少しだけ分かった
合同授業最終日。
体術学の演習場には、いつもよりわずかに空気が重かった。
実践で学べる機会も、強い相手との手合わせも、今日で一区切りになる。
その事実を意識しているせいか、生徒たちの動きには、どこか慎重さが混じっている。
ロゼッタは入口を見たまま、不機嫌そうに短く言う。
「遅い」
「やっぽぽー、久しぶり。ロゼちゃん」
軽い声。セインが入ってくる。
手をひらひらと動かしながら、いつものヘラヘラした笑みを浮かべている。
ロゼッタは一歩前に出る。
「リベンジだ」
「いいね。今日は最後だし、やろうか」
その瞬間だけ、空気が変わった。
⸻……
「始め!」
開始の合図。
爆ぜるように鞭が走った。
パァンッ!!
空気が裂ける。
ロゼッタは反射で後方へ跳んだ。だが、その着地先を次の鞭がすでに塞いでいる。
パァンッ!
さらにもう一撃。
避ける。
だがまた来る。
二撃目。
三撃目。
四撃目。
途切れない。
鞭が振られているというより、目の前の空間そのものが削られていくようだった。
(入れない……!)
ロゼッタは踏み込めない。
前に出ようとした瞬間を叩かれる。
肩。
腕。
脚。
「っ……!」
痛い。
だが、それ以上に近付けない。
セインがへらりと笑う。
「あれれ?前回と一緒だね」
余裕のある声。
だがロゼッタは鞭を見ていた。
避けるためではない。
どこを通っているのかを見る。
パァンッ!
また鞭が走る。
避ける。
そして気付く。
(……少し遅い)
ほんの一瞬だった。
気のせいかと思った。
だが次も同じだった。
大きく振る、押し込む。
その分だけ、戻るのがわずかに遅い。
セインは気付いている。
だからこそ押している。近付かせないために。
ロゼッタは一歩だけ踏み出した。
パァンッ!
肩を打たれ、押し返される。
それでも視線は切らない。
次。
もう一歩。
パァンッ!
今度は腕。痺れる。
だが見えた。
(そこだ)
鞭が通る。
ロゼッタはナイフを差し出した。
攻撃ではない。ただ、そこへ置く。
カッ。
小さな音が鳴る。
鞭の軌道がわずかに乱れた。
セインの眉が動く。
「へぇ?」
だが次の瞬間には、また鞭が襲う。
まだ足りない。まだ入れない。
ロゼッタはもう一度ナイフを出した。
カッ。
また小さな音。
鞭がわずかに逸れる。
さらにもう一度。
今度は戻りがほんの少し遅れた。
その瞬間だった。
(今だ)
ロゼッタは踏み込む。
今までで一番深く。一気に距離を潰す。
セインの目が見開かれた。
「うわ、まず――」
鞭を引き戻そうとする。
だが間に合わない。
ロゼッタは止まらない。
届く。
そう確信した。
ナイフの切っ先が首元で止まる。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
「……お、おぉ……すごい」
セインがようやく絞り出した声は、驚きと感心が半々に混じっている。
ロゼッタは息を整えながらナイフを引く。
「リベンジだ」
短く言う。
セインは笑いながら肩をすくめる。
「うん、完全に俺の負け」
ロゼッタは握りしめていたナイフを見る。
さっきまでの“武器”ではない。
今はもう、“戦える手段”になっていた。
「いやはや、成長とは早いもんですなぁ」
いつもの軽い調子に戻そうとする声の奥に、わずかな息の乱れが残っている。
ロゼッタは少しだけ間を置いてから、セインを見る。
「……色々、学べた」
セインが瞬きをする。
「え?」
ロゼッタは視線を逸らさないまま続ける。
「ありがとう」
一瞬、空気が止まる。
セインはぽかんとした顔をしたあと、顔いっぱいに笑みを広げる。
「え!?俺の後輩ちゃん、超かわいいんですけどぉ!」
両手を上げて大げさに喜ぶ。
「いやぁ~!なんか今日はやりきったー!って感じ!満足満足!」
満面の笑みで何度も頷く。
「よし!残りの時間はティータイムにでもしましょうかね!」
ロゼッタは短く返す。
「勝手にしろ」
――――……
放課後。夕暮れの学院を、二人は寮へ向かって歩いていた。
