雨の日の、あったかい手
夏が終わり、朝と夕方の風が、少しだけ冷たくなってきたころ。
ひまりの家の庭では、はるとといっしょに育てたひまわりが、茶色い種をたくさんつけていた。
「はるとお兄ちゃん! みてみて!」
ひまりは、小さな手いっぱいに、ひまわりの種をのせて走ってきた。
「おっ、いっぱい取れたな」
「うん! これ、ぜーんぶ植えたら、ひまわりさんいっぱいになる?」
「全部植えたら、すごいことになりそうだな」
「じゃあね、いっぱい植える!」
「庭がひまわりだらけになるぞ?」
「いいもん! ひまり、ひまわりだいすき!」
ひまりは、えへへ、と笑った。
はるともつられて笑いながら、ひまりの手からこぼれそうになった種を、そっと小さな袋に入れてあげた。
「これは来年まで取っておこうな」
「らいねん?」
「そう。来年の春になったら、また植えるんだ」
「はるとお兄ちゃんも、いっしょにやる?」
「もちろん」
「やったあ!」
ひまりは両手を上げて喜んだ。
その顔を見ていると、はるとは不思議と、学校や部活で疲れていたことを忘れられるのだった。
*
その日の午後。
空が急に暗くなり、大粒の雨が降り始めた。
ひまりは、お母さんのお手伝いで、家の玄関先に置いてあった小さな植木鉢を中に運ぼうとしていた。
けれど、鉢は思ったより重かった。
「んーっ……よいしょっ!」
持ち上げようとした拍子に、ひまりの足が滑った。
「あっ!」
鉢は落とさなかったものの、ひまりはぺたんと地面に座り込んでしまった。
手のひらが、じんじんする。
ひまりは自分の手を見つめた。
赤くなったところに、小さな砂がついている。
「……いたい」
ぽつりとつぶやいたとき、雨の向こうから声がした。
「ひまり!?」
傘を持ったはるとが、急いで駆け寄ってきた。
「どうしたんだ? 転んだのか?」
「……うん」
「手、見せてみろ」
はるとはひまりの前にしゃがみ、手のひらについた砂を、濡らさないようにそっと払った。
「ちょっと赤くなってるな。歩けるか?」
「あるける……」
「よし。じゃあ、家までいっしょに行こう」
はるとはひまりの手を握った。
大きくて、あったかい手だった。
ひまりは、その手をぎゅっと握り返した。
「はるとお兄ちゃん」
「ん?」
「おてて、あったかいね」
「そうか?」
「うん。ぽかぽかする」
「雨で冷えたんじゃないか? 帰ったら、ちゃんと手を洗おうな」
「うん!」
はるとは傘をひまりのほうへ傾けながら、ゆっくり歩いた。
自分の肩が雨で濡れていることには、気づいていないようだった。
ひまりはそれを見上げて、小さな声で言った。
「はるとお兄ちゃん、ぬれちゃうよ?」
「ひまりが濡れないほうが大事だろ」
「……えへへ」
ひまりは嬉しくなって、はるとの手をもう一度ぎゅっと握った。
*
家に着くと、はるとはひまりのお母さんに事情を説明した。
手をきれいに洗ってもらい、傷を確認してもらうと、大きなけがではなさそうだった。
「よかったな、ひまり」
はるとがほっとした顔をする。
「うん!」
「でも、重いものを一人で持とうとするなよ。危ないからな」
「はーい!」
元気よく返事をしたひまりは、少し考えてから、はるとの袖をちょんちょんと引っ張った。
「はるとお兄ちゃん」
「どうした?」
「ひまりね、ころんだとき、ちょっとだけ、こわかったの」
はるとは、ひまりの目線に合わせてしゃがんだ。
「そっか。痛かったし、びっくりしたよな」
「うん……」
「でも、もう大丈夫。何かあったら、近くの大人にちゃんと言うんだぞ。俺がいないときもな」
「……うん!」
ひまりはにっこり笑った。
はるとが頭をなでてくれたので、もっと嬉しくなった。
その手の感触が、なんだかとても懐かしい気がした。
でも、ひまりには、それをうまく言葉にできなかった。
ただ、はるとお兄ちゃんのそばにいると、安心する。
それだけは、ちゃんとわかっていた。
*
夕方、雨がやんだ。
帰ろうとしたはるとを、ひまりは玄関まで追いかけた。
「はるとお兄ちゃん!」
「ん? どうした?」
「これ、あげる!」
ひまりが差し出したのは、昼間に集めたひまわりの種が入った、小さな袋だった。
「えっ、いいのか?」
「うん! はるとお兄ちゃんのぶん!」
「来年植えるための種だろ?」
「だからね、はるとお兄ちゃんのもいるの!」
ひまりは得意げに胸を張った。
「ひまりのおうちにも植えるでしょ? はるとお兄ちゃんのおうちにも植えたら、ひまわりさん、いっぱいになるよ!」
「……そうだな」
はるとは袋を受け取った。
「ありがとう。大事にするよ」
「ぜったいだよ!」
「ああ、約束」
はるとは小指を差し出した。
ひまりは自分の小指を絡めると、楽しそうに歌い始めた。
「ゆーびきーりげんまん、うそついたら……」
最後まで歌い終えると、ひまりは満足そうにうなずいた。
「これで、おやくそく!」
「おう。じゃあ、また明日な」
「うん! また明日!」
はるとが隣の家へ帰っていく。
ひまりは玄関先で、見えなくなるまで手を振っていた。
その夜。
はるとは机の上に、ひまりからもらった種の袋を置いた。
袋には、ひまりの丸い字で、こう書いてあった。
『はるとお兄ちゃんへ』
それだけの、小さな手紙。
けれど、はるとは何度もそれを見て、ふっと笑った。
ミケがいなくなってから、雨の日は少し苦手だった。
あの日のことを思い出すから。
けれど最近は、雨が降ると、ひまりが転んでいないか、ちゃんと傘をさしているか、そんなことを考えるようになっていた。
「……俺、心配性になったかな」
はるとは苦笑した。
そして、種の袋を引き出しの中に大切にしまった。
来年の春。
ひまりといっしょに、また種を植えるために。
そのころ、ひまりは自分のベッドの中で、猫の形をしたキーホルダーをぎゅっと抱きしめていた。
「はるとお兄ちゃん……」
小さく名前を呼んで、にこにこする。
明日も、いっしょに遊べるかな。
明日も、笑ってくれるかな。
ひまりはそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、雨のしずくが、ぽたり、ぽたりと落ちていた。
そして庭のひまわりは、静かに来年の春を待っていた。




