悪意!御神酒とあやかし!
「風小ぉー!早く!ハヤクゥ!」
一足先に外に出ていた歩夢が、待たせていたタクシーの開いたドアの脇に立って、何度も手を振りながら風小を急かしている。
「申し訳ありませんでしたデスよ!ただいま参りますデスよ!」
そう言って、ひょいと鞄を担ぎなおすと、あっという間にタクシーの脇まで走りきる。
タクシーの後ろに運転手が車のトランクを開けて待っていたが、風小の鞄を見ると顔を曇らせた。
「ありゃりゃあー。おねぇちゃん。その荷物はトランクに入らないかもしれないなぁ」
本当に困った様子で、小太りの運転手はそう言いながら、風小の肩から鞄を受け取った。
ずっしりとした、見た目以上の重さに思わず足がヨロケる。
一体この小柄な娘の何処にこの鞄を支えて走る力があったのかと訝しがりつつも、やっとの体でトランクに移し、詰め込もうとするが、トランクの容量は、やはり鞄のほとんどを収めることが出来なかった。
「ああ――。やっぱり、こりゃだめだ」
運転手は、方向や角度を変えて、何度もトランクに収めようとするが、鞄は氷山のようにトランクの外にそびえ立つ。
「ああ、大丈夫デスよ。ちょっと『コツ』がございますのデス」
風小はそう言って、トランクからはみ出している鞄に手をかける。
すると、まったく苦労する風でもなく鞄はトランクの中に沈みこみ始め、遂にはすっぽりとすべて収まってしまった。
事の成り行きを、驚愕の面持ちの運転手に見守られながら、風小がまったく当然の事のように、トランクの蓋を閉じてしまったに至っては、運転手はただ呆然と、その場にたたずむ以外無いと言ったありさまだった。
風小は、開いていたタクシーの後部ドアから、先に乗り込んでいた歩夢の隣に座り、運転手が乗り込むのを待っていたが、一向にその気配が無いと、肩越しに後ろを振り返った。
案の定、後ろのウィンドウ越しに、車の閉じたトランクを惚けたように見つめたたずむ運転手の姿が見える。
「さあ、早く参りましょう!」
トランクの前から動こうとしない運転手に、ドアから乗り出して風小が叫ぶ。
硬直するかのように立ちつくしていた運転手は、その声で呪縛が解けたというように、トランクから視線を外すと、身体をゆさゆさと揺らしながら小走りで運転席へ戻って来た。
「やあ、すごいもんだなあ。お譲ちゃん。後でそのコツとやらをおしえてくれないかい?」
シートベルトをしめる動作をしつつ、運転手がそう言って、ルームミラー越しに風小へ羨望の眼差しを向けると、ミラーの中の風小は、ただ無言でにっこりと笑顔をつくって答えた。
やがて、二人を乗せたタクシーが走り出し、すぐに風小が口を開いた。
「レンレンさんのいらっしゃる場所はここから遠いのデスか?」
「うううん」
歩夢が首を強く振って続けた。
「歩けば30分くらいだけど、車ならすぐだよ。あの山を――」
そう言って進行方向に見えてきた低い山を指さす。
「あの緋拠山を迂回して、反対側に出たらすぐだよ!」
そう言ってひとなつっこい表情で風小の顔を覗き込んだ歩夢に、風小は愛想笑いで答える。
レンレンの意図を汲めず、心中穏やかでは無い今の風小にはそれが精一杯だったのだ。
しばらくの間、タクシーの中は無言が続いていた。
風小の頭の中に、レンレンの意地悪い笑顔が浮かんでは消える。
色々な成り行きを思い浮かべるが、そのどれもが、決して良い方向へは向かわなかった。
つのる不安が風小を無口にした。
「レンレンさんですからねぇ」
思わず呟く。
「あ、風小!見えたぞ!」
歩夢の声にはっとして、顔を上げた風小の視界一杯に広がったのは――。
「あえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!こ、これわあ!」
山を迂回しきって突如開けた絶景。その見渡せる限りの風景の一方から他方までを一直線にかけ渡し、そのまま空の青と交わる彼方へ広がりつつも、キラキラと一線を画して輝く――、水平線!
