【声】 音のない空に描く言葉
一目惚れなんて漫画や小説の世界だと思っていた――市の図書館で彼女に会うまでは。
彼女を初めて目にしたとき、本が手から滑り落ちた。周りから音が消え、この世界に僕と彼女だけがいるようだった。
彼女の名前を知りたい。せめて声だけでも聴かせてほしい。
「その本、面白いの?」
言って後悔した。これじゃただのナンパだ。
案の定、返事はない。彼女はページをめくる指すら止めず、ただ微かに、鼻先で小さく息を吐いた。
「えっと……」
言葉が続かない僕に、彼女は一瞥もくれず、すぐに席を立ってしまった。
周りから笑い声が聞こえ、頭が沸騰した。勝手に声が出るのは、僕の悪い癖だ。
彼女とは住む世界が違う。そう分かっているのに、図書館に通う日々が始まった。
何度か図書館に足を運ぶと、また彼女に出会えた。本を束にして抱えている。僕の目の前で、一冊の本が滑り落ちた。
「大丈夫?」
そう声を掛け、両手が塞がっている彼女の一番上に戻してあげた。
ふわりと彼女の髪から香った匂いに、胸が高鳴った。
彼女は本を持ったまま、その場で固まってしまった。一言くらい、ありがとうと言えばいいのに。彼女は何かを言いかけるように口を僅かに動かしたが、すぐにぎゅっと結び、視線を泳がせた。
結局、彼女は逃げるように立ち去った。
どうやら嫌われてしまったらしい。
それでも、僕は図書館に通い続けた。話しかけるタイミングを見計らい、一言声を掛けた。彼女は本に視線を落したまま、決まって机の上を指差した。
『図書館ではお静かに』
諦めずに何度も会ううちに、僕の一方通行の会話が長くなっていった。
目も合わせてくれないし、声も掛けてくれない。それでも僕は満足だった。
その日、図書館は慌ただしかった。
彼女の前で、高齢の女性が声を荒げていた。どうやら、彼女のいつもの席を、どちらが先に確保していたかで揉めているようだ。
高齢女性が一方的に彼女に向ってまくし立てて、彼女はただずっと黙って下を向いていた。
「謝罪の言葉もないなんて、これだから最近の若い子は!」
彼女が譲らず謝らないことで、火に油を注いでしまっているらしい。その身体が、小刻みに震えている。
見かねて、僕は二人の間に割って入った。
「すみません、この子、あがり症で。内心は、めちゃくちゃ謝ってますから!な?」
僕が彼女を覗き込むと、彼女は目を見開き、何度も首を縦に振った。その瞳には涙が溜まっているようだった。
彼女と共に図書館から出ると、もう夕暮れ時だった。カラスの鳴き声、人の笑い声、電車の踏切の音――図書館の静寂が嘘のような、音の世界に包まれた。
ふと彼女が立ち止まった。
赤い唇が、ゆっくりと形を変えた。だが、すぐに彼女はうつむいて、首を横に振った。
彼女が顔を上げたとき、世界から音が消えた。吸い込まれそうなほど美しい瞳に、僕が映っていた。
彼女の両手が、胸の前で軽やかに舞った。
僕は――初めて彼女の声を聞いた。




