王立アルケディア学術学院
王立アルケディア学術学院は、ロゼッタが想像していたよりもずっと大きかった。
白い石造りの校舎は古い城を再利用して作られているらしく、近づくほどに重たい存在感を放っている。広い中庭には季節の花々が咲き乱れ、風が吹くたびに甘い香りがふわりと漂った。
それだけではない。
学院内には専門分野ごとの研究棟や講義棟も数多く建ち並んでいた。
さらに学院の敷地内には、男女別の学生寮もいくつか建てられている。遠目にも分かるほど大きく、ひとつの建物だけでも村の家々を集めたくらいの規模があった。
生徒の多くは寮で生活しているらしい。
ロゼッタとギルベルトも例外ではなく、今日からここで暮らすことになる。
授業だけではない。食事も睡眠も、この学院の中で行うのだ。
「……多いな」
思わず漏れたロゼッタの呟きに、隣を歩くギルベルトが短く返す。
「人が」
「そう、それ」
ロゼッタは肩をすくめた。
見渡す限り、年齢も身なりもばらばらな生徒たちが同じ制服を着て行き交っている。
初めて見るものばかりで、本来なら学院の中を見て回りたいところだった。
だが、今はそれどころではない。
やたらと視線を感じるのだ。
すれ違う生徒たちが、さりげなくこちらを見てはすぐに目を逸らす。
その繰り返しが、歩くたびにまとわりついてきた。
「……見られてない?」
「見られてる」
ギルベルトが即答した。
「なんで?」
「知らない」
理由がわからないまま、二人はその視線の中を進んでいく。悪意というよりは、どこか好奇と困惑が混じった視線だった。
だがそれが余計に落ち着かない。
その時だった。
「ねえ!」
明るい声が飛んでくる。
二人が振り向くと、栗色の髪を肩まで伸ばした少女が立っていた。
「あなたたち新入生?」
「そうだけど」
「やっぱり!」
少女は嬉しそうに笑った。
「噂になってたのよ!」
「噂?」
「入学試験ですごかった兄妹がいるって!筆記試験をあっという間に終わらせた子と、実技試験で上級生みたいに戦った子!」
ロゼッタとギルベルトは顔を見合わせた。
そんな話になっているとは知らなかった。
「それに、すごく綺麗な兄妹だって!一目見て誰のことかわかっちゃった!」
少女は楽しそうに付け加える。
ロゼッタは首を傾げた。
意味がわからない。
隣を見る。ギルベルトも同じ顔をしていた。
「私はミレーユ・アルシェ!よろしくね!」
「あ、うん。よろしく、私はロゼッタ・エヴァンス」
「ギルベルト・エヴァンス」
「知ってる!」
なぜ知っているんだ。
ロゼッタは少しだけ怖くなった。
その後も似たようなことが続いた。
廊下を歩けば視線を向けられる。教室へ入ればひそひそと話し声が聞こえる。
「みて、あの子たち噂の……」
「どこの貴族だろ、え?平民なの?」
「ギルベルト君すごく格好良くない?」
「ロゼッタさん可愛いよな」
「兄妹らしいけど、似てないよね~」
ロゼッタは途中から考えるのをやめた。
理由はわからないが、とにかく見られて好き勝手に感想を言われている。
ギルベルトは既に帰りたそうだった。
――――……
入学式が始まる。新入生たちは大講堂へ集められた。
高い天井。色鮮やかなステンドグラス。
学院長の挨拶が始まり、講堂は静まり返る。
話は長かった。学院の歴史や学問の意義。
正直、興味が無さ過ぎてロゼッタは途中から聞いていなかった。
眠い。
隣を見るとギルベルトは真面目な顔をしている。
聞いているのかと思ったが、よく見ると目を開けたまま寝ている。
これはドラゴンの時から変わらないギルベルトの得意技だ。
ロゼッタは思わず吹き出しそうになった。
「さて、新入生諸君。続いて諸君を導く教職員を紹介しよう」
学院長がそう言って一度言葉を切ると、講堂の扉近くにいた職員へ合図を送る。
重たい扉が開き、拍手に迎えられながら教職員たちがぞろぞろと入ってくる。