しばらく無言が続く。
先に口を開いたのはロゼッタだった。
「勝った」
唐突な一言。
ギルベルトは横目で見る。
「そうか」
「うん」
それ以上説明はない。
だが珍しく機嫌が良いことだけは分かった。
ロゼッタは少しだけ考えてから続ける。
「前より、ちゃんと戦えた」
ギルベルトは小さく頷く。
「それは良かったな」
今度はロゼッタが見上げる。
「ギルは?」
「合格した」
「ふーん」
興味なさそうな返事。だが少しして、
「よかったね」
と付け加える。
ギルベルトは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……ああ」
短く返す。
風が吹いた。校舎の向こうで鐘の音が響く。
二人はしばらく並んで歩く。
やがてロゼッタがぽつりと言った。
「なんかさ」
「?」
「少し分かった気がする」
ギルベルトはその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
何が、と聞く必要はなかった。
強くなったわけではない。何かを極めたわけでもない。
だが、今まで見えなかったものが少しだけ見えた気がしていた。
ドラゴンだった頃は違う。
力は最初からあった。
空を飛ぶことも、戦うことも、生きることも。
できて当たり前だった。
だから――できないことを悔しいと思ったことなど、ほとんどない。
ロゼッタがぽつりと呟く。
「人間って面倒だな」
「ああ」
即座に同意する。
覚えることが多い。失敗もする。思うようにいかないことばかりだ。
それでも。
「結構面白い」
ロゼッタが少しだけ笑った。
「……そうだな」
ギルベルトは静かにそう答えた。
その足取りは、学院へ来た頃より少しだけ軽かった。
――――……
西の砂漠。
異常気象が続いていたその土地では、数ヶ月前から小さな歪みが積み重なっていた。
砂嵐の周期は乱れ、空気の流れはわずかに重くなる。
決定的な崩壊ではない。
だが確実に、「何かが進んでいる」状態だった。
その変化はあまりにも微細で、人の目では気付けない。
――だが、世界を流れる魔力を監視する観測水晶だけは違った。
王立アルケディア学術学院、観測室。
セインが設置した観測水晶は、その変化をすべて記録していた。
画面に映し出されているのは空中流脈の観測データ。
世界に満ちる魔力は巨大な流れとなって地面や空を巡り、世界全体を循環している。
人々はその流れを「魔力流脈」、そして地面を流れるものを「地中流脈」、空を流れるものを「空中流脈」と呼んでいた。
本来ならば緩やかに変動しながらも安定を保つはずの流れ。
だが今、その波形には明らかな乱れが生じていた。
セインは無言でデータを追う。
西部地域。砂漠上空。異常値。増加傾向。
継続期間、九十七日。
「……やっぱりねえ」
小さく呟く。
予測はしていた。
だからこそ観測水晶を増設し、長期間の記録を続けていたのだ。
そして結果は予測通りだった。
異常は一時的なものではない。確実に拡大している。
観測水晶から送られた情報は、机上に浮かぶ魔導投影盤へと映し出される。
セインは椅子にもたれながら天井を見上げた。
「いやー、これ説明するのめんどいな」
率直な感想だった。
表示されたデータは複雑だった。
魔力の偏り、揺らぎの蓄積。そして、複数要因の干渉。
セインは少し考えてから、ぽん、と手を打つ。
「あ、レオレオ呼ぼ」
観測室の別端にいたレオネルが顔を上げる。
「また僕?」
セインは悪びれもなく言う。
「これ難しいやつだからさぁ、アーヴィン先生に説明よろしくねっ」
「投げないでくれるかな」
そう言いながらも、レオネルはすでにデータを見始めている。
レオネルはすぐに気づく。
「これは……蓄積型だね」
セインは横から覗き込む。
「単発の異常じゃない。ずっと小さな歪みが積み上がっている」
レオネルは淡々と続ける。
「しかも方向性がある。自然変動じゃなくて、“引っ張られている”」
セインは指を鳴らす。
「はいーもうついていけませーん」
