ギルベルトの休日
少し時間は遡る。
ロゼッタがミレーユに服屋へ引きずり込まれていた頃。
王立アルケディア学術学院、男子寮に併設された小さな図書館。
窓際の席で、ギルベルトは静かに本を読んでいた。
休日になると、彼はよくここへ来る。
本を読むのは嫌いではなかった。知らないことを知れるからだ。
歴史。
地理。
魔法理論。
魔獣学。
人間の世界には、ドラゴンだった頃には触れることのなかった知識が無数にある。
ページをめくるたび、新しい発見があった。
知識は力になる。
少なくともギルベルトはそう考えていた。
人間はドラゴンほど強くない。
それでも文明を築き、街を作り、大地や空を観測し、世界を知ろうとしている。
その力の多くは知識から生まれていた。
だから学ぶ。
知らないままでいるよりは、ずっといい。
それに――。
本を読んでいる間は余計なことを考えなくて済んだ。
ページを追い、文字を追い、知識を頭へ詰め込む。
そうしている間だけは、自分に足りないもののことを忘れられる。
――ドラゴンだった頃。
自分は群れの中で特別強い個体ではなかった。
それなのにロゼッタは昔から自分の側にいた。
なぜなのかは今でも分からない。
ロゼッタは強かった。
群れの中でも上位に入るほどに。
だから時々、不思議になる。
なぜ自分なのだろう、と。
人間になってから、さらにその感覚は強くなった。
ロゼッタは相変わらず強い。
学院でも目立つ。人を惹き付ける。前へ進む。
一方、自分はどうだろう。
そんな考えが頭をよぎることがある。
だから本を読む。知識を得る。
自分にできることを増やす。
そうしていると、不思議と落ち着いた。
少なくとも今は、置いていかれることを考えなくて済むからだ。
「ギルくんは本当に本が好きなんだね」
いつの間に、目の前にはレオネルが座っていた。
「あ、ごめん。集中してた?」
「いや、いい……」
チラッとレオネルが持ってきた本の表紙を見る。
また、ドラゴンに関する本だ。
「……レオネル、ドラゴンが好きなのか」
「え?あ、うん。カッコいいよね」
「……そうか」
レオネルは机の上に積まれた本へ視線を向ける。
「ギルくんは相当な量を読むよね」
「普通だ」
「普通かなぁ」
レオネルは首を傾げた。
「そんなに勉強して、何かやりたいことがあるの?」
「……」
ギルベルトは少し考える。
「知っておけば役に立つ」
「ふーん」
レオネルは頬杖をついた。
「役に立つかぁ……。自分の?それとも誰かの?」
ギルベルトの指が止まる。
妙に核心を突かれた気がした。
「……そうかもしれない」
レオネルは追及しない。ただ静かに待つ。
しばらくしてギルベルトはぽつりと答えた。
「ロゼの」
レオネルは少しだけ目を丸くした。
「へぇ」
だが、それ以上は驚かなかった。
なんとなくそんな気はしていたからだ。
「君たちは、仲いいもんね」
ギルベルトは本を閉じる。
少し考えるような沈黙。
「……ロゼは強い」
不意にそんな言葉が落ちた。
レオネルは黙って聞く。
「昔から」
ギルベルトは窓の外を見る。
訓練場が見える。
学院の生徒たちが自主的に剣を振っていた。
「群れの中でも強かった」
「へぇ」
「俺はそこまでじゃなかった」
ギルベルトは窓の外を見る。
「狩りも飛ぶのも……」
レオネルが首を傾げる。
ギルベルトは気付かないまま続けた。
「でもロゼは昔から俺の隣にいた」
「うん」
「だから分からない」
ぽつりと漏れる。
「何が?」
「なんで俺なのか」
その言葉にレオネルは少し考え込む。
「……ギルくん」
「?」
「それ、人間の話じゃないよね」
レオネルのその一言で、空気が少しだけ止まった。
ギルベルトはすぐには答えなかった。
窓の外では、訓練場の砂が風に巻き上がっている。誰かの掛け声が遠くに聞こえた。
「……」
指先が、無意識に本の端をなぞる。
「……ああ」
短く、それだけ返す。
「やっぱり」
レオネルはそう言って、責めるでも驚くでもなく、ただ事実を確認するみたいに頷いた。
そのまま少しだけ間が空く。
図書館の静けさが、さっきまでよりも柔らかく感じられた。
レオネルは頬杖をついたまま、窓の外に目をやる。
「その気持ち、どっちもちゃんと自然だよ」
ギルベルトの指が、ほんのわずかに止まる。
「ロゼッタさんの役に立ちたい、とか」
一拍置いて、続ける。
「隣にいる理由を探して不安になる、とか」
その言葉を、否定も茶化しもせずに置いていく。
レオネルは少しだけ目を細めた。
「そう思うの、普通だよ」
「……普通、か」
ギルベルトの声は小さい。
レオネルはうん、と軽く頷いた。
「だってさ。大事な相手なんでしょ」
それは確認じゃなくて、ただの事実みたいな言い方だった。
ギルベルトは一瞬、言葉に詰まる。
「……ああ」
短く返す。
それだけで、喉の奥が少し熱くなる。
レオネルはそこで初めて、少しだけ笑った。
「それならさ、怖くなるのも当然じゃん」
「……」
「強いとか弱いとかじゃなくて、“失いたくない側”にいるってことだから」
その言葉で、ギルベルトの胸の奥が静かに沈む。
痛いのに、嫌な痛みじゃない。
ずっと曖昧だったものに輪郭がつく感じだった。
