ひまりだけが、知ってる事
秋が深まり、庭の木々が少しずつ赤や黄色に色づき始めたころ。
ひまりは、幼稚園から帰ってくると、いつものように隣の家へ走っていった。
「はるとお兄ちゃーん!」
玄関から顔を出したはるとは、制服姿のまま笑った。
「おかえり、ひまり。今日は幼稚園どうだった?」
「おいもほったの!」
「おお、芋掘りか。いっぱい取れた?」
「うん! おっきいのと、ちっちゃいのと、へんてこなの!」
「へんてこ?」
「こんなかたち!」
ひまりは両手を広げたり、指を曲げたりして、一生懸命に説明した。
はるとは声を出して笑った。
「それは見てみたいな」
「おうちにあるよ! あとで見せてあげる!」
「楽しみにしてる」
ひまりは満足そうにうなずいた。
けれど、その日はいつもと少し違っていた。
はるとは、玄関の奥に置いてある段ボール箱を気にしていたのだ。
「はるとお兄ちゃん、それなあに?」
「ああ、これ? 母さんが押し入れを片づけててさ。昔のものがいっぱい出てきたんだ」
箱の中には、古いおもちゃや絵本、写真、それから使い古されたタオルなどが入っていた。
ひまりは、箱の中をのぞき込んだ。
その瞬間。
ふわり、と懐かしいにおいがした。
少し古い布のにおい。
あたたかい日なたのにおい。
雨に濡れた段ボールのにおい。
ひまりは、箱の中にあった灰色の小さな毛布から目を離せなくなった。
「……あっ」
「どうした?」
はるとが毛布を持ち上げた。
「これ、覚えてるなあ。昔、ミケが寒そうにしてたとき、これを使ってたんだ」
その言葉を聞いた途端、ひまりの胸がきゅっとなった。
ミケ。
それは、ひまりがまだ猫だったころの名前。
ひまりは毛布にそっと手を伸ばした。
「これ……」
「ミケがよく寝てたんだ。もうずいぶん古いけどな」
はるとは懐かしそうに毛布を広げた。
端っこには、小さなほつれがあった。
ひまりはそこを見つめた。
覚えていた。
あのころ、毛布の端を前足でちょいちょいと引っ張って、丸くなって眠ったこと。
はるとが学校へ行く前に、毛布を段ボールの中へ敷いてくれたこと。
寒い日には、何度も何度も様子を見に来てくれたこと。
ひまりは、思わず毛布をぎゅっと握った。
「……はるとお兄ちゃん」
「ん?」
「ミケちゃん、ここでねんねしてたの?」
「ああ。よく知ってるな」
「……うん」
ひまりは小さくうなずいた。
はるとは、ひまりが猫好きだから、興味を持ったのだと思ったらしい。
「ミケは、ここが好きだったんだろうな。俺が来ると、よく段ボールから出てきてさ」
「……うん」
「でも、俺が学校に行くと、また丸くなって寝てたんだ」
はるとは笑った。
「今思えば、もっと遊んでやればよかったな」
「どうして?」
「学校が終わっても、友達と遊んだり、宿題したりしてただろ? ミケといっしょにいられる時間は、そんなに長くなかったからさ」
ひまりは、はるとの顔を見上げた。
そして、小さな声で言った。
「でもね、ミケちゃん、はるとお兄ちゃんが来ると、うれしかったとおもうよ」
「……そうかな」
「うん!」
ひまりは、力いっぱいうなずいた。
「だってね、はるとお兄ちゃんが来ると、あったかいの!」
「毛布が?」
「それも!」
ひまりは少し考えた。
どうしてあったかかったのか。
どう言えば、はるとに伝わるのか。
まだ、うまく言葉にできなかった。
「ごはんもくれたし、ねんねするところもあったし……」
ひまりは指を一本ずつ折りながら話した。
「さむいとき、毛布もくれたでしょ?」
「うん」
「だから、きっと、うれしかったよ!」
はるとはしばらく黙っていた。
それから、ひまりの頭をそっとなでた。
「……ありがとう、ひまり」
「えへへ!」
ひまりは嬉しくなって笑った。
自分が言いたかったことが、少しだけ伝わった気がした。
*
その日の夕方。
はるとのお母さんが、古い写真を何枚か持ってきてくれた。
「これ、ミケの写真よ。はるとが小さいころ、よく撮っていたの」
「見てもいい?」
