15話 セオドアの隠し事
ある晴れた陽気な昼下がり、ルミナスは珍しく一人で廊下を歩いていた。楽しそうに話す生徒の声、風が木々を揺らす音、誰かが奏でるピアノの音色……普段セレナの声に消されていた音達を心地よく聞きながら進む。
ルミナスとセレナは学年が違う。常に行動を共にすることはできない。
(今日はセオドア様との感想会があるのよね。まだ時間があるし、どこかで本でも読――)
――突然、部屋の中から大きな物音がした。
「行くわよセレ――」
そうだ、いないんだった。
当たり前のように隣を向いた自分に驚く。セレナがいる場所には、窓から差し込む光が立っているだけ。
その光にもの寂しさを感じていると、部屋から「うぅ」と小さな声が聞こえてきた。ルミナスは自分が何をしていたのか思い出し、急いで部屋の扉を開けた。
「大丈夫?! ……って、セオドア様? いったい何があったの?」
「ッ! ル、ルミナス様……これはっ……」
ガラガラと何かが床を滑る音がする。
中にいたのは、赤く濡れ、目を見開いてこちらを見やるセオドアだった。
――その瞳に、恐怖の色を滲ませて。
「セオドア様! しっかりなさって!」
「こちらへ来てはいけません!」
「えっ? キャア?!」
ルミナスが一歩踏み出した途端、足が滑った。ズドン、と音を立てて床に尻餅をつく。
(血にしてはサラサラして……)
よく見てみると赤い液体は血液ではなかった。少しドロドロとしていて、ツンとしたアルコールの匂いがする。ああ、と顔に手を当てるセオドアからも同じ匂いがした。そう、絵の具の香りが。
ルミナスは辺りを見回した。セオドアの近くにはキャンバススタンドが置かれている。戸棚の影や机の上にも何枚かあり、どれも描きかけの物ばかりだ。床には他の絵の具、筆、油瓶などが転がっていた。あと中身が赤い絵の具の缶も。セオドアはこれを被ってしまったのか。
「すみません。鍵をかけておくべきでした」
「いいのよ。ノックもせずに入った私も悪かったわ」
立ち上がり、服についた埃を払う。
スカートには赤い絵の具が芸術的な模様を描いていた。この状態でウロチョロしていたら衛兵に声をかけられてしまいそうだ。
(一度着替えに戻った方がいいわね……あら?)
ルミナスは机の下に隠されるように置かれていたキャンバスを手に取った。手に取ったキャンバスに描かれていたのは、見覚えのある暁光。濃紺の夜空の下から、命が芽吹き出すような陽光が指す美しい絵。時間が経って変色したからか少し雰囲気が違うが『暁光の中で芽吹く君へ』の表紙絵だろう。
「まさか……」
「……そのまさかです」
隠していた罪悪感があるのか、セオドアは下を向いて気不味そうな表情を浮かべていた。
「最初は素敵な作品を見て楽しむだけだったんです。でも、次第に描きたいと思うようになって……芸術は嗜むもので、貴族が実際に生み出すものではない。そのことは分かっているのですが、それでも描きたくなってしまうんです」
そう言ってセオドアは悲しげに自嘲した。
芸術作品に価値を見出し、お金を落とす貴族は多い。しかし、それら殆どの貴族が「実際に芸術作品を生み出すのは平民のすること、それらを見て買うのが貴族のすることだ」と認識している。セオドアの周りは同じような認識を持つ者が多かったのだろう。
「誰にも言わないでくれませんか?」
だから、こんなにも不安そうな顔でルミナスを見つめているのだ。
「もちろんよ。貴方がそう言うなら」
「ありがとうございます」
セオドアはホッと安堵の表情を見せた。
「でも残念だわ」
「何がですか?」
ルミナスは側にあった絵に触れた。
「こんなにも素敵なのに、誰の目にも触れないなんて」
「素人が描いたものです。ルミナス様はお優しいですね」
「あら、本心で言っているのよ。お世辞じゃないわ」
窓際に飾られた海の絵は、潮風が今にも夏の香りを届けてきそうなほど爽やかで、心に穏やかなワクワクを与えてくれる。
