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二頭の幼竜

挿絵(By みてみん) 

 雪に覆われた山々の上を、春の風とともに一頭の赤い幼竜が駆けるように飛び抜ける。

 吹き上がる上昇気流に身を任せ、赤竜はさらに高度を上げていく。


 眼下では雲がゆっくりと流れている。その白い海を見下ろしながら、赤竜は大きく翼を広げた。


 気持ちがいい。


 どこまでも飛んでいけそうな気がした。


 だからだろうか。


 少し前方を飛ぶ黒竜の姿を見た途端、急に競いたくなった。


 赤竜は翼を打ち下ろす。

 風が鳴り、身体が前へ押し出される。

 距離はあっという間に縮まった。


 あと少しで追いつく。


 そう思った瞬間、黒竜がひらりと身を傾けた。

 赤竜の鼻先をかすめるようにして進路を変え、そのまま雲の中へ飛び込んでいく。


「待て!」


 思わず叫ぶ。


 黒竜は振り返りもしない。赤竜は迷わず後を追った。


 白い霧の中へ飛び込むと視界が一気に閉ざされる。冷たい水滴が鱗を打ち、風の流れだけが相手の位置を教えてくれた。


 すぐ前にいる。


 そう確信した赤竜はさらに速度を上げる。


 次の瞬間、雲を突き抜けた。

 眩しい光が視界いっぱいに広がる。


 その向こうを黒竜が悠々と飛んでいた。


 まるで待っていたかのように。


「逃げたな!」


「逃げてない」


 返ってきた声はどこまでも落ち着いていた。

 赤竜は再び加速する。黒竜も少しだけ速度を上げた。


 追いつきそうになると離れ、離れたと思うと少し待つ。その繰り返しだった。


 本気で逃げているわけではない。本気で捕まえようとしているわけでもない。

 二頭にとっては昔から続く遊びだった。

 ただ一緒に飛んでいるだけでもよかったが、何もしないのは少し退屈だった。


 だから追いかける。


 だから逃げる。


 理由なんてそれで十分だった。


 黒竜がふいに速度を落とし、視線を空へ向けた。赤竜は怪訝に思いながら隣へ並ぶ。


「どうした?」


 問いかけながら同じ方向を見上げた瞬間、赤竜も言葉を失った。


 青空の中に一本の光が走っている。細く鋭い銀色の線だった。

 最初は遠くを飛ぶ鳥の群れかと思った。


 だが違う。


 それは空に貼りついたまま動かず、ゆっくりと横へ広がっている。

 まるで空そのものに傷がついたかのようだった。


 二頭は自然と羽ばたきを緩めた。風だけが耳元を流れていく。

 光の線は少しずつ大きくなり、その奥から淡い青白い輝きが漏れ始めていた。


 胸の奥がざわついた。

 理由のわからない不安が広がっていく。


「戻った方がいいかもしれない」


 黒竜が言った。

 赤竜はすぐに返事をしなかった。


 光から目を離せなかったからだ。

 

 空は静かだった。

 静かすぎた。

 山脈を渡る風も、遠くを飛ぶ鳥の姿も、すべてが息を潜めているように感じられる。


 やがて低い音が響いた。どこから聞こえてくるのかわからない。雷に似ているようで違う。

 大地の底で巨大な鐘を打ち鳴らしたような音だった。


 赤竜の翼が震える。


 音は次第に大きくなり、そして銀色の亀裂が大きく開いた。


 眩い光が溢れ出す。次の瞬間、空が渦を巻いた。

 青白い光が空全体へ広がり、雲を巻き込みながら巨大な流れを生み出していく。


 赤竜は反射的に翼を翻した。


 危険だ。

 何が起きているのかはわからない。だがここにいてはいけない。

 本能がそう叫んでいた。


「行くぞ!」


挿絵(By みてみん)