レオネルは続ける。
「でもね」
声を少しだけやわらげる。
「ギルくんはさ、もう十分やってると思うよ」
ギルベルトの視線がわずかに上がる。
レオネルは本の背表紙を指で軽く叩いた。
「知ろうとしてるし、考えてるし、ちゃんと自分で動いてる」
「……でも」
言いかけたギルベルトを、レオネルは遮らない。ただ待つ。
ギルベルトは少しだけ息を吐いてから続ける。
「それでも、まだ足りない気がする」
その声は、さっきより少しだけ弱かった。
レオネルはその言葉を否定しなかった。
代わりに、少しだけ静かに言う。
「足りないって思うことは大事だと思うけどさ」
ギルベルトの指先が止まる。
「でもそれってずっと“今の自分じゃダメ”って言い続けることにもなるんだよね」
その言葉に、ギルベルトは反射的に顔を上げかける。
レオネルはそこで、少しだけ困ったように笑った。
「責めてるわけじゃないよ」
すぐに補う。
「たださ、ロゼッタさんって多分、“完成したギルくん”が好きなわけじゃないと思う」
ギルベルトの呼吸が止まる。
レオネルは続ける。
「今のギルくんとか、昔のギルくんとか、そういう全部ひっくるめて“隣にいるギルくん”がいいんじゃない?」
その言葉は、静かだった。
でも、妙に逃げ道がなかった。
ギルベルトはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分からない」
正直な声だった。
レオネルはその答えに、少しだけ安心したように頷いた。
「うん、それでいいと思う」
「……いいのか」
「いいよ」
即答だった。
レオネルは軽く肩をすくめる。
「わからないままでもさ、隣にいたいって思ってるのは事実でしょ」
ギルベルトは何も言えない。
でも否定もしなかった。
その沈黙を、レオネルはただ受け止める。
しばらくしてから、少しだけ柔らかい声で付け足した。
「もし、君がロゼッタさんに置いていかれるのが怖いって思ってるのなら」
「うん」
「それだけ、ロゼッタさんを大事にしてるってことだよ」
ギルベルトはゆっくりと目を伏せる。
その横顔は、さっきより少しだけ軽く見えた。
「ところでさ」
レオネルは何気ない調子で話題を変える。
「君ってさ、元々“なんだったの?”」
ギルベルトは視線をレオネルが開いていた本に落とす。
次の瞬間。
「……ほ、本当に?」
レオネルの声が少しだけ裏返る。
さっきまでの落ち着いた態度はどこかへ消えていた。
(今の流れで確定じゃないか……!)
レオネルの内心は完全に跳ねている。
さっきの“群れ”“飛ぶ”“狩り”という言葉。
そしてこの反応。
レオネルは顔だけは冷静を装うが、姿勢は完全に前のめりになっている。
「えっと、分類とかさ、すごい重要じゃん?魔獣学的にも。ギルくんはどんな種別で」
完全に“研究者のテンション”になっていた。
ギルベルトは静かに息を吐く。
「種別……?前貸して貰った本でいうなら、俺は黒い」
レオネルは机に身を乗り出しそうになるのを必死で抑えているが、
「黒竜……!?水適性高い種だよね!?本当にいるんだ……!」
もう完全に興奮を隠せてなかった。
ギルベルトは少しだけ目を細める。
「……いつも以上にグイグイくるな」
レオネルはハッとし、照れながら座り直す。
「ごめんね、まさか本物に会えるなんて思ってなかったから」
興奮だけが、静かに図書館の机の下で暴れていた。
「アーヴィン先生が君たちを気にかけている理由がわかったよ」
クスッと笑う。
「アーヴィン先生と初めて会った時は大丈夫だった?あの人無意識に威圧しちゃう癖があるみたいだし」
心当たりがありすぎる。
「正直、殺されるかと思った」
ギルベルトは淡々と言う。
レオネルは一瞬固まり、それから吹き出した。
「やっぱり!?僕の同級生の中にも授業中に泣いちゃった子とかいるよ」
レオネルは笑いながらも、どこか納得した顔で頷く。
「悪意ないのが一番怖いんだよね」
ギルベルトは小さく息を吐く。
「……レオネルはアーヴィンの研究を手伝ってるのか?」
「うん。僕は主に解析を担当させて貰ってるよ」
軽い沈黙が落ちる。
「じゃあ、お前にも伝えないといけない」
「ん、なに?」
「俺とロゼッタは、ドラゴンに戻りたい。そのためにここ来た」
軽い沈黙が落ちる。
レオネルは一瞬だけ瞬きをして、それから少し考えるように視線を上に向けた。
「……そっか」
いつもの軽さは少しだけ薄い。でも、驚きや否定はなかった。
むしろ、当然みたいに小さく頷く。
「じゃあさ」
顔を上げる。
その目はもう、さっきまでの興奮とは違う種類の光をしていた。
「みんなで一緒に解き明かそう」
ギルベルトがわずかに視線を動かす。
レオネルは机の上の本を軽く指で叩いた。
「ドラゴンに戻る方法とか、“空の大潮”のこととかさ」
少しだけ笑う。
窓の外の光が、机の上に落ちる。
「よぉし、俄然やる気が出てきたよ」
レオネルは軽く拳を握る。
窓から差し込む光が、机の上に静かに落ちていた。
その光の中で、レオネルは一度だけ息を吐く。
そして、顔を上げる。
その瞳は、まっすぐ前を見ていた。
――まだ誰も正解を知らない問いへ向かう者の目だった。




