目だった。
真実を打ち明けるか迷っているロゼッタの背中を、ふいにギルベルトが軽く押した。
「……別に、隠す話じゃない」
低い声だった。
ロゼッタが思わず横を見る。
ギルベルトはアーヴィンから目を逸らさないまま続けた。
「……七年前、俺たちは空の大潮に巻き込まれた」
ギルベルトのその一言に、ほんの一瞬、空気だけがわずかに変質する。
「……まさかとは思ったが」
低く、独り言のように漏れる声だった。
視線が二人から外れる。
無造作に資料棚へ歩き、分類も見ずに何冊かのファイルを引き抜く。
ページをめくる速度は速い。だが雑ではない。何かを探している動きだった。
ロゼッタとギルベルトは何も言えないまま、それを見ていた。
「七年前の空の大潮は一件だけだ」
アーヴィンは机の上に報告書を置く。
「君たちの話が事実なら、巻き込まれたのはこれだ」
淡々と読み上げる。
「これによると、被害範囲は中心点から半径50kmに及ぶ。外縁部における生存率は約30%」
指が紙の一点を軽く叩く。
「ただしこれは“人間種のみ”の統計だ。中心域に関しては、生存記録なし」
声は変わらない。
事実を読み上げるだけの温度だった。
「さらに補足する」
もう一枚、別の紙を重ねる。
「観測区域内での報告、魔力異常値の急上昇、空間圧の歪み、視覚・聴覚情報の欠損」
そこで一度だけ言葉を切る。
「そして——」
少しだけ間が長くなる。
「生体反応の崩壊」
アーヴィンは視線を上げる。
「これは“死亡”ではない」
断定するように続ける。
「生存反応そのものが観測不能になった状態だ」
紙を指で軽く押さえる音が響く。
「通常、人間はこの環境下で維持できない。呼吸・神経・魔力循環のすべてが崩れる」
そこで初めて、少しだけ目を細める。
「つまり、この記録に従うなら――中心域にいた人間は生き残れない」
アーヴィンは二人を見る。
「だが、君たちは生きている」
アーヴィンは二人から目を離さなかった。
「それが俺には説明できない。……そもそもだ」
机の上のレポートを指で軽く叩いた。
「これを出しておいて、“突っ込まれない”と思ったのか?」
ロゼッタの肩がわずかに跳ねる。
アーヴィンはその反応を見逃さない。
「ここまで“異常な一次体験”を書いておいて、何も聞かれないとでも?
それとも——」
声が低くなる。
「“聞かれること前提”で出したのか?」
ギルベルトの指がわずかに動く。
アーヴィンはそこで初めて、わずかに姿勢を前に倒した。
「いいか」
静かな声だが、圧がある。
「もし君たちがただの新入生なら、このレポートは“よくできた感想文”で終わる。
だが実際には違う。これは“内部にいた者の記録”だ」
アーヴィンは視線を外さない。
「そして俺は、それを見逃すほど無能じゃない」
その言葉は責めではない。ただ事実の提示だった。
少しだけ間を置いてから、声の温度がわずかに変わる。
「……なにか目的があってこの学院に来たのなら、俺は味方だ。
少なくとも、この学院の中で“君たちを即座に切り捨てる側”ではない。
……だから話せ。隠す話じゃないと君も言っていただろう」
視線がまっすぐギルベルトを射抜く。
「君たちは何をしに、この学院に来た?」
ロゼッタとギルベルトはお互いに視線をあわせ、頷く。
「私たちは、……元の姿に戻りたい。人間の生活も悪くはない、でも……。
私たちは誇り高きドラゴンだ」
アーヴィンは「誇り高きドラゴン」という言葉を聞いても、すぐには反応しなかった。
否定もしない。驚きも薄い。ただ一度だけ、目の奥で“確認”が終わる。
「……そうか」
それだけ言って、しばらく沈黙する。部屋の中に、秒針の刻む音だけが残った。
やがてアーヴィンは、ゆっくりと椅子に背を預ける。
「元、とはいえ、俺は君たちの同族を殺していた。それは警戒されても当然だな」
「弱いなら仕方ない。俺たちもお前に殺されるならそこまでだ」
「そんなことはしない。味方だと言っただろう」
アーヴィンは新しい煙草に火をつけると、大きくひと吸いする。
「この学校に来た理由は、“元に戻る方法を探すため”で間違いないな」
ロゼッタとギルベルトは短く頷く。
「なら話は早い、俺の目的も同じだ」
ロゼッタが顔を上げる。
「同じ……?」
アーヴィンは別の資料を鍵付きの引き出しから取り出して二人にみせる。
