罠の夜
二月二十三日。
織田圭吾を追い詰めるための物的証拠が必要だった。
状況証拠は揃いつつある。動機、機会、手段。だが警察を動かすには決定的な一打が足りない。
俺は朝からアパートの机に向かい、遺書のコピーを広げていた。
赤い糸。
この言葉が何度も出てくる。遺書の最後の一文。三日目の予言。そして、封筒に同封されていた赤い紐そのもの。
赤い紐は今、俺の手元にある。佐藤から預かったものだ。長さ三十センチほどの輪になった紐。素材は麻に似た天然繊維。表面がざらついていて、摩擦係数が高い。
この紐をサムターンにかけて外部から施錠する実験を、以前一度行った。成功した。だが、あくまで俺のアパートのドアでの実験であって、佐藤のアパートのドアとは条件が違うかもしれない。
ドアの隙間の幅、サムターンの形状、紐との摩擦。これらが佐藤の部屋でも同じ結果を生むかどうか、確認する必要がある。
佐藤に連絡した。
「今日、お前の部屋に入らせてもらうことはできるか」
「鍵は持ってるけど……一人で行くのか」
「一人で行く。サムターンの実験をしたい」
「実験って、あの赤い紐で施錠するやつか」
「ああ。お前の部屋のドアで試さないと意味がない。条件が違うかもしれないから」
「わかった。鍵を渡す。昼休みに荻窪駅で会えるか」
「ああ」
昼の十二時半。荻窪駅の改札前で佐藤と合流した。佐藤の顔は相変わらず疲れていたが、Xデーの翌日よりは落ち着いて見えた。
「仕事のほうはどうだ」
「普通にやってる。織田さんも普通だ。変わった様子はない」
「それは逆に気になるな。Xデーが外れたのに平然としているのは、計画を放棄したか、修正しているかのどちらかだ」
「どっちだと思う」
「わからない。だからこそ、証拠を固める」
佐藤は会社に戻り、俺は中央線で三鷹に向かった。
佐藤のアパートに着いたのは午後一時過ぎだった。冬の昼下がり、住宅街は静かだ。洗濯物を干した主婦が一人、俺を見てすぐに視線を外した。
階段を上がり、二〇五号室のドアの前に立つ。合鍵を差し込み、ドアを開けた。
部屋の中は前回来たときとほぼ同じだった。佐藤は荻窪に避難しているので、この部屋には数日帰っていない。空気が淀んでいる。
まずドアの構造を確認した。
佐藤のアパートのドアは木製。安い木のドアで、枠との間に二ミリほどの隙間がある。ドアの下部は更に隙間が広く、五ミリはある。
サムターンを見る。真鍮色のつまみ。形は円筒形で、直径は約三センチ、高さは一・五センチほど。俺のアパートのサムターンより若干大きい。
赤い紐を取り出した。
輪になった紐をサムターンにかける。つまみの上から被せるように輪をセットし、紐の両端をドアの下の隙間に通す。ドアを閉める。
外に出て、しゃがみ込んだ。ドアの下から赤い紐が二本——正確には、輪の両端が——垂れ下がっている。
片方を引く。
サムターンが回り始めた。だが途中で止まった。紐が滑っている。
引き方を変えた。両方の端を持ち、左右に引きながら下に引く。
カチ。
施錠の感触が、ドアの向こう側から振動として伝わってきた。
成功した。
合鍵を使ってドアを開け直し、室内のサムターンを確認する。縦の位置に回っている。施錠位置だ。
紐をサムターンから外す。紐による摩耗の痕跡を確認する。
サムターンの表面に、微かな擦り傷がついていた。肉眼ではほとんどわからない。だが、光を当てて角度を変えると、金属表面に細い線状の傷が見える。
これは問題だ。犯人がこのトリックを使えば、サムターンに傷が残る。捜査で発見される可能性がある。
だが、犯人はそれを知っているだろうか。
遺書の内容から推測する限り、犯人は入念に計画を練っている。サムターンの傷のことも考慮しているはずだ。
対策として考えられるのは、サムターンに滑り止めのカバーをかぶせることだ。ゴムチューブや布を巻けば、紐の摩擦が減り、傷もつかない。使用後にカバーを外せば痕跡は残らない。
俺は持参していたラップを使って実験してみた。サムターンにラップを一周巻き、その上から赤い紐をかける。
ドアを閉め、外から引く。
ラップがクッションになって、紐がより安定してサムターンを回した。施錠成功。ドアを開けてサムターンを確認する。傷は増えていない。
犯人がこの方法を使えば、完全に痕跡のない密室が作れる。
ゾッとした。
施錠後、紐はどうなるか。
紐を引き抜く実験もした。施錠の状態で、ドアの下から紐を引く。サムターンから紐の輪がするりと外れ、ドアの下の隙間からスルスルと出てきた。
紐は回収可能だ。
つまり、犯人の手順はこうだ。
一。佐藤が寝ている間、あるいは意識を失っている間に、室内に練炭をセットする。
二。紐をサムターンにかけ、ドアの下から紐の端を外に出す。
三。部屋を出て、ドアを閉める。
四。外から紐を引いて施錠する。
五。紐を回収する。
六。密室完成。
外から紐を引いて施錠し、紐を手元に回収する。誰にも見られなければ、密室は完全だ。
だが、紐を回収してどうする?
