放浪!ほっといてよ! その2
気づいた時には部屋を飛び出していた。
正気に戻った時には、85マイル(約160キロ)までしかないコルベットのスピードメーターはとっくに振り切れていた。
ふと、足下に目を落とすと、そこにハリガネの姿はもう無かった。
今、いなくなったものなのか。
それとも随分前からそうだったのか――。
一度だけぐるりと辺りを見回してみる。
ハリガネは本当に夜に溶けてしまったのではないか?
そんな風に思えるほど、夜はまったく無関心な表情を見せ、波の音は、まるで時間がその先に進む事を忘れてしまったかのように、高く低くの繰り返しをただ続けてる。
いつまでも。
いつまでも?
「……ゃーん!」
悠久であるかと思われたその閉じた空間が、小さな声で時の移りを取り戻した。
「……え……ゃーん!」
段々と足早に近づいてくるその声は、一瞬、猫の鳴き声かと思えたが、じつは、何者かを呼んでいる子供の声のようだと気づくと、レンレンは声から逃れるようにそのままゆっくりと歩き出していた。
今のこの、時間の消えた空間は、彼女にとって非常に居心地が良く――。
邪魔をされるにはあまりに忍びないものに思われたのだ。
声が止んだ。
ややあって、レンレンもゆっくりと歩みを止める。
と、その時、突然彼女の目の前に小さな人影が躍り出た。
「ねぇちゃん!待ってッてバ!」
利発そうな顔をした、小学生くらいの日焼けした少年が、まっすぐな視線でレンレンを見上げている。
少年の、サラサラとしたショートヘアの先が、汗で額に張り付いていた。
「ホントだ!すぐ解ったよ!海賊みたいな眼帯付けた真っ白な服を着た女の人だって言ってたから!」
少年の言葉に、レンレンが訝しげな視線を向ける。
「オレ、深山歩夢!」
深山歩夢と名乗った少年は、今度はぺこりと小さくお辞儀をして続けた。
「今日は、うちのハリガネを助けて下さってありがとう御座いました!」
そう言われてレンレンは、昼間の海の家での女将の言葉を思い出していた。
ハリガネの飼い主。
たしか深山と言っていた。
「ああ――」
合点がいったというように短くそう言うと、浜風に乱れた髪を整えながら、またゆっくりと歩き出す。
「助けてなんていないわよん。少しばかり付き合ってもらったけどねん」
昼間の事を、女将にでも聞いてやって来たと言ったところか?
しかし、少しばかり誤解があるらしい。
自分はハリガネを『助けた』覚えはなかった。
「うううん!助かったって!大して威力は無かったんだけど、しつこく蹴られたから――」
「?」
「体中が痛くて、家まで帰るのがしんどいなぁって思ってたら、病院から海岸まで連れてきて貰ったから、山道を歩かずに済んで随分楽だったって!」
「!」
めまいに似た感覚がレンレンを襲った。
目の前の少年は何を言っているのだろう?いや――。
何を『知っている』のだろう?!
病院の駐車場跡での『あの』出来事。
しかし、それはレンレンしか知りえない事のはずだった!いや、正確には、もう一匹――。
「嫌な奴だね、生川・ルークって!ボク、キライになっちゃったよ!」
間違いない!この少年――。
歩夢は、知っている。
「キミ、その話何処で――」
「ばあちゃんが、お礼をしたいから連れて来いって言うんだ!」
そう言うと、歩夢はレンレンの右手を両手で掴み引っ張り出す。
屈託無く――、あまりにも無邪気で、あまりにも真っ直ぐな歩夢の表情が、今のレンレンには、かえって不気味に感じられた。
レンレンを引く少年の手に、徐々に力が込められていく。
(怖じ気づいている?私が?)
もちろん、そんなことがあるハズが無かった。
「おもしろそうねぇ」
不敵に微笑んでそう呟くと、急かされるままに歩を進め出す。
歩夢は、レンレンが自分の誘いに応えたことを感じ取ると、掴んでいた手を離し、先に立って道先案内を始めた。
レンレンの歩調に負けないように、前を向いて、一心に早歩きをしていた歩夢が、ふと――。
レンレンの方を振り向く。
月影の中を、真珠の輝きを放つチャイナドレスに身を包みながら。
隻眼の娘はゆっくりと歩夢に近づいて来る。
「ねえちゃん、名前は?」
「ネモ(誰でもないの意)」
戸惑いもなくそう言って、レンレンは大きく一つ瞬いた。




