煙の向こうの灯り
二人は森の中を歩き続けた。
どちらへ向かっているのかはわからない。ただ、立ち止まれば何も変わらない気がしていた。
最初のうちは赤竜も楽観的だった。水も食料も、思いのほか簡単に手に入ったからだ。
いずれ森を抜ければ見覚えのある山が見つかる。そこから空界の位置を確かめればいい。
そう考えていた。
だが、その考えは半日も経たないうちに打ち砕かれる。
人間の身体は、あまりにも不便だった。
歩けば疲れる。転べば痛い。喉は渇くし腹も減る。
木々の間を進むだけで息が上がった。
赤竜は何度目かのため息を吐く。
前方では黒竜が枝を掻き分けながら歩いていた。
やはりというべきか、こういう時も黒竜は落ち着いている。
人間になったのは黒竜も同じはずだ。空を飛べず、力を失い、見知らぬ森を彷徨っている。
不安ではないはずがない。
数日が過ぎた。
森を歩き続けるうちに、二人の姿はすっかり薄汚れていた。
枝で腕を切り、転んで膝を擦りむき、髪には葉っぱが絡まっている。
特に赤竜は傷が多かった。
もともと慎重な性格ではない。倒木を飛び越えようとして転び、斜面を降りようとして滑る。
そのたびに黒竜が呆れたような顔をしていた。
たぶん。
少なくとも赤竜にはそう見えた。
腹が立つ。
だが反論できない。実際に転んでいるのだから。
その日の夕方だった。
赤竜はふらつきながら歩いていた。
腹が減りすぎて頭が回らない。
木の実だけで満足できるほど、人間の身体は単純ではなかった。
獣を見つけても捕まえられない。鳥はもっと無理だった。
翼さえあれば。鋭い爪さえあれば。
何度そう思ったかわからない。
赤竜は苛立ちのまま近くの木を蹴った。
もちろん何も起きない。木が揺れただけだった。むしろ足の方が痛い。
赤竜は顔をしかめた。
その時だった。
前を歩いていた黒竜が足を止める。
何かを見つけたらしい。
赤竜は重い足を引きずりながら隣へ並んだ。そして目を細める。
木々の向こう。
夕暮れに染まる森の中に、細い白煙が立ち上っていた。
風に揺れながら、まっすぐ空へ伸びている。
赤竜の心臓が跳ねた。
煙だ。
火がある。
そして火を扱うのは——人間だ。
黒竜が赤竜を見る。
赤竜も黒竜を見る。
どちらも少しだけ迷っていた。
親たちの言葉が頭をよぎる。
『人間には近付くな。狡猾で危険な生き物だ。』
だが、赤竜は煙を見つめながら思う。
腹が減っていた。寒かった。疲れていた。
そして何より、このままでは本当にどうにもならない気がした。
赤竜はゆっくりと煙の方を指差す。黒竜は静かに頷いた。
二人は森の奥へ向かって歩き出す。
煙を目印に森を進むと、やがて木々の向こうに小さな家が見えてきた。
丸太を組んで作られた質素な家だった。
屋根は苔むしていたが手入れは行き届いているらしく、煙突からは白い煙が真っ直ぐ空へ昇っている。
近付くのは初めてだった。空から見たことはある。
遠くの谷間に点々と並ぶ家々や、夜になると灯る明かりも知っている。
窓から漏れる灯りを見ているだけで、凍えた身体がその熱を求めているのがわかる。
玄関の前に立つと、木の扉が思った以上に大きく見えた。
赤竜はしばらく眺め、それから拳を握る。
こんなことは初めてだった。
巣穴に入る時も、仲間を呼ぶ時も、こんな風に何かを叩いたことはない。
それでも見よう見まねで拳を上げる。
こつ、と控えめな音が鳴った。
弱すぎた気がして、もう一度叩く。
今度は少し大きな音が響いた。
しばらくして家の中から足音が聞こえる。
二人は思わず身構えた。
扉が開く。
現れたのは若い女だった。柔らかな茶色の髪を後ろで束ねている。
女は二人を見るなり目を見開いた。赤竜は反射的に後ずさる。
追い払われるかもしれない。
だが女は違う反応をした。家の奥に向かって何かを叫んだのだ。
もちろん意味はわからない。
しかし驚きと慌てた様子だけは伝わってきた。
家の奥から今度は若い男が駆けてくる。
二人は赤竜たちを見て言葉を失ったようだった。
無理もない。
傷だらけで泥まみれの子どもが二人。しかも身に着けているものは何もない。
森の中から突然現れたのだ。
男と入れ替わるように家の奥へ引っ込み、すぐに戻ってきた女の手には、大きな毛布が抱えられていた。
女はためらうことなく赤竜の肩へ毛布を掛ける。
ふわりと暖かさが身体を包んだ。
赤竜は目を瞬いた。
暖かい。
驚くほど暖かい。
女は続いて黒竜にも毛布を掛けた。
そして困ったような、心配するような顔で二人を見つめる。
何かを話している。意味はわからない。