遺書には「赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく」と書いてある。紐で施錠した後、紐は「結び」の役目を終える。
犯人が紐を持ち帰れば証拠になる。紐を捨てれば発見される可能性がある。
最も安全なのは紐を燃やすことだ。紐を回収した後、別の場所で燃やしてしまえば痕跡は消える。あるいは、紐を室内に残して練炭の火で燃やす方法もある。
いや、紐を室内に残すのは矛盾する。ドアの下から紐を引き抜いて施錠するためには、紐は外に出ている必要がある。施錠後に紐は外にある。
犯人は紐を持ち帰り、処分する。それが最もシンプルだ。
トリックの全容が見えた。
残る問題は、佐藤の意識をどう奪うかだ。
殺す気なら睡眠薬を使うだろう。食事や飲み物に混入させれば、佐藤は意識を失う。その間に練炭をセットし、部屋を出て施錠。あとは一酸化炭素が仕事を終えるのを待つだけだ。
佐藤に連絡した。
「実験は成功した。お前の部屋のサムターンは、赤い紐で外から施錠できる」
長い沈黙。
「つまり、あの紐で密室を作れるってことか」
「ああ。遺書に書かれていたトリックの全貌がわかった。練炭で殺して、紐で外から施錠し、紐を回収して処分する。完全犯罪の台本通りだ」
「どうすればいい」
「2つある。1つ目は、お前がしばらく部屋に帰らないこと。俺の部屋にいろ。2つ目は、サムターンを交換すること。防犯性能の高いサムターンにすれば、紐のトリックは使えなくなる」
「サムターンの交換って、管理人に頼めばいいのか」
「管理人か、錠前屋に頼め。サムターンカバーをつけるだけでもいい。つまみに外側からアクセスできなくすれば、このトリックは無効化される」
「明日やる」
「今日やれ。明日じゃ遅いかもしれない」
電話を切った後、俺は部屋の中をもう一度見渡した。
佐藤が暮らしていた六畳のワンルーム。ここで彼を殺す計画があった。今もまだあるかもしれない。
キッチンのシンクに目が行った。食器が数枚。佐藤が最後に使ったままだ。マグカップが1つ、洗い桶の中に浸かっている。
マグカップの中に、何か残っていないか。
俺はマグカップを手に取り、光にかざした。底に茶色い液体が少し残っている。コーヒーの残りだろう。
……いや。
コーヒーにしてはわずかに白っぽい沈殿物がある。
これが睡眠薬の残留物でないという保証はない。
俺はビニール袋を持ってきて、マグカップをそのまま入れた。後で調べる必要がある。素人には成分分析はできないが、警察に渡す際の証拠品になりうる。
部屋を出て、ドアの鍵を閉めた。
帰り道、駅までの道を歩きながら考えた。
証拠は揃いつつある。だがまだ、犯人を名指しできるほどの確実さはない。織田が怪しい。矢島も完全には除外できない。
赤い紐は俺の手元にある。練炭は処分した。サムターンの対策もする。犯行の手段は1つずつ潰している。
だが犯人はまだ自由だ。
自由な犯人は、次の手を打つことができる。




