ミケが残してくれたもの
夏休みも終わりに近づいた、ある日のこと。
ひまりは、庭のひまわりを眺めていた。
大きく咲いていた花は、少しずつ元気をなくし、黄色い花びらも落ち始めている。
「お花さん、もうおしまいなの?」
ひまりが尋ねると、隣で水やりをしていたはるとが笑った。
「夏が終わるからな。でも、種ができたら来年も植えられるぞ」
「ほんと!?」
「おう。今度はもっといっぱい咲かせようぜ」
「やったあ!」
ひまりは、両手をぱっと広げた。
来年も、その次の年も、はるとと一緒にお花を育てられる。
そう考えるだけで、嬉しくなった。
「じゃあ、ひまり、種をいっぱい集める!」
「まだ種ができるまで時間がかかるけどな」
「じゃあ、待つ!」
はるとは、楽しそうに笑った。
「ひまりは、待つの得意だもんな」
「うん! おやつも待てるよ!」
「それは、すぐ食べたがるだろ」
「えへへ!」
二人の笑い声が、庭に響いた。
*
その日の午後、はるとは自分の部屋を片づけていた。
来週から学校が始まるので、夏休みの宿題や教科書を整理しているのだ。
机の引き出しを開けると、奥から一冊の小さなノートが出てきた。
「あれ、なんだこれ」
表紙には、幼い字で『ミケのこと』と書いてある。
はるとは、しばらくその文字を眺めたあと、ゆっくりページを開いた。
そこには、昔の出来事が書かれていた。
『きょう、ミケにあえた』
『ミケがごはんをたべてくれた』
『あめがふったから、ダンボールをおいてあげた』
ページをめくるたびに、当時のことが思い出される。
そして、一番最後のページ。
そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。
『ミケが、しんじゃった』
はるとは、そっとノートを閉じた。
あの日から、もう何年もたっている。
それなのに、最後に見たミケの姿は、今でも忘れられなかった。
もっと何かできたんじゃないか。
もっと早く気づいていたら、助けられたんじゃないか。
そんなことを、何度も考えた。
「……はあ」
小さく息を吐いたとき、窓の外から声がした。
「はるとお兄ちゃーん!」
顔を上げると、ひまりが庭から手を振っていた。
「どうしたー?」
「おやつ食べよう!」
「お前、またおやつかよ!」
「だって、お母さんがクッキー焼いてくれたんだもん!」
ひまりは、両手で小さなお皿を持っていた。
はるとは思わず笑ってしまった。
「わかった。今行く!」
ノートを引き出しにしまい、部屋を出た。
*
庭に出ると、ひまりがクッキーを一枚差し出してきた。
「はい! はるとお兄ちゃんの分!」
「ありがとな」
はるとは受け取って、ひと口かじった。
「うまい!」
「でしょ!」
ひまりは得意げに胸を張った。
二人でクッキーを食べていると、ひまりがふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、はるとお兄ちゃん」
「ん?」
「ミケちゃんって、どんな猫だったの?」
はるとの手が、ぴたりと止まった。
「……ミケ?」
「うん! 前に写真を見せてくれたでしょ?」
「ああ、そっか」
はるとは、少し考えてから話し始めた。
「三毛猫で、ちょっと怖がりだったんだ。でも、慣れると近くに来てくれてさ。ご飯を食べてるときの顔が、すごくかわいかった」
「へえー!」
「雨の日に段ボールを置いてやったら、ちゃんと中に入ってくれたんだ。次の日、見に行ったら、まだそこにいてさ」
はるとは懐かしそうに笑った。
「俺、あのとき、すごく嬉しかったんだよな」
ひまりは、クッキーを両手で持ちながら聞いていた。
「ミケちゃん、はるとお兄ちゃんのこと、大好きだったんだね!」
「そうだったら、嬉しいな」
はるとは空を見上げた。
「俺、あいつに何かしてあげられたのかなって、ずっと考えてたんだ」
「してあげたよ!」
ひまりが、すぐに答えた。
はるとは驚いて、ひまりを見た。
「だって、ご飯をあげたんでしょ? 寒くないようにしてあげたんでしょ?」
「……うん」
「それって、すっごく嬉しいことだよ!」
ひまりは、にっこり笑った。
「ひまりだったら、すっごく嬉しいもん!」
はるとは、しばらく黙っていた。
それから、優しくひまりの頭をなでた。
「……そっか。ありがとな、ひまり」
「えへへ!」
ひまりは、嬉しそうに笑った。
*
数日後。
ひまりは、はるとの家に遊びに来ていた。
はるとのお母さんが、昔の写真をアルバムにまとめているところだった。
「あら、ひまりちゃん。ちょうどいいところに来たわね」
「なあに?」
「はるとの小さい頃の写真、見ていく?」
「見る!」
ひまりは、目を輝かせた。
アルバムには、幼いはるとの写真がたくさん並んでいた。
公園で遊んでいる写真。
入学式の写真。
ケーキを食べている写真。
「わあ! はるとお兄ちゃん、ちっちゃい!」
「でしょう? 昔はもっと甘えん坊だったのよ」
「えーっ!」
ひまりは、楽しそうに笑った。
ページをめくると、あの三毛猫を抱いている写真があった。
「ミケちゃん!」
ひまりが声を上げると、はるとのお母さんは優しく微笑んだ。
「はるとね、この猫ちゃんのこと、本当にかわいがっていたのよ」
「うん!」
「いなくなってしまったときは、ずいぶん悲しんでね。でも、あの子が優しい子に育ったのは、この猫ちゃんとの出会いもあったのかもしれないわね」
ひまりは、写真をじっと見つめた。
はるとは、今でもあの頃と同じだ。
困っている猫を見つけたら、助けようとする。
悲しそうな人がいたら、そっと声をかける。
そして、自分がしてあげたことを、決して自慢しない。
ひまりは、にっこりと笑った。
「はるとお兄ちゃん、優しいもん!」
「ふふっ、そうね」
*
その夜。
ひまりは、自分の部屋で猫のキーホルダーを手に取った。
はるとがくれた、大切な宝物。
昔のミケと、今のひまり。
二つの人生は、別々のもののようで、ちゃんとつながっている。
けれど、ひまりはまだ、自分がミケだったことを誰にも話していなかった。
話したら、はるとはびっくりするだろうか。
信じてくれるだろうか。
それとも、困った顔をするだろうか。
ひまりには、まだわからなかった。
だから今は、いつも通りでいい。
「はるとお兄ちゃん、明日も遊ぼうね」
キーホルダーにそう話しかけて、ひまりは布団に入った。
窓の外では、夏の終わりの風が吹いていた。
来年も、ひまわりを植えよう。
もっとたくさん、咲かせよう。
そして、いつか。
はるとに、ちゃんと伝えられたらいいな。
あの日、助けてくれてありがとう。
ずっと覚えていてくれて、ありがとう。
ひまりは、そんなことを考えながら、静かに眠りについた。