レオネルはため息をつく。
「丸投げしないで」
それでも彼はまとめ始める。必要な情報だけを抽出し、整理する動きは慣れている。
レオネルは机の端に置かれた通信水晶へ魔力を流した。水晶内部に光が満ちる。
王立アルケディア学術学院・空界現象学の担当教員。
そしてこの【再構成災害研究チーム】の主任、アーヴィン・クロウへ。
⸻
セインは軽く手を振る。
「先生ー、レオレオがまとめたやつ送りまーす!」
アーヴィンの声が通信の向こうから返る。
『届いた。説明を』
レオネルは送信した資料に目を落とした。
「砂漠の異常は単発ではありません」
観測結果を指先で示す。
「空中流脈から流れ込んだ魔力が、あの地域だけ異常な滞留を示しています」
『滞留?』
「はい。本来なら流れ去るはずの魔力が、その場に留まり続けているんです」
レオネルは別の資料へ切り替える。
「さらに過去の気象記録や流脈変動の痕跡を照合した結果、この現象は僕たちが観測を始める以前から存在していた可能性が高いと判明しました」
『どれくらい前だ』
「断定はできません」
レオネルは首を振る。
「ただ、現在の蓄積量は数年程度で形成できる規模ではありません」
通信の向こうが静かになる。
「つまり、かなり長い年月をかけて蓄積してきたものだと考えられます」
アーヴィンが低く問う。
『原因は』
「不明です」
レオネルは即答した。
「地質、流脈構造、気候変動――考えられる要因はいくつかありますが、どれも現在の規模を説明しきれません」
少し間を置いて続ける。
「観測結果だけを見るなら、まるで何かが魔力を引き留めているようにも見えます」
『引き留めている?』
「そう見える、というだけです」
レオネルは慎重に言葉を選ぶ。
「実際に何かが魔力を吸い寄せている証拠はありません。分かっているのは、あの地域だけ魔力が異常に蓄積しやすいという事実だけです」
資料に表示された波形は、近年になって急激な上昇を示していた。
「これまで長い時間をかけて蓄積してきたものが、何らかの理由で活性化し始めている可能性があります。早急な現地調査を提案します」
通信の向こうでアーヴィンが小さく息を吐いた。
『わかった。あとはこちらで準備する』
短い沈黙。続いた声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
『合同授業と並行しての観測だったな。よくやった』
通信水晶の光が静かに消える。
レオネルは小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「これで一段落かな」
「おつかれレオレオー」
セインは椅子を回転させながら気楽に言った。
「説明係ありがとうねっ」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺じゃないね」
「君だよ。
だいたい先輩なら、こういうことは率先してやってくれるものでしょ」
「だって解析はレオレオの方が得意じゃん?それに俺、どっちかっていうと現地調査担当だし?」
「便利な言い訳だね」
「便利だから使うのだ」
セインはけらけら笑う。
レオネルは呆れたように首を振りながら、魔導投影盤を閉じた。
報告は終わった。あとは主任であるアーヴィンの仕事だ。
「俺が言うのもなんだけどさ、アーヴィン先生の行動力って凄いよね」
「当たり前だよ。先生の研究分野、ほとんど未開拓みたいなものだからね。結局、自分で確かめるしかないんだよ」
「だから危険をおかしてまで現地に行くんだろうなぁ。俺もだけど」
「うん」
「ただ、今回はなんとなくさぁ……。嫌な予感がするんだよなぁ」
「それは否定できない」
二人は苦笑する。
今回の異常は間違いなく厄介だ。だが、それを判断する役目はもう終わった。
少なくとも今は。
セインは大きく伸びをする。
「さーて、レオレオ」
「何?」
「飯でも食べに行く?俺のおごりっ」
「おごりなら行こうかな」
観測室の窓の外では、夕陽が学院の屋根を赤く染めていた。




