はるとの、小さい涙
夏休みが始まった。
ひまりは毎朝、ラジオ体操に行き、朝ご飯を食べ、宿題を少しだけ進める。
そして、宿題が終わると決まってお隣の家へ向かった。
「はるとお兄ちゃーん!」
「はいはい、聞こえてるよ」
玄関から顔を出したはるとは、いつものように笑っていた。
「今日は何して遊ぶ?」
「んーとね、虫取り!」
「虫取りか。いいぞ。でも、暑いから水筒持ってこいよ」
「はーい!」
ひまりは元気よく返事をすると、家へ駆け戻った。
はるとは、そんな後ろ姿を見ながら小さく笑った。
「ほんと、元気だなあ」
*
二人が向かったのは、家から少し歩いたところにある小さな公園だった。
木々がたくさんあって、夏になるとセミの声が響き渡る。
「はるとお兄ちゃん、あそこ!」
ひまりが指さした先には、木の幹にとまったセミがいた。
「お、いるな」
「捕まえていい?」
「いいけど、そっとな。セミもびっくりするから」
ひまりは虫かごを持って、そろそろと近づいた。
けれど、あと少しというところで、セミが飛び立ってしまった。
「あーっ! 飛んでっちゃった!」
「惜しかったなあ」
「もう一回!」
ひまりは走り出した。
はるとは笑いながら、その後を追いかけた。
結局、二人はセミを三匹捕まえた。
帰り道、ひまりは虫かごを大切そうに抱えていた。
「おうちに帰ったら、お母さんに見せるの!」
「おう。見せたら、ちゃんと逃がしてやろうな」
「うん!」
ひまりは、にこにこと笑った。
*
家に帰ると、はるとのお母さんが玄関先に立っていた。
「はると、おかえり。ちょっとお話があるんだけど」
「ん? なに?」
「部活のことでね……」
お母さんは、少し困ったような顔をしていた。
どうやら、はるとは来月、部活の大会に出るため、しばらく練習が忙しくなるらしい。
「夏休みの間、練習が増えるから、朝も早くなるわよ」
「うん、わかった」
はるとは、いつも通りに返事をした。
でも、ひまりは少しだけ寂しくなった。
夏休みなのに、はるとお兄ちゃんと遊べなくなっちゃうのかな。
そう思ったけれど、ひまりはすぐに笑顔になった。
「はるとお兄ちゃん、部活頑張ってね!」
はるとは、少し驚いたようにひまりを見た。
「おう。ありがとな」
「ひまり、応援する!」
「じゃあ、頑張らないとな」
はるとは、ひまりの頭を優しくなでた。
*
それから数日がたった。
はるとは朝早くから部活へ行き、夕方遅くに帰ってくるようになった。
ひまりは毎日、庭で顔を合わせるのを楽しみにしていた。
けれど、はるとは疲れていることが多く、以前のように長く遊ぶことはできなかった。
「はるとお兄ちゃん、今日ね、アサガオが咲いたの!」
「おお、よかったな」
「あとね、宿題も半分終わったよ!」
「えらいじゃん。残りも頑張れよ」
「うん!」
はるとは笑ってくれる。
でも、その笑顔が少し疲れていることに、ひまりは気づいていた。
ある日の夕方。
ひまりが庭で遊んでいると、隣の家から物音が聞こえた。
そっとのぞいてみると、はるとが玄関先に座っていた。
膝を抱えて、うつむいている。
「……はるとお兄ちゃん?」
ひまりが声をかけると、はるとは慌てて顔を上げた。
「あ、ひまり。どうした?」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
はるとは笑った。
でも、いつもの笑顔とは少し違った。
ひまりは、はるとの隣にちょこんと座った。
「……疲れちゃった?」
「まあ、ちょっとな」
「そっかあ」
ひまりは、しばらく考えた。
そして、自分の水筒を差し出した。
「お茶、飲む?」
「ははっ、ありがとな。でも、ひまりのだろ?」
「まだいっぱい入ってるよ!」
はるとは小さく笑って、水筒を受け取った。
「じゃあ、一口だけな」
お茶を飲み終えると、はるとは水筒を返してくれた。
「ありがと。ちょっと元気出た」
「ほんと?」
「ほんと」
ひまりは、嬉しそうに笑った。
*
しばらくすると、はるとがぽつりと言った。
「俺さ、最近、部活で失敗ばっかりなんだよな」
「しっぱい?」
「うん。練習しても、うまくできないことがあってさ。みんなはできてるのに、俺だけできないときがあるんだ」
はるとは、膝の上で手を握った。
「もっと頑張らなきゃって思うんだけど、頑張ってもうまくいかないと、ちょっと嫌になる」
ひまりは、じっと聞いていた。
難しいことはよくわからなかった。
でも、はるとが悲しそうなのはわかった。
「……はるとお兄ちゃん」
「ん?」
「ひまり、はるとお兄ちゃんが頑張ってるの、知ってるよ」
はるとは顔を上げた。
「毎日、朝早く起きてるもん。帰ってきたら、すっごく疲れてるもん」
ひまりは、指を一本ずつ折りながら話した。
「それでも、ひまりにお話ししてくれるでしょ? だからね、すごいなあって思ってるの!」
はるとは、何も言わなかった。
ひまりは、にこっと笑った。
「失敗しても、また頑張ればいいんだよね?」
「……そうだな」
「じゃあ、ひまりも応援する!」
ひまりは、両手をぎゅっと握った。
「はるとお兄ちゃん、がんばれー!」
夕暮れの庭に、元気な声が響いた。
はるとは一瞬きょとんとしたあと、吹き出すように笑った。
「ははっ! ありがとな、ひまり」
そして、目元を手でこすった。
「……なんか、泣きそうになったわ」
「えっ! どこか痛いの!?」
「違う違う!」
はるとは慌てて首を振った。
「嬉しかったんだよ」
「そっかあ!」
ひまりは安心して、にっこり笑った。
*
その日の夜。
ひまりは、枕元に置いた猫のキーホルダーを手に取った。
「ねえ、ミケちゃん」
小さな声で話しかける。
「はるとお兄ちゃん、今日はちょっと元気なかったんだよ」
キーホルダーは、もちろん何も答えない。
「でもね、最後は笑ってくれたの!」
ひまりは、嬉しそうに笑った。
「明日も、はるとお兄ちゃんが笑ってくれるといいなあ」
そう言って、キーホルダーをそっと枕元に戻した。
窓の外では、夏の虫たちが鳴いていた。
ひまりは目を閉じた。
明日もきっと、いい日になる。
そう思いながら、ゆっくり眠りについた。
そして翌朝。
はるとの部屋の窓辺には、小さな紙が貼られていた。
そこには、少し不格好な文字で、こう書かれていた。
『はるとお兄ちゃん、がんばれ! ひまりより』
それを見つけたはるとは、しばらく紙を眺めていた。
やがて、ふっと笑った。
「……よし。今日も頑張るか」
窓の向こうでは、ひまりが庭から手を振っていた。
はるとも手を振り返した。
二人の間には、まだ誰にも話していない秘密がある。
けれど今は、それを知らなくてもいい。
ただ隣にいて、笑い合える。
それが二人にとって、何より大切なことだった。