魔術理論の教師、騎士学の教官、基礎学の教師たちが順番に壇上へ向かって、それぞれ笑顔で軽く会釈をしていく。
その中に、一人だけ目を引く男がいた。
黒いシャツに黒いズボン。その上から膝丈の白衣を羽織っている。短く刈り込まれた灰色の髪と、右目の横に走る古い傷跡が印象的な男だった。
その男が講堂の床に足を踏み入れた、その瞬間だった。
ロゼッタとギルベルトだけが、はっきりとそれを感じた。
空気が、すっと冷たくなる。
周囲は何も変わっていない。拍手も続いているし、誰も気づいていない。
だが、さっきまで何とも思っていなかった空間が、急に危険な場所へ変わったような感覚に襲われる。
理由は分からない。ただ、本能だけがはっきりと「逃げろ」と告げていた。
ロゼッタの体が固まる。
息が少し浅くなる。
怖い、というより――近いのは“殺されるかもしれない”という感覚だった。
隣を見ると、ギルベルトも同じように動きを止めていた。
顔から血の気が引いている。金色の瞳がわずかに揺れていた。
彼も、同じものを感じている。
そう思った瞬間だった。
ガタン。
誰かが椅子を倒した音だった。
講堂中の視線が一斉に集まる。
震える手のまま、それでもギルベルトは無意識のように一歩前に出て、まるで彼女を庇うような位置に立っていた。
勝てる相手ではない。そんなことは分かっているはずだった。それでも彼は、その男から目を逸らさなかった。
まるで牙を剥く獣のように、静かに息を殺しながら、しかし確かな敵意だけをその存在へと向けている。
男はそこで足を止めていた。
一瞬だけ、こちらを見た。
数秒。
「……失礼した」
静かな声と同時に、その重さがふっと消える。
さっきまでの感覚が嘘みたいに軽くなった。
ロゼッタはようやく深く息を吐く。
男はわずかに目を細めた。
「怖がらせてしまったようだな」
周りから小さな笑い声が起きて、張りつめていた空気がゆっくりほどけていく。
ギルベルトも席に座り直した。男はそんなギルベルトを見ていた。
何かを確かめるみたいに、静かに。
やがて学院長が咳払いをする。
「こちらはアーヴィン・クロウ先生だ」
講堂がざわめく。周囲の反応を見る限り、知る者の間ではそれなりに名の通った人物らしい。
「主に空界現象学を担当してもらう。加えて、元王国軍竜討伐部隊での経験を踏まえて、体術学の実技指導もお願いしている」
竜討伐、その言葉にロゼッタの胸が少しだけ重くなる。
ドラゴンですら、一部の人間には狩られる存在だという事実。
アーヴィンは静かに新入生たちを見渡しながら挨拶をする。その目に一瞬映るが、その奥に浮かんだ感情を、ロゼッタは読み取れなかった。
ただ一つだけわかったことがある。
あの男は、自分たちを覚えた。
そして、自分たちもまた、あの男を忘れられなくなるだろうということだけは。
――――……
昼休みの鐘が鳴った瞬間、元気な声が教室に響いた。
「ロゼッター!」
ミレーユだった。
教室は違うが、今ではすっかり顔馴染みである。
「今日も購買行く?」
「行く」
「いい加減飽きない?」
「パンがうまい」
「毎日それ言ってる」
ミレーユは呆れたように笑った。
学院の購買で売られている焼きたてのパンは本当に美味しい。毎日食べても飽きない。
ミレーユはロゼッタの斜め後ろに視線をよこす。
窓際の席ではギルベルトが本を読んでいた。一人で静かに休み時間を過ごすのが彼の日課だ。
はじめは様々な女子生徒が彼に話しかけに行っていたが、ギルベルトの反応が悪いため、徐々に声をかける女子生徒は減っていった。
「ねえ、ギルベルトは?」
「行かない」
「だよね~」
ミレーユは即答した。
「絶対そう言うと思った」
ギルベルトは返事の代わりにページをめくる。
入学から一週間。朝は決まった時間に寮を出て授業を受け、昼はミレーユたちと騒がしく過ごし、放課後は寮へ帰る。
そんな学院生活にも、少しずつ慣れ始めていた。