 二頭は同時に飛び出した。

 しかし数度羽ばたいたところで異変に気づく。


 進まない。


 全力で翼を動かしているはずなのに、身体が前へ出ない。

 それどころか少しずつ後ろへ引かれている。


 振り返る。光の渦だった。

 空に生まれた巨大な奔流が、周囲のすべてを飲み込もうとしていた。


 風が吠える。雲が引き裂かれる。


 山脈の上空そのものが渦の中心へ引き寄せられていた。


 赤竜は必死に翼を打つ。隣では黒竜も抗っていた。

 だが距離は容赦なく縮まっていく。


 光が迫る。

 風が悲鳴を上げる。

 そして青白い奔流が二頭を飲み込んだ。


 その瞬間、赤竜は自分の身体がおかしくなるのを感じた。


 翼の感覚が薄れていく。爪が、自分のものではなくなっていく。身体の輪郭そのものが崩れ、作り変えられていくような感覚。

 

 恐怖が胸を貫いた。


 光の中で黒竜の姿を見る。彼もまた変わっていた。


 長い尾が消え、翼が縮み、竜の姿が別の何かへ変わろうとしている。


 赤竜は思わず前脚を伸ばした。


 届かない。


 伸ばした前脚さえ、いつの間にか竜のものではなくなり始めていた。


 光が視界を埋め尽くす。世界が白く染まる。


 二頭の意識は、深い闇へと沈んでいった。


 ――――…………


 薄く意識が浮かび上がる。


 最初に感じたのは柔らかな感触だった。身体の下にあるのは岩でも雲でもない。

 湿った土と草の匂い。


 赤竜はゆっくりと目を開いた。


 視界いっぱいに緑が広がる、見慣れない景色だった。


 森だ。


 どうしてこんな場所にいるのか。


 ぼんやりした頭で記憶を辿る。


 空、黒竜、雲海。

 そして突然現れた光。


 そこまで思い出した瞬間、赤竜は勢いよく身を起こそうとして――そのまま前につんのめった。


 思わず地面に手をつき、そこで違和感に気づいた。

 そこにあったのは見慣れた鱗に覆われた前脚ではない。白く細い五本の指だった。


 赤竜は瞬きを繰り返す。何度見ても変わらない。


 腕も細い。

 背中にあるはずの翼の重みも感じない。


 慌てて振り返る。


 何もなかった。翼も尾も消えている。

 身体を見下ろせば、鱗に覆われていたはずの身体はむき出しの肌へと変わっていた。


 赤竜は呆然と立ち尽くした。


 何が起きたのかわからない。理解が追いつかない。

 

 両手を見つめるうちに、1つの信じがたい事実が脳裏をよぎる。


 ——自分は、いつも大空から眼下に見下ろしていた、人間になっている。


 弱く、小さく、竜とは比べものにならないほど脆い生き物。


 胸の奥から込み上げてきたのは恐怖ではなかった。


 もっと深い。底の見えない絶望だった。


 その時、不意に近くの茂みが揺れた。


 赤竜は反射的に身構える。

 今の身体では牙を剥くことも翼を広げることもできない。ただ小さく縮こまることしかできなかった。


 葉の擦れる音が近づく。

 やがて茂みの向こうから現れたのは、一人の人間だった。


 黒い髪。

 見慣れない姿。


 けれど、その姿を見た瞬間よりも先に赤竜は別のことに気付いていた。


 匂いだった。


 森の匂いではない。土でも草でもない。


 知っている匂いだった。

 生まれてからずっと隣にあった匂い。


 人間もまた足を止めていた。


 こちらを見つめている。


 その表情には赤竜と同じ困惑が浮かんでいた。


 赤竜は相手を見つめる。


 そして目が合った。金色だった。

 木漏れ日の中でもはっきりとわかる、見慣れた色だ。


挿絵(By みてみん)


 雲海の上で何度も見た。

 一緒に狩りをした時も、追いかけっこの最中も、その瞳はいつも隣にあった。


 赤竜は思わず一歩前へ出た。

 相手も同じように目を見開いている。


「――!」


 声を上げる。


 だが聞こえてきたのは聞き慣れない高い声だった。


 咆哮ではない。人間の声だった。


 赤竜は息を呑む。

 

