16話 置いていかせたのは自分
ジャスパー視点です。
生まれた時から、置いていかれる存在だった。
鉄だけではない、錆びたにおいが鼻につく牢獄の中で、俺は生まれた。他にも檻があるらしく、様々な声が聞こえてくる。プラスの声は一つもなくて、悲しみや苦しみ、痛みなど、耳を塞ぎたくなるような声だった。
次第に声が出せるようになり、周りの魔物と話すことも出てきたが、みな、どこかに行っては消えていってしまっていた。
人間たちは毎日、俺を押さえつけてきた。心拍だとか、筋力だとか、回復力だとか、知らない単語ばかり話しながら。痛い思いも苦しい思いも耐えてきた。
だが、ある日気づいた。今で言う変身後の夜に、壁が小さく欠けていたことに。
考えることもせず、全身の力を込めて体当たりをした。人間たちは音に気付いて、駆けつけてきたが、牢を開ける間近、ついに壁が崩れ落ちた。「力の増幅速度が計算より遥かに速い」なんて言っていたか。
とにかく、俺は自由になった。
しかし、出て行った世界は、魔物の俺には生き辛かった。森を歩けば罠にかかり、人里に降りれば何かを叫びながら石を投げられ、倒れていた人に木の実を持って行けば、金になりそうだと連れ去られそうになった。何か変な匂いがするものも飲まされかけた。怖かった。
発作の時にできた傷も重なり、夜を何十にも重ねた頃には、ただよたよたと歩くことしかできないでいた。こんな状態が長く続くはずがなく、空腹と痛みで、ある日の朝に倒れた。
その時に、俺を助けてくれたのがアカシア様だった。
彼女は勇気があり、優しかった。最初に俺が傷をつけたのに、優しい目で見つめてくれ、めげずに看病してくれた。あんな目を向けられたのは初めてだった。
体も心も回復し、俺は彼女に恩返しをしに行った。なのに、彼女は俺に与えてばかりだった。色んなことを教えてくれた。言葉、料理、洗濯、人間社会、地理、魔道具……感情も。
気付けば彼女のことをいつも考えていた。彼女のことを待っているだけで、胸の奥が温かくて、幸せだった。笑ってくれるともっと胸が高鳴った。彼女の行動、言動、存在ごとすべてが、心を揺さぶった。
この感情の意味を知りたくて、自由に読んでいいと小屋に置かれた本を読み漁った。
そして、好きという言葉を知った。
だが、これは人間同士の話。人間でも魔物でもない、物に近い自分が寄せていい感情じゃない。そのことに気づき、彼女から離れようと思った。
でも、できなかった。想像しただけで、胸が張り裂けそうだったから。
そんな時に彼女に町へ誘われた。怖い記憶が蘇ったが、彼女がいると思うと不思議となくなった。彼女はすごい。悲しい記憶を楽しい記憶で上書きしてくれたのだから。
しかし、俺は彼女を知らないうちに傷つけてしまった。だから、傷つけた理由を知りたくて、謝ろうと思って、小屋で待っていた。そうしたら、彼女は会いに来てくれて。必死に、伝えてもいいであろう気持ちだけを口にしたら、彼女は抱き締めてくれた。
そして、心の内を明かしてくれた。
嬉しかった。嬉しくて、つい、話すつもりのなかった自分の気持ちまで、滑らせてしまった。
なのに、彼女は受け入れてくれて。
(それから色々あった。なのに、なのに――)
頭に浮かぶのは、首から血を垂らした彼女の姿。
発作によって朦朧とした意識は、これしか覚えていなかった。
前の月まで薬は効いていた。なのに、今回はほとんど効かなかった。彼女の姿の後に思い出せるのは、狼化が解け、今までより遥か遠くに位置する森の景色。
辞書にも載っていなかった気を狂わせるような感情が、心と体を支配した。
それでも、行かなくてはならないと思った。
俺が犯した一生許すことのできない罪がなんなのか、わかっていても。
しかし、離宮に着いた時には、彼女の姿はなくて。魔力すら残っていなかった。
感じられたのは、彼女にも、自分にも似た小さな魔力のみ。
(あれから、何日、いや、何ヶ月経ったんだろう)
岩陰に背を預け、淀んだ空を見上げる。
ラルフのことが心残りだったが、彼女を殺めてしまった俺は、彼に会うのが怖かった。例え怖くなかったとしても、会う資格はない。最低で最悪だ。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になり、そして時は過ぎ、梅雨が来た。雨に濡れ、空腹に震えている体は未だ息絶える様子を見せない。
彼女を守ることに使えると心秘かに踏んでいた自身の肉体の強さが、ただただ疎ましく、憎い。
自分を抱き締め、温めてくれる彼女はいないのに、今でも彼女の熱を覚えている。
恋しくて、切なくて、やるせなくて。俺は膝へと頭をこすりつけた。
その時、雨の音が弱まった。体を鞭打つ刺激が消える。
「そんなところにいては、お体が冷えてしまいますよ」
聞き覚えのあるような声に、顔を上げる。
「ラルフ様が寂しがっておられますよ。さぁ、私と共に参りましょう、ジャスパー様。」
彼を慰める資格など、ないのではないか。
そう目で訴える俺の手を、かつて何度も自身を迎え入れた男が引いた。
その手は、雨が降っているからか、ひどく冷たく感じられた。




