過去の傷痕
二月二十日の夜。
佐藤を荻窪のアパートに泊まらせてからもう二日目になる。狭い部屋に男二人は、やはり窮屈だった。佐藤は敷布団を借りて床に寝ている。俺はベッドだ。
「明日からどうする。お前のアパートに帰れるか」
「帰りたくない」と佐藤は言った。声には正直な怯えがあった。
「Xデーは過ぎたけど、部屋に一人でいるのが怖い。あの換気扇の傷のこともあるし。誰かが合鍵で入ったかもしれないって思ったら、とてもじゃないけど眠れない」
「わかった。当面はここにいていい」
「すまない」
「謝るな。命の問題だ」
二月二十一日。火曜日。
佐藤は普通に出社していった。織田の前では何食わぬ顔をしろと念を押した。
俺は一人でアパートに残り、調査を始めた。
まず、織田圭吾の前職について調べる。
佐藤から聞いた情報では、織田は大手の広告代理店に勤めていて、三年前に退社している。退社理由は「キャリアアップ」と本人は言っているが、経費の不正処理で問題を起こしたという噂がある。
広告代理店の名前は「ブランドメディカ」。業界では中堅どころの代理店で、医薬品や化粧品のプロモーションを主に手がけている。
ネットで「ブランドメディカ 不祥事」を検索した。
直接ヒットする記事はなかった。だが、業界ニュースサイトに三年前の記事が見つかった。
「ブランドメディカ、営業部門の組織改編を発表。複数の管理職が異動」
記事の中身は表面的なものだった。組織改編の理由として「業務効率化」が挙げられている。だが、複数の管理職が同時に異動するのは通常の人事では考えにくい。裏に何かがあったと推測するのが自然だ。
さらに検索を続けると、転職サイトの口コミで気になる投稿を見つけた。
「営業部の一部で経費の水増しが横行していた。会社は表沙汰にせず、関係者を異動や退職で処理した」
匿名の口コミだ。信頼性は高くない。だが、佐藤から聞いた噂と一致する。
仮に、織田がブランドメディカで経費の不正処理に関与していたとする。会社は織田を訴える代わりに、退職を促した。織田は「キャリアアップ」を口実に退社し、佐藤の会社に移った。
そして、新しい会社でも同じことをしている可能性がある。
佐藤が経理に織田の接待費の異常について言及した。それが織田の耳に入った。
前科持ちの人間にとって、過去の失敗が繰り返しバレることは致命的だ。二度目の不正が発覚すれば、今度は退職では済まされない。刑事告発もありうる。
その危機を回避するために、告発者である佐藤を排除する。
動機としては十分だ。
だが、まだ推測の域を出ない。裏を取る必要がある。
俺は一つの賭けに出ることにした。
ブランドメディカに電話する。
ネットで代表番号を調べ、電話をかけた。
「お忙しいところ恐れ入ります。私、フリーランスのライターをしております河瀬と申します。業界誌の記事執筆のため、御社の三年前の組織改編について取材をさせていただきたく、ご連絡差し上げました」
嘘だ。だが、情報を引き出すにはこうするしかない。
電話の向こうで、受付の女性が少し戸惑った声を出した。
「少々お待ちください」
保留音が流れる。二分ほどして、別の声が出た。男性。広報部の人間だろう。
「お電話代わりました。広報の田中です」
「河瀬と申します。業界誌向けの記事で、御社の三年前の組織改編について——」
「申し訳ございませんが、三年前の人事に関するお問い合わせにはお答えできかねます」
即答だった。用意されていたかのような拒否。
「何か問題がございましたでしょうか」
「いえ。弊社の方針として、過去の人事案件に関する取材はお断りしております」
「では、当時在籍されていた織田圭吾さんについて——」
「個人名についてもお答えできかねます。申し訳ございません」
電話は切れた。
拒否されたこと自体が情報だ。
通常の組織改編であれば、広報が問い合わせを即座に拒否する理由はない。だが、不祥事絡みの人事であれば話は別だ。外部に漏れることを恐れて、一律で取材を断る。
おそらく、織田がブランドメディカで何か問題を起こしたのは事実だ。
