第5話「甘い匂いと氷の瞳」
◆ルシアン視点
ルシアン・オズワルドの朝は、常に執務室の冷たい空気とともに始まる。
広大な北の辺境領地を治める公爵としての責務は重く、山のように積まれた書類の処理に追われる日々が続いていた。
領民を厳しい冬の飢えから守り、隣国からの脅威に備えるためには、感情を押し殺して冷徹な判断を下し続けなければならない。
いつしか人々は彼を冷酷無比なαと呼び、恐れるようになったが、ルシアン自身はその評価を否定しようとは思わなかった。
恐怖で統率が取れるのであれば、それに越したことはないからだ。
彼にとって、王都から押し付けられた政略結婚の相手なども、政治的な駒の一つにすぎなかった。
リュミエール伯爵家から送られてきたというΩの顔すら、ルシアンはまだ見ていない。
どうせ華美な生活に慣れきった、雪国の厳しさなど理解できない軟弱な貴族だろうと決めつけていた。
適当な部屋を与え、衣食住の保障さえしておけば、そのうち泣き言を言って勝手に実家へ帰るだろう。
そう考えて、ルシアンは意図的に新しい伴侶を放置し続けていた。
羽ペンをインク壺に浸し、羊皮紙に素早い動きで署名を書き込んでいく。
カリカリという硬い摩擦音だけが、静寂に包まれた執務室に響き渡っていた。
その時、ルシアンの手がふと止まった。
『……なんだ、この匂いは』
重厚な扉の隙間から、微かに、だがはっきりと、何かを煮込むような甘く香ばしい匂いが漂ってきたのだ。
それは、城の料理長が作るような洗練された香辛料の香りではなく、もっと素朴で、土と火の温もりを感じさせる匂いだった。
根菜の甘みと、肉の脂がとろけるような匂いが、冷え切った執務室の空気を縫うようにしてルシアンの鼻腔をくすぐる。
ルシアンは無意識のうちに喉を鳴らし、唾液を飲み込んでいた。
こんな早朝から、厨房が動いているはずはない。
それに、この匂いはルシアンの記憶の奥底にある、遠い昔の温かい食卓の記憶を奇妙なほど強く揺さぶった。
ルシアンはペンを置き、椅子から立ち上がって執務室の扉を開けた。
冷たい石の回廊に出ると、匂いはさらに強く、はっきりとした輪郭を持ってルシアンを誘い込むように漂ってくる。
足音を殺し、匂いの源泉を辿って薄暗い階段を下りていく。
地下の厨房へと続くアーチ状の入り口に近づくにつれて、パチパチという薪が爆ぜる音と、コトコトと鍋が煮立つ音が聞こえてきた。
入り口の影に身を潜め、ルシアンは厨房の中の様子をそっと窺う。
そこで彼が目にした光景は、ルシアンの予想をはるかに超える信じがたいものだった。
竈の前の床に座り込んでいるのは、見慣れない小柄な人影だ。
質素な衣服を身に纏い、細い背中を丸めて小さな鍋の中身を木べらで熱心に掻き混ぜている。
そしてその人物のすぐ隣には、ルシアンがよく知る巨大な白い獣が、まるで忠実な飼い犬のように寄り添って伏せていた。
『ブラン……? なぜあいつがここにいる』
北の森に住む聖なる白狼であるブランは、警戒心が異常に強く、人間に懐くことなど絶対にあり得ない誇り高い獣だ。
ルシアン自身、幼い頃から何度か森で姿を見かけたことはあるが、一定の距離以上近づくことは決して許されなかった。
そのブランが、見ず知らずの人間のそばで無防備に腹を見せ、目を細めてくつろいでいる。
よく見れば、ブランの腹部には不格好な布が巻かれており、怪我の手当てを受けた痕跡があった。
小柄な人物は鍋から目を離し、ブランの頭を優しく撫でる。
ブランはその手に擦り寄るように鼻先を押し付け、嬉しそうに喉を鳴らした。
ルシアンは呆然としたまま、その信じられない光景から目を離すことができなかった。
立ち上る湯気越しに見えるその人物の横顔は、青白く痩せこけてはいるものの、どこか柔らかで温かい光を帯びている。
あの人物が、王都からやってきたというシエル・リュミエールなのだろうか。
贅沢を好む貴族が、こんな地下の薄暗い厨房で、自らの手を汚して火を扱い、得体の知れない獣の看病をしているというのか。
ルシアンの中で、シエルに対して抱いていた偏見が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
しばらくの間、ルシアンは彫像のように立ち尽くし、ただその静かで温かい光景を見つめ続けていた。
だが、ふとした瞬間にルシアンの軍靴が石畳を微かに擦り、硬い音を立ててしまう。
そのわずかな音に、厨房にいた人物の肩がびくっと跳ね上がった。
ゆっくりと振り返ったその顔には、明らかな恐怖と緊張が張り付いている。
大きな瞳が怯えたように揺れ動き、血の気の引いた唇が小刻みに震えていた。
「だ、誰か……いるのですか……?」
細く、消え入りそうな声が厨房に響く。
ルシアンは影から一歩足を踏み出し、竈の火明かりの中に自らの姿を現した。
黒の軍服に身を包んだ長身のαの姿を見て、シエルの顔からさらに血の気が引いていくのがわかった。
ブランが素早く立ち上がり、シエルを庇うようにルシアンとの間に割って入り、低い唸り声を上げる。
ルシアンはブランの警戒を解くように両手を軽く上げ、ゆっくりと、威圧感を与えないように言葉を紡いだ。
「驚かせてすまない。……私は、ルシアン・オズワルドだ」
その名を名乗った瞬間、シエルの手から木べらが滑り落ち、石の床に乾いた音を立てて転がった。
シエルは床に膝をついたまま、まるで死神を前にしたかのように、恐怖で全身を激しく震わせていた。