そして何より――授業は、二人が思っていたよりも面白かった。
基礎魔法実技では様々な属性の魔法を学ぶ。
歴史学では知らない人間達の物語を聞く。
数学では予測を知った。
それでもまだまだ知らないことばかりだった。
人間は不思議だ。
空を飛べないくせに星を調べる。
爪も牙もないくせに魔獣を研究する。
それなのに、なぜかそれが面白い。
ただ一つ。
どうしても慣れないものがあった。
アーヴィン・クロウ。
授業そのものは嫌いではない。説明はわかりやすいし、質問にも答えてくれる。
強面だが生徒たちからの評判も良かった。
だがロゼッタは落ち着かなかった。
教室へ入ってくるだけで緊張する。声を聞くだけで背筋が伸びる。
理由はわからない。けれど本能が警戒していた。
あの日、入学式で感じた圧力を忘れられない。
ギルベルトも同じだった。
授業中こそ普段通りだが、アーヴィンが近くを通ると僅かに表情が硬くなる。本人は隠しているつもりらしい。
だがロゼッタにはわかった。
だから空界現象学の課題が出された時も、二人は妙に真面目に取り組んだ。
数日が過ぎる。
いつもと変わらない学院生活だった。
だから放課後、名前を呼ばれた時は心臓が跳ねた。
教室の扉が開く。学院職員が顔を覗かせた。
「ロゼッタ・エヴァンス、ギルベルト・エヴァンス。アーヴィン先生がお呼びです」
一瞬。
教室が静まり返った。
「研究棟の執務室まで来るようにとのことです」
職員はそれだけ伝えると去っていく。
そして。
「えっ」
誰かが声を漏らした。
「アーヴィン先生?」
「何したんだよお前ら」
教室が一気に騒がしくなる。
ロゼッタは目をぱちぱちさせた。
「私たち、何もしてないぞ」
「本当に?」
ミレーユが疑いの目を向ける。
「してない」
「絶対?」
「してないって!」
少し自信がなくなってきた。
学院という場所はよくわからない。
知らないうちに何かやらかした可能性もある。
「空界現象学の課題じゃない?」
クラスメイトの一人が言った。
「どうせ変なこと書いたんでしょう~?」
「書いてない……と思うけど」
ロゼッタはギルベルトを見る。
「書いた?」
「わからない」
短い返事だった。
だが表情は硬い。ギルベルトはかなり緊張しているようだ。
「まあ……行くしかないか」
立ち上がる。
ギルベルトも静かに本を閉じた。
二人が教室を出ようとした時だった。
「待って」
ミレーユが駆け寄ってくる。
「終わったら怒られた内容教えてね」
「なんで怒られる前提なの」
ロゼッタは少し笑った。
緊張が和らぐ。
「生きてたらな」
ギルベルトが小さく肩をすくめる。
冗談のつもりなのか、本気なのかは分からなかった。
二人は並んで研究棟の奥へ向かう。他の棟に比べて少し古めかしい建物だ。
上級生の研究室では、水晶に映し出された映像と地図を見比べながら、何かを記録している様子が見えた。
黒板には複雑な数式が並び、それを囲んだ生徒たちが低い声で議論を続けている。
どうやら空界現象の発生地点と、そこに残る“痕跡”を解析しているらしい。
研究室の廊下を抜け、教職員用のエリアへと入る。
アーヴィン・クロウの名札が下がっている執務室の扉をノックすると、すぐに低い声が返る。
「入れ」
二人は顔を見合わせることもなく扉を開けた。
中は、整っているとは言い難い部屋だった。
資料の山が机を埋め、その隙間からさらに紙束が床へと崩れ落ちている。壁際の棚もほとんどが書類で埋まっていて、どれが未整理なのかすら分からない。
紙とインク、それに微かに残る煙草の匂いが混ざり合い、独特の空気を作っていた。
窓際の机にはアーヴィンが座っている。
片手で煙草を挟みながら、二人の方をまっすぐ見た。
軽く机を指で叩くと、部屋の隅に置かれていた椅子が二つ、音もなく滑るように動き、二人の前に並んだ。
「そこに座れ」
言葉は短いのに、拒否する余地はなかった。