次に、佐藤の会社について調べた。
佐藤が勤めている会社は「アスミール」という小規模の広告制作会社だ。社員は二十人程度。主にウェブ広告のデザインと運用を手がけている。
小さい会社だ。経費管理の体制が甘い可能性がある。織田のような人間には好都合だ。
佐藤にLINEを送った。
織田さんの担当案件で、架空の接待先はないか確認してくれ。接待費の領収書に書かれた店名をメモしてほしい。
返信は昼休みに来た。
わかった。共有フォルダを見てみる。バレないように気をつける。
午後三時。もう一つの調査に取りかかった。
矢島理沙のことだ。
矢島の勤務先は出版社だと佐藤から聞いている。出版社の名前は「星風出版」。文芸書を中心に刊行している中小の出版社だ。
矢島が編集者として担当している作家の名前を、佐藤は一人だけ知っていた。交際中に矢島が話していたらしい。
その作家が出している小説のジャンルはミステリーだった。
ミステリー作家の担当編集者。
遺書の文体は文学的で、構成が練られていた。まるで小説のプロットのように。
矢島が編集の仕事を通じて、ミステリーの構成技法を学んでいたとすれば。あの遺書のような、トリックとメタファーを織り交ぜた文章を書くことは——可能だ。
だが、それは矢島に限った話ではない。ミステリー小説を読む人間なら誰でも学べる知識だ。
俺は矢島のSNSアカウントを調べた。
Twitterのアカウントが見つかった。公開アカウントで、フォロワーは五百人ほど。投稿内容は仕事に関するものが多い。新刊の告知、書店でのフェアの様子、業界イベントの写真。
プライベートな投稿も時折ある。カフェの写真、映画の感想、猫の写真。
猫。
矢島のTwitterの二週間前の投稿に、猫の写真が二枚あった。一枚は白猫。もう一枚は——黒猫。
投稿の文面。
近所で見かけた子。もふもふ。
黒猫の写真には位置情報はついていない。だが「近所」と書いている。矢島の住所は吉祥寺南町。佐藤のアパートがある三鷹の住宅街とは距離がある。
矢島の近所の黒猫が、佐藤のアパートの前に現れた黒猫と同一個体である可能性。低いが、ゼロではない。
あるいは、矢島が黒猫を使って、遺書の「予言」を演出した可能性。餌を使って猫を誘導するのは難しくない。
推測が広がりすぎている。
事実だけを並べる。
一つ。織田圭吾は前職で不正処理の疑い。動機は口封じ。Xデーに佐藤のアパート付近に車があった。
二つ。矢島理沙は佐藤の合鍵を持っている。ミステリー編集者としてトリックの知識がある。SNSに黒猫の写真がある。
どちらから先に追い詰めるべきか。
客観的に見れば、織田のほうが証拠が多い。だが、矢島には合鍵という物理的な優位がある。
佐藤からLINEが来た。
織田さんの経費、調べた。三件、怪しい領収書がある。店名で検索しても出てこない飲食店の名前が書いてある。架空の店かもしれない。
写真が添付されていた。領収書のコピー。三枚。金額はそれぞれ二万八千円、三万五千円、四万二千円。合計十万五千円。
店名を検索してみた。「和処なかむら」「炭火焼き鳥はなれ」「割烹さくら庵」。
一件目の「和処なかむら」は検索結果ゼロ。住所も電話番号も見つからない。
二件目と三件目も同様だった。
架空の領収書。
織田は架空の飲食店の領収書を使って、経費を水増ししている。
前職と同じ手口だ。
そしてこの事実を佐藤が経理に話したことが、織田に伝わった。
動機が確定しつつある。
佐藤に返信した。
絶対に織田にバレるな。明日、詳しく話す。
夜十時。俺はノートに今日の調査結果をまとめた。
織田圭吾。動機あり。架空経費の証拠あり。Xデーに佐藤のアパート付近にいた物理的証拠あり。
矢島理沙。合鍵を所持。ミステリーの知識あり。黒猫との関連性は不確定。
現時点での結論。主犯は織田圭吾である可能性が高い。
だが、まだ確信には至らない。
足りないのは、決定的な物的証拠だ。遺書の筆跡鑑定、赤い紐の入手経路、練炭の配送伝票。これらのうち一つでも織田に繋がれば、警察を動かせる。
明日からは、その証拠を掴みに行く。