「海です!」
驚いて飛び上がった風小が頭のてっぺんを思いっきり車の屋根にぶつけ、『ゴン』と言う鈍い音と共に車の中が小さく震えた。
「ひででででででで」
頭を押さえながら風小がシートで悶絶する。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい!」
運転手が心配そうに声をかけた。
「それにしても」
笑いをこらえる声で運転手が続ける。
「お嬢ちゃん、よっぽど海が好きなんだねぇ」
「いえいえ、好きとか嫌いとか以前に、わたくし、本物の海を見るのはこれが初めてと言っても過言では無いのデスよ」
風小があっけらかんとそう言うと、一瞬の間の後。
歩夢と運転手が「えっ!」と驚きの大きな声をハモらせた。
「風小!海、知らなかったのか?」
歩夢の興奮した態度から、心底驚いているのが判る。
「知識としては知っておりましたし、写真も見たことが御座いますデスよ。もちろん、映像も。飛行機からも見ましたデスねぇ。しかし、こんなに本物を間近で見たことはございませんデスよ」
そう言って目をまん丸く見開きながら、切なそうにため息を漏らした。
すると突然、Tシャツの襟首から手を入れる。
携帯電話を引っ張り出し、ボタンを操作して耳に当てた。
誰かが呼び出しに出るのを待っている様子だった。
「ああっ!姫さま!」
異常に興奮した風小の声が狭い車内にこだまする。
「海です!」
その一言を嬉々として叫んだ後、動きが止まり、急に放心したような表情になったかと思うと携帯を耳から離した。
「切られちゃいました――」
泣き出しそうな顔をしながら、恨めしそうに携帯をただ見つめる風小だった。
「おーーー!」
スクール水着姿の風小が、大きく両手を振り上げて、サイレンのように感嘆の叫びを上げると、砂浜で賑わっていた海水浴客達の言葉と動きが、一瞬、止まった。
「何という荒々しさ!何という力強さ!圧倒的な景観は、まるで、お空が抜けて落ちて来たようではございませんデスか!」
風小をあざ笑う者、無視しようと努める者、訝しがる者――。
辺りは再び喧噪を取り戻していた。
「いざあーーー!!」
そう言って波打ち際に走り出そうとした風小は、ふかふかな砂に足を取られ、前方に放物線を描きながらふっ飛び、顔面から着地したかと思うと、尚も勢い余り、身体をエビ反らせたまま前方に二回転半して、大の字にうつぶせて浜辺に張り付いた。
「ふふふふふふ」
不気味な笑いと共に、風小が半ベソの顔を上げると顔にしっかり貼り付いた砂を拭う。
「しゃれた歓迎のあいさつをしてくださいますデスねぇ」
明らかに、強がりと判る、べそかき声でそう言って立ち上がり、しっかと波打ち際をにらみ付ける。
「いざあぁーーー!!!」
走り出した風小の足を、ふかふかの砂が再び捉えた。
「なにやってんのよん。あのばかぁ」
浜茶屋『源九浪』。
おなじみの席で、茶碗酒をあおりながらその様子を見ていたレンレンが独り愚痴る。
「あっ、今度はさっきの二倍飛んだ」
レンレンの隣に座って、いちごのかき氷をほおばる歩夢が楽しそうに言った。
「馬力が有りすぎんのよん。少しは学習しなさいって」
そう言ってレンレンは金魚柄の浴衣の襟元を直す。
「あらよぉ。元気な娘さんだねぇ」
おばちゃんが、運んできた料理をテーブルに並べながら、転げ回る風小の姿を呆れるように見ている。
「うちの秘密兵器よん」
レンレンはそう言って腕を組み、胸を張って見せた。せり上がった胸の谷間は、浴衣の襟元からこぼれ落ちそうになっている。
「レンレンさーん!」
にこやかに足取り軽く、風小が源九浪に飛び込んで来た。
頭から足先までずぶ濡れで、どうやら波打ち際まではたどり着けたようだとレンレンは推測した。
「海に頭から突っ込んで、波に揉まれて溺れかけてた」
状況を見守っていた歩夢がレンレンに耳打ちする。
「しょっぱいです!聞きしにまさるしょっぱさデス!砂です!波です!空です!太陽です!死にかけたことさえ心地よいです!」
「あらよぉ、何だか初めて海を見るような口ぶりだねぇ」
興奮状態の風小を見ながら、おばちゃんがそう言って高笑いをした。
「いいから、お座んなさいよん」
おばちゃんをスルー気味にして、レンレンは風小を向かいの席に着かせると、茶碗を指し出し、風小に渡す。
「ささ、まずは一献」
そう言って、傍らに置いてある日本酒の一升瓶から直接風小の茶碗にお酌した。
「わーい!」
うれしそうに茶碗を差し出し、お酌されながら、風小が瓶のラベルに目を走らせる。
「『海亀』ですか。聞いたことのないお酒デスよ」
一瞬、戸惑いを見せた風小だったが、手に持つ茶碗に並々とお酒が注がれていく様子をみて、すぐに嬉しそうな表情に戻る。
いつもの風小ならば気づいていたはずだった。
だが、今日の風小は気づかなかった。
いや、気づけなかった。
何もかもが輝いて見えたし、何もかもが楽しすぎた。
しかし、それは、深く静かに進行していた。
酒が茶碗に満たされて行くほどに、レンレンの微笑みは、悪意に満ち満ちた嘲りに変貌して行く。
その邪悪さに、思わず歩夢は身を強張らせた。
やがて。
茶碗に、酒はこぼれんばかりに注がれ、運命の時が迫る。
「いっただきまあーすデスよ!」
それまでの勢いのままに、一息に酒を流し込み、おいしそうに喉を鳴らしていた風小の、動きが――。
止まった。
「?」
喉を大きく二つ鳴らし、強制的に口一杯の酒を飲み下すと、みるみる風小の生気が消えていくのが解る。
「あははははははははははは!」
笑いを堪えきれず、悶え苦しみ腹を抱えながらレンレンが大笑いする。
「どう?どう?ねぇ?どう?まずいでしょ?まずいよね!幸せな気持ちなんて微塵も無くなるほどまずいわよねん!」
そう言ってレンレンが椅子から笑い転げる。
「キエローーーーーーーーーーーーーーー!」
風小は、崩れて行く意識の中、叫び声を上げることで辛うじて自我を保つと、おもむろに目の前にある酒瓶をひったくるようにつかみ取り、そのまま浜茶屋の外へと走り出していた。
「ヤス酒ェェェェェェェェェェェェェェェェェー!」
怒りでは無い、むしろ恐怖の衝迫に駆られ――。
その酒の存在そのものが、有ってはならない現実で有るかの如くに――。
風小はその渾身の力を込めて、酒瓶を海に向かって投げ捨てていた。
遠投された酒瓶は、水平に回転する残像で円盤のようになりながら、唸りを上げて沖に向かって一直線に飛んで行き――。
やがて、見えなくなってしまった。