 黒髪の人間も何かを言った。しかし意味はわからない。

 知らない音の連なりにしか聞こえなかった。


 二人はしばらくその場で立ち尽くした。


 匂いは知っている。瞳の色も知っている。


 けれど姿は違う。何もかも違う。


 それでも……。


 赤竜はゆっくりと歩み寄り、そっと相手の肩へ額を預けた。


 相手はびくりと反応し、全身を強張らせたが、すぐに赤竜の頭へ自分の額を軽く触れさせた。


 赤竜はそこでようやく確信した。


 目の前にいるのは見知らぬ人間ではない。

 つい先ほどまで一緒に空を飛んでいた黒竜だ。

 

 二人はしばらく顔を見合わせたまま動かなかった。


 何を伝えればいいのかわからない。

 そもそも言葉が通じない。

 だが1つだけ確かなことがあった。


 知らない森で目を覚まし、自分の身体さえ別物になってしまった中で、唯一変わらない存在がそこにいた。


 その事実だけが、不思議と赤竜を安心させていた。


 どれくらいそうしていただろう。


 先に動いたのは赤竜だった。

 何が起きたのかわからないにせよ、このまま森の中で突っ立っていても仕方がなかった。


 赤竜は周囲を見回す。


 木々が生い茂り、空はほとんど見えない。風向きもわからない。

 巣がある山脈がどちらにあるのかさえ見当がつかなかった。


 思わず苛立ちが込み上げる。


 飛べれば一瞬なのに。

 高く飛び上がりさえすれば、自分たちの縄張りがどちらにあるのかすぐにわかるはずだった。


 赤竜は無意識に背中へ意識を向ける。


 翼を動かそうとした。が、当然ながら何も起こらない。

 赤竜は顔をしかめた。


 すると少し離れた場所で黒竜が何かしているのが見えた。


 自分の背中を何度も振り返ろうとしている。


 どうやら同じことを考えていたらしい。


 赤竜は少しだけ気分が良くなった。


 黒竜も翼がなくなったことに納得できていないのだ。


 当たり前だ。納得できるわけがない。


 赤竜は鼻を鳴らそうとして、代わりに変な息が漏れた。


 黒竜がこちらを見る。


 その顔を見ていると、不意におかしさが込み上げてきた。

 いつも落ち着いている黒竜が、自分の背中を気にして何度も振り返っている。

 少し前までなら考えられない光景だった。


 黒竜も何か言いたそうな顔をした。だが結局声にはならない。


 互いに顔を見合わせる。そして、ほとんど同時に腹の虫が鳴った。


 ぐう、と。


 妙に情けない音だった。


 二人とも動きを止める。

 

 再び音が鳴った。今度は黒竜の方だった。


 赤竜は思わず吹き出しそうになる。だが次の瞬間、自分の腹も大きく鳴った。


 笑うどころではない。


 腹が減っていた。信じられないほど。


 昨日、大型の山羊を仕留めたばかりだったはずだ。


 いや、昨日だっただろうか。それとももっと前か。


 時間の感覚も曖昧になっている。


 だが空腹だけははっきりしていた。


 こんな感覚は初めてだった。黒竜も同じらしい。

 自分の腹を押さえながら困ったような顔をしている。


 赤竜は周囲を見回した。


 ここは森だ。ならば何か食べられるものがあるはず。

 獣でも鳥でも捕まえればいい。


 そう考えて一歩を踏み出した途端、足首に絡んだ蔦に足を取られた。

 危うく転びそうになる。慌てて近くの木に手をついた。


 鋭い痛みが走った。


 思わず手を引く。

 手のひらには赤い筋が走り、ささくれに裂かれた皮膚から血が滲んでいた。

 赤竜は呆然とそれを見つめた。


 たかが木で、傷を負った。

 弱い。弱すぎる。


 赤竜は木々の隙間から覗く空を見上げた。

 あまりにも遠い。いつもなら翼をひと振りするだけで届くはずの場所が。


 だが、立ち止まるわけにはいかなかった。


 赤竜は黒竜を見る。黒竜もまた、こちらを見ていた。


 言葉は通じない。それでも、考えていることはなんとなくわかった。


 ——進むしかない。


 とにかく進むしかない。


 二人は頷く代わりに視線を交わし、見知らぬ森の奥へと歩き始めた。

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