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8話 古傷だと思い込んでいても

「アカシア様!」

「わっ!」


 湯浴みを終えた私の元に、リリーが訪ねてきた。扉を開けた途端、抱き締められてしまう。首がもげそうだ。

 リリーが首から腕を外し、顔を上げた。その表情はダニエルを心配する時と変わらない。


「雨に濡れて帰ってきたと聞きましたわ。どうしたんですの?」

「たまたま帰る時と重なっただけだよ。濡れたと言ってもほんの少しだから、気にしないで」

「でも、今の貴女はとても疲れているように見えますわ」


 リリーの温かい手が頬へ触れた。

 彼女には少しだけ嘘をついた。王城へ逃げ帰る途中から降った雨は、少しどころか私の全身を濡らした。ようやく肩の下まで伸びた髪を握れば、雑巾のように水が落ちたくらいだ。

 心配させたくなかったから、真っ先に湯浴みをした。なら、これ以上踏み込ませるわけにはいかない。


「疲れたのは、少しだとしても濡れてしまったからかもしれないな」


 そう言うと、リリーはため息をついた。心なしか叱られている気がする。

 しかし、すぐに彼女は微笑んだ。次いで後ろへ振り向き、メイドへ手招きをした。


「体を温める紅茶を用意いたしましたの。夕食まで一緒に飲みませんか?」


 二人で話すのは久しぶりねと、リリーは慈悲深そうな笑みを浮かべた。

 胸の奥に芽生えた何かを吐き出してしまいそうになったが、飲み込み、私もまた微笑んだ。


「そうしよう」


 大切な二人にだけは、嫌われたくない。だから、二人に頼られる人でありたいのだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 夜の帳が下りた空に、雨のシャンデリアが降りかかる。激しい雨音に耳を澄ませながら、目を閉じる。


 夕食時、私は国王にも心配をされた。そして、リリーへ向けたものと同じことを話し、今は部屋へと戻っていた。

 寝る支度も済ませてあるのだが、どうにも眠れない。

 夕方の出来事と光景が、頭に焼き付いて離れない。


(また、苦しい)


 心臓は静かに痛むし、胸焼けとは違ったモヤモヤしたものが、鳩尾のあたりにずっといる。寝ればスッキリするだろうとベッドへ寝転がっても、苦しさは増すばかりだ。そう簡単に消えたない気は、なんとなくしていたが。


「はぁ」


 自分は、どうして彼から逃げてしまったのだろう。

 何事もなく駆け寄って、難なく話を切り上げて、もしくは軽い挨拶をしてから離れればよかったのに。突然私に逃げられて、きっと彼は驚いたことだろう。へこんでいるかもしれない。

 でも、どうしてもあの場にいたくなかった。わかりやすい彼の顔を、見たくなかった。


「かわいかったなぁ」


 きっと、声も同じだろう。鳥がさえずるように高く、小さく、笛を吹くように、美しい音階を刻むのだろう。

 絶対に、見た目も、中身も、声も、私なんかよりかわいい。


「痛いなぁ」


 感情は記憶とリンクする。私は馬に乗ってから何度も、ローカスのことまで思い出してしまっていた。

 膝を抱え、ベッドの上で丸くなる。

 こんな弱々しい姿をしたのは初めてだ。ローカスの裏を知った時でさえ、ここまで感情を引きずることはなかったのに。


「起きて魔道具でもいじろう」


 体を起こすと、髪が顔にかかった。うっとおしいからと幼い頃から短くしていた髪、失恋してより短く切った髪が、今では他の女性たちと変わらないほどに伸びていた。まだ少し短いが、十分だろう。

 私は魔道具の置かれた机ではなく、必要最低限の化粧品が置かれた鏡台へと足を運んだ。


「ひどい顔」


 鏡に映る自身の顔は、予想していたより遥かに疲れきっていた。血色のない肌に、虚ろな瞳、ぐしゃりと潰れた髪。

 今まで見た女の子たちとは、髪の長さ以外、何もかもが違って見えた。


――髪を長くしたくらいで、かわいい女の子になれると思ったの?


 そう、心の中で自分が囁く。

 王妃が短髪では格好がつかないと伸ばし始めたつもりだったが、私は、本当は、誰かにかわいいと言ってもらいたかったのだろうか。

 かわいい、美しい、綺麗、すてき、好き、大好き、愛してる。

 どれも耳にしたことはあるのに、自分に対して言われた言葉は一つも――


「ツッ!」


 鏡へと振り下ろした拳を、台へと力なく打ちつけた。

 何かの液体が入った瓶が、音を立てて倒れる。


 全て諦めたはずなのに、どうして私は苦しんでいるのだろう。

 国王に恋愛の情がないのは確かな事実だ。リリーへの恋心を聞かされた時、苦しくなどならなかったから。友に一歩先を行かれたような気持ちがして、寂しさを感じはしたが、リリーと二人で手を差し伸べてくれたから、大丈夫だった。

 しかし、夫婦と友人でしかない。どうしても、彼らの間には、私が入れない何かがある。


「もう、もう……!」


 彼らだけでは、誤魔化せない。

 諦めきれていない心を騙すことが、できない。


 私は側にあった魔道具を手に取った。出力装置を触り、スイッチを押す。

 黒く焦げた匂いが鼻を刺し、消えた。


「これが、いい区切りになればいいんだが」


 ほんの少し冷静になった頭はもう、鏡を見ても動揺しなくなっていた。

 顎先ほどの髪を持つ女が、鏡の奥でため息をついた。


「明日、どんな言い訳をしようかな」


 窓から夜空を眺め、思案する。

 自分の弱さに気づき、心機一転するために切った、と言えば、多少は心配されるかもしれないが、納得してもらえるだろう。嘘もついていない。


(まぁ、まだ気持ちは落ち込んだままだが、時が経てばいずれ……ん?)


 何か違和感を感じ、私は眼下へ目を向けた。

 なんとなく、小屋が気になる。距離が離れている上に、雨がひどいので見えはしないが、何か悪い予感がする。


「……朝までに帰って来ればいいか」


 蝋燭と燭台だけを持って、私は部屋から出た。

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