でも声色は優しかった。
男も頷きながら二人を家の中へ招く。
赤竜は戸惑った。
どうしてだろう。
見知らぬ相手だ。しかも自分たちは突然現れた怪しい存在だ。
ドラゴンならこんなことはしない。縄張りに侵入した相手は追い払う。巣へ招き入れるなどあり得なかった。
なのに人間は違うらしい。
赤竜は黒竜を見る。黒竜もまた困惑しているようだった。
家の中から漂ってくる匂いがあった。
温かな火の匂い。煮込まれた食べ物の匂い。
その匂いだけで身体が勝手に前へ進みそうになる。
ぐう、と腹が鳴った。
赤竜の腹だった。
直後、黒竜の腹も負けじと鳴る。
男と女が顔を見合わせた。
そしてふっと笑う。
意味はわからない。だが、その笑顔は不思議と怖くなかった。
二人は女に手を引かれ、ゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。
暖かな空気が全身を包み込む。
その瞬間、張り詰めていたものが少しだけほどけた気がした。
赤竜は厚い毛布に包まれながら、ぼんやりと暖炉の炎を見つめる。向かいでは黒竜も同じように椅子へ座らされていた。
どちらもまだ警戒は解けていない。だが逃げ出そうとも思わなかった。
暖かくて、腹が減っていて、それどころではなかったのだ。
若い女が鍋から湯気の立つスープを器へよそう。それを二人の前へ置いた。
「熱いから気を付けてね」
もちろん伝わらない。
赤竜は器を見つめる。黒竜も見つめる。
二人とも手を付けない。というか添えられたスプーンの使い方もわからない。
その様子を見て女が困ったように笑った。
「やっぱり言葉が通じてないのかしら?」
獣ならそのまま口を突っ込めばいい。しかし目の前にあるのは熱い汁だ。
男は黒竜の隣へ腰を下ろす。
「ほら、毒なんか入ってないから安心して食べていいんだぞ」
そう言ってスプーンを手に取り、器用にスープを掬うと自分の口の中に運んだ。
もちろん言葉は伝わらない。だが、何をしているのかはわかった。
赤竜は真っ先に男の真似をする。
今まで食べたことのない味だが、悪くない。
人間は弱いくせに、案外うまいものを食べているらしい。
赤竜の真似をして黒竜も恐る恐る口へスープを運ぶ。そして美味いとわかるや否や、勢いよく食べ始めた。
女は夢中でスープをかき込む二人を見て、ほっとしたように微笑む。
「ねえ……この子たち、どこから来たのかしら」
「さあな。もしかしたら【空の大潮】の影響かもしれない」
女の表情が曇った。
最近は各地で妙な話を聞く。
家族とはぐれた者。記憶を失った者。
空の大潮という異常気象が関係しているのではないかと噂されていた。
女は赤竜たちを見る。
こんな幼い子どもが森を彷徨う理由など思いつかなかった。
「怖かったでしょうね……」
赤竜は首を傾げた。
女が何を言っているのかわからない。ただ、声だけは優しかった。
女はそっと膝をつく。二人と目線を合わせるためだ。
「あなたたち、お名前は?」
返事はない。赤竜は瞬きをするだけだった。
「名前、わかる?」
女は自分の胸へ手を当てた。
「私はエマ」
続いて男を指差す。
「こっちはルーク」
男は苦笑する。
「そんなので伝わるか?」
「やってみなきゃわからないでしょ」
エマは再び二人を見る。
「エマ」
自分を指差す。
「ルーク」
今度は男を指差す。
赤竜と黒竜はじっと見ていた。
意味はわからない。
だが何かを教えようとしていることだけは伝わる。
エマは少し考え込んだ。
そして赤竜を見る。
夕陽を溶かしたような赤い髪。暖炉の火に照らされると、まるで薔薇の花びらのようだった。
そして大きな金色の瞳は、感情がそのまま映るようにころころと表情を変える。整った顔立ちながらもどこか幼さが残っており、愛らしい少女に見えた。
「あ、この子はロゼッタなんてどうかしら」
ルークが眉を上げる。
「急だな」
「だって、名前がわからないなら仮でも呼び名があったほうが伝えやすいでしょ」
エマは嬉しそうに笑った。
「ロゼッタ」
そう言って赤竜を指差す。
赤竜は首を傾げる。だがエマは構わず続けた。
「ロゼッタ」
何度も。
何度も。
その音を聞かせるように。
ルークは少し考え、それから黒竜へ目を向けた。
口いっぱいに具材を頬張っている赤髪の少女とは違い、黒髪の少年は妙に落ち着いて見えた。
金色の瞳は静かで、感情をあまり表に出さない。整った顔立ちも相まって、赤髪の少女より少し年上に感じられる。
「ならこっちはギルベルトかな」
「ギルベルト?」
「なんとなく」
エマは吹き出した。
「なによそれ」