床に置かれた冬の森の絵は、凍てつくような空気が伝わってきて、思わず身震いしてきそうだ。しかし、荒くも柔らかいタッチによって木漏れ日のような温かさも感じることができた。
本棚の後ろに隠された花畑の絵は、花が一つ一つ細かく丁寧に描かれており、彩色にも拘りが見える。まるで色とりどりの花達が茶会を開いているようだ。楽しげな雰囲気が漂っている。
他の作品達もそうだ。全てから、彼の芸術に対する愛情が伝わってくる。
「私は好きよ」
「っ……そんなことを言われたのは初めてです」
セオドアは苦しげに、消え入りそうな声で言った。
「これで最後にしようかと思っていましたから」
「そんな……ん? 思っていたってことは、今は違うの?」
もしまた描き続ける気になってくれたのなら嬉しい。あるか分からないが『暁光の中で芽吹く君へ』の続編だって読みたい。
期待しながら聞くと、セオドアは少し迷って言った。
「少し理由があって。誰も見る人がいないなら、私が気持ちに踏ん切りをつければいいと思っていたんです」
「私が見るわ。見させてちょうだい」
「ならーーあっ」
ふわ、とセオドアが微笑みかけたその時、机の上から何かが落ちた。それは手紙のようなもので、まるで吸い寄せられたかのようにヒラヒラとルミナスの元に落ちてきた。
(これは手紙? にしては文字が汚……)
手紙に書かれている文字を見て、ルミナスはギョッとした。
『絵を描いていることをバラされたくなければ、今日の放課後男子寮の裏側まで来い』
「何よこれ……これが来たから、筆を折ろうと?」
「はい。心配させたくなかったので誤魔化したんですが、これも結局バレてしまいましたね。ペンキを落としたのも、これに動揺してしまったせいです」
セオドアはまた苦笑した。
「どうするつもりなの?」
「……全ての絵を燃やそうと」
「そ、そんなことをするつもりなの?!」
「違います! 前は、です。前は」
(よかった……!)
ルミナスは思わず庇うように手にした絵から離れた。
「行かずに部屋で本を読んでおきます」
「そうね。何かあったら大変だもの」
バラされたくなければ、ということは何か交換条件を出されるということ。何を頼まれるのか読めたものじゃないし、条件を飲ませることが目的ではなく、彼に危害を加えることが目的の可能性もある。どうしても、という理由でない限りは行かないのが得策だろう。
ウンウンと頷く。すると、セオドアはクスリと音をたてた。今度は苦笑ではないようだ。苦笑というより……微笑ましい感じがする。
「それもありますが、今は見てくださる人がいるので」
そう言って、セオドアは優しい眼差しをルミナスに向けた。春の森のように温かい緑色の瞳を。
「そ、そう……なら、うん。よかったわ」
ルミナスはなんだか恥ずかしくなり、目を逸らした。そしてあることに気付く。
「はっ!」
「ルミナス様?」
「私達、ペンキに汚れたままだわ」
「あっ。そうでした……乾いてパキパキになってますね」
風に揺れないスカートなんて、ロマンがない。
「じゃあ、私は着替えてからまた戻ってくるわ。今日は感想会をするんでしょう?」
「では私も着替えてきます。これだと時間がかかりそうですが……」
困り笑いを浮かべるセオドアは、色だけでいくともはや別の人物になっていた。香色の柔らかな髪は赤くトゲトゲしい髪に、白いシャツはピンク色に、肌までピンク色になっている。シャワーを浴びる必要があるだろう。
(微妙に顔半分汚れていないから、ホラー小説に出てくるゾンビみたい。私ったらよくこれで恥ずかしくなったわね)
ルミナスは笑いそうになるのを抑え、バレないよう後ろを向いた。
あ、と思い、再度セオドアに顔を向ける。笑みはもう大丈夫だ。
「新作ができたら私に見せてちょうだいね。寮裏には行っちゃダメよ。絶対よ?」
「はは、分かりました。約束します」
じゃあ、と言って部屋を後にする。
衛兵にはもちろん声をかけられたのだった。




