第6話「不器用な分け合い」
ルシアンが名乗った瞬間、厨房の空気は文字通り凍りついたように重くなった。
シエルの瞳孔は極限まで見開き、呼吸は浅く速くなり、肩が小刻みに上下している。
勝手に厨房の食材を使い、火を起こし、あろうことか野生の獣を城内に引き入れているのだ。
冷酷と恐れられる公爵に見つかった以上、どんな恐ろしい罰を受けるかわからない。
シエルは床に転がった木べらを拾うことすらできず、ただ両手を胸の前で固く握りしめ、首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つように目を閉じた。
『怒られる。打たれる。……追い出されるかもしれない』
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされ、耳の奥で血液が逆流するような轟音が響いている。
シエルを背後から庇うように立つブランだけが、油断なく金色の瞳でルシアンを睨みつけていた。
ルシアンはシエルの異常なまでの怯えように、内心でひどく戸惑っていた。
自分が恐れられていることは自覚していたが、まるで虐待を受けてきた動物のようなその反応は、ただの噂を信じ込んだだけの怯え方とは思えなかったからだ。
ルシアンは歩み寄るのをやめ、シエルから一定の距離を保ったまま、静かな声で問いかけた。
「……罰を与えに来たわけではない。顔を上げてくれないか」
できるだけ穏やかな声を出したつもりだったが、長年軍隊で張り上げてきた低い声は、どうやっても威圧感を拭い切れない。
シエルは恐る恐る薄く目を開け、視線を床に向けたまま、震える声で言葉を絞り出した。
「も、申し訳ありません……。勝手に、食材を……その、お腹が空いてしまって……」
「謝る必要はない。この城のものはすべて、君のものと同義だ」
ルシアンの言葉に、シエルは信じられないものを見るように、初めてルシアンの顔を真っ直ぐに見上げた。
冷酷無比と噂される男の顔には、怒りや軽蔑の色はなく、ただ不器用な困惑だけが浮かんでいるように見えた。
ルシアンはシエルから視線を外し、コトコトと音を立て続けている鍋へと目を向ける。
「それよりも……その鍋の中身は、君が作ったのか?」
ルシアンの問いに、シエルはびくっと肩を揺らし、慌てて背後の鍋を振り返った。
火にかけたままになっていたスープが、焦げる寸前で煮立っている。
シエルは急いで火から鍋を下ろし、熱を逃がすように木べらで大きくかき混ぜた。
「は、はい……。ただの、野菜の切れ端と少しの肉を煮込んだだけの、粗末なものです……」
「……ひどく、良い匂いがする」
ルシアンの口からこぼれた思いがけない称賛の言葉に、シエルは目を丸くして動きを止めた。
ルシアン自身、自分が何を言っているのかわからないというように、気まずそうに視線を泳がせている。
シエルの心の中にあった恐怖が、ほんの少しだけ、好奇心と料理人としての喜びに塗り替えられていく。
自分の作った料理に興味を持ってもらえた。
その事実が、シエルの恐怖で固まっていた手足をかすかに動かした。
「あの……もし、よろしければ……毒見は、私が先にしておりますので……」
シエルは棚から清潔な木の器を取り出し、鍋から熱々のスープをたっぷりとよそった。
立ち上る湯気が、シエルの顔を優しく隠してくれる。
おずおずと差し出された器を、ルシアンは無言のまま大きな両手で受け取った。
剣だこや無数の小さな傷跡が刻まれた分厚い掌が、器の表面を包み込む。
ルシアンは器に顔を近づけ、鼻腔いっぱいにその温かい匂いを吸い込んだ。
それから、木のスプーンで一口分をすくい、ゆっくりと口に運ぶ。
シエルは息を殺し、ルシアンの表情のわずかな変化も見逃さないように見つめ続けた。
スープが喉を通った瞬間、ルシアンの険しかった眉間が、魔法が解けたようにふっと緩んだ。
宮廷の料理人が作るような、複雑な香辛料や高級な食材の味は一切しない。
ただ、野菜の持つ甘みが極限まで引き出され、肉の旨味と塩気がそれを完璧に下支えしている。
冷え切った内臓の隅々にまで、染み渡るような優しい熱が広がっていく。
それは、ルシアンがずっと探し求めていた、飾らない本当の温かさだった。
「……美味い」
低く、地を這うような呟きだったが、その言葉には嘘偽りのない実感がこもっていた。
ルシアンは二口、三口と、止まることなくスープを喉の奥へ流し込んでいく。
あっという間に器を空にしたルシアンは、底に残った最後の一滴まですくい取り、満足そうに深い息を吐き出した。
その姿は、先ほどまでシエルが恐れていた冷徹な公爵とはまるで別人だった。
むしろ、美味しい食べ物を前にして無心になる、無邪気な子供のようにも見える。
シエルの胸の奥で、張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れ、代わりに温かい感情がじわじわと広がっていった。
この人は、怖い人ではないのかもしれない。
不器用で、言葉が足りないだけで、本当は動物や温かいものを愛する心を持っているのではないか。
ルシアンは空になった器をシエルに返し、少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……すまない。君の食事を奪ってしまったな」
「いえ……お粗末なものでしたが、お口に合ったなら、嬉しいです」
シエルが自然な笑みを浮かべて答えると、ルシアンの瞳がわずかに見開かれ、そして静かに伏せられた。
二人の間にあった分厚い氷の壁が、鍋から立ち上る湯気とともに、ほんの1ミリだけ溶け落ちた瞬間だった。
ブランは危険が去ったことを察したのか、シエルの足元に再び伏せ、満足そうに目を閉じて深い寝息を立て始めた。




