第4話「雪解けの朝と白銀の毛並み」
石造りの床から這い上がってくる冷気が、薄い靴底を通り抜けて足の裏をちくちくと刺している。
厨房の小さな窓から差し込む光は、嵐が過ぎ去ったことを告げるように、昨日よりもわずかに明るい白さを帯びていた。
シエルは竈の前に敷いた古い毛布の上に座り込み、両膝を抱えたまま静かに目を覚ました。
夜通し巨大な獣の看病を続けていたせいで、いつの間にか壁に寄りかかったまま眠りに落ちていたらしい。
首筋に走る鈍い痛みを感じながらゆっくりと視線を落とすと、そこには純白の毛皮を持つ美しい獣が、穏やかな寝息を立てて横たわっていた。
外の吹雪は完全に止んでおり、分厚い石壁の向こうからは風の唸り声すら聞こえてこない。
圧倒的な静寂の中、獣の規則正しい呼吸の音だけが、厨房の冷たい空気を微かに震わせていた。
『生きて、くれている』
シエルは胸の奥で安堵の言葉をつぶやきながら、そっと手を伸ばして獣の太い首元に触れる。
昨日触れた時は氷のように冷たかった毛皮の奥から、今は確かな生命の熱がシエルの掌へと伝わってきた。
裂いたシャツで作った即席の包帯も、新しい血で赤く染まっている様子はない。
獣の体温を感じていると、シエル自身の冷え切っていた指先にも少しずつ血の巡りが戻ってくるような気がした。
実家にいた頃、シエルは誰からも必要とされず、ただ厨房の隅で息を潜めて生きるだけの存在だった。
役に立たないΩだと蔑まれ、家族の視界に入ることすら許されなかった日々。
しかし今、この見知らぬ巨大な獣は、シエルの与えた手当てと温かい食事によって命を繋ぎ止めている。
自分が誰かの役に立てたという事実が、シエルの胸の奥に小さな、けれど確かな灯りをともしていた。
不意に、掌の下にあった巨大な筋肉がピクリと動き、獣がゆっくりと琥珀色の瞳を開いた。
透き通るような美しい金色の瞳が、まっすぐにシエルの顔を見つめている。
シエルは驚いて手を引っ込めようとしたが、それよりも早く、獣のざらついた長い舌がシエルの手の甲をひと舐めした。
温かく湿った感触に、シエルの肩がびくっと跳ねる。
獣は敵意など微塵も感じさせない穏やかな表情で、もう一度、今度はシエルの指先を愛おしむようにそっと舐め上げた。
「……おはようございます」
シエルは緊張で強張っていた頬を緩め、獣に向かって小さな声で語りかける。
獣はシエルの声に応えるように、喉の奥をゴロゴロと鳴らして短く鳴いた。
その鳴き声は、強大な外見からは想像もつかないほど甘く、まるで母親に甘える幼い子供のようだった。
シエルは獣の頭に両手を添え、ふかふかとした厚い毛並みを指の腹で丁寧に梳いていく。
雪と泥で汚れていた毛先も、撫でているうちに少しずつ本来の純白の輝きを取り戻していく。
手触りは最高級の絹よりも滑らかで、どれほど撫でても飽きることがなかった。
「お腹が、空きましたか」
シエルの問いかけに、獣は金色の瞳を細めて尻尾を床に一度だけ打ち付けた。
シエルは立ち上がり、昨日使ったままになっていた食材の貯蔵庫へと向かう。
怪我をしている獣には、昨日よりも消化が良く、滋養のあるものが必要だ。
木箱の中から白く丸い根菜をいくつか選び出し、冷たい水で丁寧に泥を洗い流していく。
使い慣れたナイフを握り、その皮を薄く剥いていく作業は、シエルにとって心を落ち着かせる大切な儀式だった。
刃先が小気味よい音を立てて野菜を細かく刻んでいく。
怪我をした胃腸に負担をかけないよう、野菜は限界まで細かくみじん切りにした。
次に、塩漬けの肉の中でも比較的脂の少ない部分を選び、これも同じように細かく叩いていく。
竈に新しい薪をくべ、火打石で火を起こすと、小さな炎がすぐに勢いよく燃え上がった。
鉄の鍋に水を張り、刻んだ野菜と肉を入れてじっくりと火にかけていく。
時間が経つにつれて、鍋の中の湯が白く濁り始め、肉の旨味と野菜の甘みが溶け出した優しい匂いが厨房を満たしていった。
鍋の底から小さな気泡が浮き上がり、表面で弾けるたびに、温かな湯気がシエルの顔を包み込む。
シエルは木べらで鍋の中をゆっくりと掻き混ぜながら、背後にいる獣の様子をちらりと振り返る。
獣は床に伏せたまま、鍋から漂う匂いに鼻先をひくひくと動かしていた。
『この子の名前、どうしよう』
シエルは鍋の火加減を調整しながら、ふとそんなことを考える。
これほど美しく、気高い獣にふさわしい名前。
窓の外に広がる雪景色と、獣の汚れを知らない純白の毛並みを思い浮かべ、シエルは小さく唇を動かした。
「……ブラン」
シエルがその言葉を口にした瞬間、獣が耳をぴんと立ててこちらを見た。
自分の呼ばれた名前を理解しているかのような、賢しげな反応だった。
「あなたの名前は、ブランです」
シエルがもう一度はっきりと告げると、ブランと呼ばれた巨大な白い獣は、満足そうに喉を鳴らして目を閉じた。
鍋の中で野菜が完全に形を失い、とろとろの粥状になったところで、シエルは火を止める。
少し冷ましてから木のボウルにたっぷりと注ぎ、ブランの鼻先へと運んだ。
ブランは待ちきれない様子で身を起こし、ボウルに顔を突っ込んで勢いよく食べ始める。
咀嚼する音と、温かい湯気が立つ厨房の光景。
シエルはブランが食事をする姿を眺めながら、この冷酷な北の城で初めて、心の底からの平穏を感じていた。
誰かのために料理を作り、それを喜んで食べてもらえること。
ただそれだけのことが、シエルの凍てついていた心をこれほどまでに温かく溶かしていくとは思わなかった。
シエルは自分の分も小さな器によそい、ブランの隣に座って温かい粥を口に運ぶ。
塩と素材の味だけの素朴な粥が、シエルの身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていった。