ひまりが尋ねると、お母さんは優しくうなずいた。
「もちろん」
写真には、小さな男の子と三毛猫が写っていた。
男の子は、まだ今よりずっと幼いはると。
猫は、まぎれもなくミケだった。
ひまりは写真を見つめた。
はるとは、ミケを抱き上げようとして、少し困ったような顔をしていた。
ミケは、はるとの腕の中で目を細めていた。
「この写真ね、はるとが初めてミケを抱っこできた日なのよ」
お母さんが教えてくれた。
「最初は怖がらせないように、ずっとそばで見ていたの。ミケも、少しずつはるとに慣れていったのよね」
「へえ……」
ひまりは写真をそっとなでた。
そのとき、ふと、別の写真が目に入った。
そこには、雨の降る日に、段ボールの中で丸くなっているミケが写っていた。
写真の端には、幼いはるとの手が写っていた。
ひまりは、その写真を指さした。
「はるとお兄ちゃん、これ!」
「ん? ああ、雨の日だな」
「この日ね……」
ひまりは言いかけて、口を閉じた。
この日、はるとは傘を差して、何度も様子を見に来てくれた。
濡れないように段ボールの向きを変えてくれた。
帰る前には、小さな声で「また明日な」と言ってくれた。
ミケだったころのひまりは、その声を聞いて、安心して眠ったのだ。
けれど、それを全部話したら、はるとは不思議に思うかもしれない。
ひまりは写真を胸に抱いた。
「……ミケちゃん、よかったね」
「え?」
「はるとお兄ちゃんがいて、よかったね」
はるとは、少し驚いた顔をした。
それから、写真を見下ろして、ゆっくり笑った。
「……うん。俺も、ミケに会えてよかったよ」
その声が、いつもより少しだけ優しく聞こえた。
ひまりは、はるとの隣にぴったりと座った。
そして、そっと彼の袖をつまんだ。
「はるとお兄ちゃん」
「どうした?」
「ひまりも、はるとお兄ちゃんに会えてよかった!」
はるとは目を丸くした。
それから、ひまりの頭をくしゃっとなでた。
「俺もだよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「えへへへ!」
ひまりは、満面の笑みを浮かべた。
*
夜。
ひまりは自分の部屋で、猫のキーホルダーを手のひらにのせていた。
窓の外には、丸い月が浮かんでいる。
ひまりはキーホルダーの小さな耳を、指でそっとなぞった。
「ミケちゃん……」
自分の名前を、口にしてみる。
今の自分は、ひまり。
お母さんとお父さんがつけてくれた、大切な名前。
でも、ミケだったころのことも、なくなったわけではない。
はるとの声。
段ボールの中の毛布。
ごはんを置いてくれた、小さな手。
そして、あの日のこと。
ひまりはキーホルダーを胸に抱きしめた。
「……はるとお兄ちゃん」
明日も会いたい。
いっしょにお話ししたい。
できれば、ずっと隣にいたい。
ひまりは、そんな子どもらしい願いを胸に、目を閉じた。
そのころ、隣の家では、はるとが古い写真を机の上に並べていた。
毛布も、写真も、昔のノートも。
しまい込んでいたものを見ていると、忘れていたことが少しずつよみがえってくる。
はるとは、雨の日の写真を手に取った。
「……ミケ」
小さく呼びかける。
返事はない。
それでも、はるとは写真を大切に引き出しへしまった。
そのとき、ふと、ひまりの言葉が頭に浮かんだ。
『この日ね……』
あのとき、ひまりは何かを言いかけていた。
けれど、すぐに話をやめてしまった。
「……何だったんだろう」
はるとは首をかしげた。
ひまりは、まだ六歳の女の子だ。
猫が好きだから、ミケの話に夢中になっただけかもしれない。
そう思いながらも、はるとはなぜか、あのときのひまりの表情が忘れられなかった。
まるで、本当にその場所を知っているみたいな顔だったから。
窓の外で、秋の風がそっと吹いた。
ふたりの間にある、小さな秘密。
それはまだ、誰にも話されていない。
けれど、その秘密は少しずつ、ふたりの思い出の中から姿を現し始めていた。