「似合うだろ」
「そうね」
エマは頷く。
そして黒竜へ微笑みかけた。
「ギルベルト」
黒竜は金色の瞳を瞬かせた。
意味はわからない。けれど二人の人間は嬉しそうだった。
エマは赤竜を指差す。
「ロゼッタ」
次に黒竜を指差す。
「ギルベルト」
暖炉の火が揺れる。優しい声が部屋に響く。
赤竜は隣を見る。黒竜もこちらを見ていた。二人とも理解していない。
それでも、どうやらその音は自分たちを呼ぶためのものらしい。
そんなことだけは、なんとなくわかった。
その夜。
二頭の幼竜は、人間としての名前を手に入れた。
――――……
『ロゼッタ』、『ギルベルト』
七年前、人間に付けられたその名前は、今では二人にすっかり馴染んでいた。
春の朝。
「ロゼ! ギル!朝ごはんできたわよ!」
エマの呼びかけにロゼッタは待ってましたとばかりに駆け出した。一方、ギルベルトは斧を片付けてから後を追う。
「私の勝ち」
「ロゼは片づけしてない」
短いやり取りを交わしながら家へ入る。
テーブルには焼きたてのパンとスープが並んでいた。
昔は見るだけで警戒していた食事も、今ではすっかり慣れたものだ。
四人で席につく。
こうして過ごす毎日は穏やかだった。
温かい食事があり、眠る場所があり、笑い合える家族がいる。
人間としての暮らしにも慣れ、この生活を嫌だと思ったことはない。
それでも。
ロゼッタもギルベルトも、心の奥ではずっと同じ願いを抱えていた。
ドラゴンに戻りたい。
その気持ちは平和な日々の中でも消えたことがなかった。
しばらく食事をしていると、ルークが不意に口を開いた。
「なあ、お前たち」
ロゼッタが顔を上げる。
「そろそろ学校へ行ってみる気はないか?」
ロゼッタは瞬きをした。
「学校?」
聞いたことはある。村の子どもたちが時々話していた。
だが詳しくは知らない。
「何するところ?」
エマが笑った。
「勉強するところよ」
「勉強なら家でもしてる。私、計算もできる。」
「もっと色々なことを学ぶの」
ロゼッタは首を傾げる。
「例えば?」
「芸術、歴史、地理、他にも魔法なんかも学べるのよ」
「ふーん」
正直あまり興味は湧かなかった。
それよりも知りたいことは1つだけだ。どうすれば元の姿に戻れるのか。
エマは続けた。
「それだけじゃないわよ」
「?」
「その学校、一番すごいのはね……空の大潮を専門に研究してる人たちがいるの」
そこでギルベルトが初めて反応した。
「空の大潮の研究?」
「そう」
エマは頷く。
『空の大潮』
一般的には空に流れている魔力が突然乱れ、地上に異常をもたらす大規模魔力災害現象のことをそう言うらしい。
「研究って何するんだ?」
ギルベルトが珍しく興味を示した。
ルークは少し考える。
「そうだな……大潮が起こる原因を調べたり、被害を減らす方法を探したり、だと思う。俺もそういう専門的なことはわからんが」
苦笑しながら肩をすくめる。
「どんなことでもいいのよ!」
エマが勢いよく身を乗り出した。
「二人が今まで生きてきた中で、もっと知りたい!って思ったことを勉強できる場所なの!」
ロゼッタは首を傾げる。
「知りたいこと」
「そう!」
エマは満面の笑みで頷く。
「魔法でも、芸術でも、音楽でも!」
「………ドラゴンでも?」
ロゼッタのその言葉に、一瞬だけ空気が止まった。
エマは目をぱちぱちさせる。
ルークは少しだけ目を細めた。
「……たぶん、な」
ルークは静かに答える。
「少なくとも、この国にある学校の中で一番そういう資料が集まってる場所だ」
ギルベルトは黙り込む。ロゼッタも珍しく何も言わない。
なぜ自分たちは人間になったのか。
そして――
元に戻る方法はあるのか。
今まで誰も答えを持っていなかった。
だが、その答えを探している人間ならいるかもしれない。
ルークは二人を見る。
「どうだ?」
「通ってみたくないか」
そして少しだけ笑った。
「王立アルケディア学術学院」
ふと隣を見る。ギルベルトも静かに考え込んでいた。
たぶん同じことを考えている。
ロゼッタはスープの器を見つめる。
そして小さく呟いた。
「……行ってみたい」
エマの顔がぱっと明るくなった。
「ギルも行くでしょ、決まりね」
「うん」
ギルベルトも短く頷いた。
話は決まった。
王立アルケディア学術学院。
そこに、自分たちがドラゴンに戻れる方法を知る者がいるかもしれない。
ロゼッタは窓の外へ目を向けた。
春の青空がどこまでも広がっている。かつて自由に飛び回っていたその空は、今では遠い。
それでも。
初めて、道が見えた気がした。