「さて、ここからの話は後期授業で行う予定だったが……。
空の大潮は、気象現象として主に扱われているが実際の被害記録の一部ではそれでは説明できない」
指し示された資料の一部を読む。
『発生域周辺の国家機能が一時的に喪失』
『地図上で“国家単位の空白領域”が確認される』
ロゼッタの眉がわずかに動く。
アーヴィンは淡々と続ける。
「この時、ひとつの沿岸国家が丸ごと観測記録から消失している。正確には“存在していた痕跡だけが残り、実体的な情報が消えた”」
ギルベルトの目が細くなる。
「……消えた?」
アーヴィンは頷かない。代わりに別の紙をめくる。
『消失領域から回収された残留個体の生態変異を確認』
『人間種に分類されるはずの個体が、水棲生物様の形態を示す』
「“人間であったものが魚になった”。そう記録されている。ただし、正確には生物学的変質ではない」
視線を二人に向ける。
「観測上は、“存在の再定義”に近い」
部屋の空気がわずかに重くなる。
アーヴィンは机に指を置いたまま言う。
「別の記録では、都市そのものが“海に置き換わった”とされている。建造物が消え、代わりに水域として再構成された。
そしてそこでも共通しているのは、すべてが“空の大潮発生中央域”に一致しているという点だ」
ロゼッタの指がわずかに震える。
「それは……自然現象なの?」
アーヴィンは即答しない。
少し間を置いてから言う。
「少なくとも、公式にはそう分類されている」
そして低く続ける。
「研究員の中では別の呼び方もある。“再構成災害”だ。」
ロゼッタの目がわずかに揺れる。
「再構成……?」
「“存在の構造を一時的に分解し、再配置する”つまり、形を変えるということだ。
記録上、再構成災害の影響を受けた個体は元の形を維持できない。外見だけではなく、“存在の定義”が変わる」
そこで一度、視線を二人から外し、独り言のように続ける。
「……逆に言えばだ。それは“固定されたまま戻れない”ということでもあるが」
短く息を吐く。
「理屈の上では、“同じ現象にもう一度触れた場合”、上書きが起きる可能性は残る」
視線が戻る。
「机上の空論だがな」
ロゼッタの呼吸がわずかに止まる。
アーヴィンは壁に貼られた世界の地図を指さした。古い観測記録の上に赤い印がいくつも付いている。
「空の大潮が発生した地点だ。共通点がある」
指で印をなぞる。
「地形、気圧、そして“過去の再発記録”」
ロゼッタが小さく息をのむ。
「それで……また起きる場所が分かるってこと?」
アーヴィンは首を横に振る。
「可能性の高い地点、だ。そしてそこに行き魔力測定の必要がある」
「つまり、現地調査か」
アーヴィンはギルベルトの言葉に短く頷いた。
「ただし、これは任務じゃない。強制もしない。評価にも入れない。学院の正式課題でもない。
君たちが“戻りたい”と思うなら、そのための手段として提示しているだけだ」
窓の外で鐘が鳴る。夕と夜の間の曖昧な時間だった。
「空の大潮は、ただの災害じゃない。だが同時に、“鍵”でもある。俺は研究者としてそれを追っている。
そして君たちは、当事者だ」
その言葉には、重さと同時に奇妙な平等があった。上でも下でもなく、“同じ現象の中にいる存在”としての扱い。
アーヴィンは少しだけ間を置く。
「だから提案だ」
視線がまっすぐ二人を捉える。
「次に候補地で空の大潮の兆候が出たら——一緒に行く」
ロゼッタの目がわずかに揺れる。
ギルベルトは即座には答えない。だが、拒絶でもない沈黙だった。
アーヴィンはそれを急かさない。
ギルベルトが短く息を吐いた。そして、ようやく言葉が落ちる。
「……行く」
ロゼッタも頷く。
「私も」
その瞬間、アーヴィンは初めて、ほんの僅かに目を細めた。それは笑顔と呼ぶにはあまりに淡いが。
「なら決まりだ。次の大潮の兆候が出たら、すぐに動く」
部屋に、短い静寂が落ちた。
「今日はここまでだ」
資料を軽く揃え、乱雑な机の上にきっちりと置き直す。その動作だけが妙に几帳面だった。
「帰っていい」
短い命令。
だがその声には、もう試すような圧はなかった。
執務室を出て、二人は並んで歩き出す。
重かったはずの世界が、少しだけ軽くなっている。
完全には解けていない謎も、消えない不安もある。
それでも——
進む方向だけは、もう見えていた。




