第3話「吹雪の夜の白い客」
シエルが真夜中の厨房に通うようになってから、数日の時が経過していた。
昼間は相変わらず誰とも顔を合わせず、冷たい部屋で沈黙の時間を過ごす日々が続いている。
夫であるルシアンは一度として寝室に姿を見せることはなく、シエルの存在は城の中で完全に忘れ去られているかのようだった。
それでもシエルが絶望せずにいられるのは、夜になれば厨房という自分だけの聖域で、温かい料理を作ることができるからだ。
その日の夜は、昼間から降り続いていた雪が猛烈な吹雪へと変わり、視界を完全に白く塗り潰していた。
狂ったような風が城の分厚い石壁を打ち据え、獣の遠吠えにも似た不気味な音を立てて建物を揺らしている。
地下にある厨房にまでその振動と風切り音が響いてくるほど、外の天候は荒れ狂っていた。
『こんな夜は、根菜を長く煮込んだとろみのあるシチューがいい』
シエルは竈の前に立ち、大きな鉄鍋の中で豚の塩漬け肉と大きく切った野菜を炒めていた。
豚肉から溶け出した脂が鍋肌で弾け、香ばしい匂いが立ち上る。
そこに小麦粉を振り入れて粉っぽさが消えるまで炒め、水を加えてじっくりと煮込んでいく。
火の加減を調整し、鍋の底が焦げないように一定のリズムで木べらを動かす。
炎の熱と鍋から立ち上る湯気のおかげで、シエルの額には微かに汗が滲んでいた。
冷え切った北の城にいることを忘れさせてくれる、この温かく穏やかな時間がシエルは好きだった。
鍋の中の汁が煮詰まり、とろりとした黄金色に変わってきた頃。
重厚な木の扉を外から叩きつけるような、鈍く重い衝撃音が厨房に響き渡った。
風が物を吹き飛ばして壁にぶつかった音とは明らかに違う、意思を持った質量の衝突音だ。
シエルは木べらを動かす手を止め、音のした方角、厨房の裏口へと視線を向ける。
裏口の扉は食材を運び込むためのもので、外の吹雪と直接繋がっている場所だ。
再び、扉が重々しく揺れる。
扉の隙間からは、外の凍てつく冷気が白い靄となって床を這うように入り込んできていた。
普通であれば、このような吹雪の夜に正体不明の訪問者を迎え入れることなど恐ろしくてできないだろう。
しかし、シエルの心を満たしたのは恐怖ではなく、外の過酷な寒さに対する強い同情だった。
誰かが凍え死にそうになっているのかもしれない。
迷うことなく扉に駆け寄り、重い鉄の閂を引き抜いて外側へ向かって力を込めて押し開く。
途端に、息ができないほどの猛烈な吹雪が鋭い氷の粒を伴って厨房内へとなだれ込んできた。
シエルは腕で顔を庇いながら目を細め、吹雪の向こう側の暗闇に目を凝らす。
そこに倒れ込んでいたのは、人間ではなかった。
雪と見紛うほどの美しい純白の毛並みを持った、見上げるほどに巨大な獣だ。
鋭い牙と力強い四肢を持ったその姿は、絵本でしか見たことのない狼のそれに近いが、体格は熊よりもはるかに大きい。
獣は苦しそうに荒い息を吐いており、腹部のあたりから流れ出した鮮血が、周囲の雪を痛々しい赤色に染め上げていた。
『怪我をしている……!』
シエルは恐怖を感じる暇もなく、雪の中に身を投げ出すようにして巨大な獣のそばに駆け寄った。
分厚い毛皮に手を触れると、表面は雪と氷で凍りついているものの、奥からは確かに生き物の力強い熱が伝わってくる。
獣はシエルの気配に気づき、琥珀色の鋭い瞳を開いて警戒するような低い唸り声を上げた。
しかし、抵抗する力すら残っていないのか、その頭はすぐに雪の上へと力なく落ちてしまう。
シエルは獣の巨体を一人で動かすことができないと判断し、とにかくこの場で出血を止めることを優先した。
自分が着ている高級な麻のシャツの裾を遠慮なく引き裂き、即席の長い布の帯を作る。
痛みに顔をしかめる獣を落ち着かせるように、シエルはその太い首元を優しく撫で続けた。
「大丈夫です。もう大丈夫ですよ」
言葉が通じるわけではないとわかっていても、シエルは穏やかな声で語りかけながら、裂いた布で獣の腹部の傷口を強く縛り上げる。
実家で使用人たちが怪我をした際、医者を呼んでもらえずにシエルが見よう見まねで手当てをしていた経験が、こんなところで役立つとは思わなかった。
出血が止まったことを確認すると、シエルは急いで厨房へと戻り、火から下ろしたばかりのシチューを大きめの木のボウルにたっぷりと注ぐ。
吹雪の中へ戻り、湯気を立てるボウルを獣の鼻先にそっと置いた。
肉と野菜の濃厚な匂いが冷たい空気に乗って獣の鼻腔をくすぐる。
獣は何度か鼻先を動かした後、ゆっくりと首を持ち上げ、ボウルの中身にざらついた長い舌を伸ばした。
無心で咀嚼を繰り返し、温かいシチューを飲み込んでいく獣の姿を見て、シエルは安堵から深く息を吐き出す。
冷え切っていた獣の体が、内側から少しずつ熱を取り戻していくのが、そばにいるシエルにもはっきりと伝わってきた。
空になったボウルから顔を上げた獣は、琥珀色の瞳でシエルの顔をじっと見つめる。
その瞳には先ほどの警戒心はなく、ただ静かで深い知性が宿っているように見えた。
シエルは微笑みながら、獣の温かい鼻筋を凍える指先でゆっくりと撫でる。
言葉の通じない巨大な獣と、虐げられてきた孤独なΩ。
吹雪の夜の冷たい裏口で、小さな温もりを分け合った二つの魂が、静かに交差した瞬間だった。




