揺らぐ確信
二月二十四日。
朝、佐藤からLINEが来た。
サムターンカバー、昨日のうちにつけた。管理人に頼んだら、その場でやってくれた。これで外から回されることはないと思う。
写真が添付されていた。サムターンの上に半透明のプラスチックカバーが取り付けられている。カバーの中にサムターンがある形になっていて、外側からつまみに触れることはできない。
これで赤い紐のトリックは無効化された。
だが安心するのは早い。犯人がこの対策を知れば、別の方法を考えるだろう。
午前十時。俺は一つの決断を迫られていた。
警察に相談すべきかどうか。
これまで集めた証拠を整理する。
遺書の原本。赤い紐。練炭の配送伝票(段ボールに貼られていたもの)。サムターンの実験結果。織田の車のナンバー写真。架空の領収書の写真。マグカップの沈殿物。
個々には弱い。だが、全体として見れば殺人未遂を疑うに足る状況証拠だ。
問題は、警察がどこまで動いてくれるかだ。
殺人未遂を立証するには、実行行為の着手が必要だ。だが犯行は未遂の段階にすら至っていない。遺書が届いただけで、実際に佐藤が危害を加えられたわけではない。練炭は届いたが処分した。密室は構築されていない。
法的に言えば、これは「予備」の段階だ。殺人予備罪は成立しうるが、立証は難しい。
それでも、相談はすべきだ。記録を残すことに意味がある。
最寄りの警察署に電話した。
「ご相談したいことがあります」
事情を説明するのに三十分かかった。電話口の警察官は、最初は「遺書が届いた」という話を聞いて、「自殺の前兆では」と反応した。
「いえ、これは本人が書いたものではありません。何者かが殺人を予告する目的で送りつけたものだと考えています」
「殺害予告ですか」
「はい。遺書に見せかけた殺人計画書です。具体的な日付、方法、手段がすべて記されています」
警察官の声のトーンが変わった。
「それは——少々お待ちください」
保留音。三分後に別の声が出た。刑事課の人間だ。
「お話を伺います。まず、その遺書と関連する物品をお持ちいただけますか」
午後、最寄りの警察署に出向いた。
刑事課の小さな面談室。パイプ椅子に座り、向かいに座った刑事に状況を説明した。
刑事は五十代の男だった。名前は杉本。角張った顎に無精髭が生えている。こちらの話を聞きながら、手帳にボールペンでメモを取っている。
「遺書を見せてください」
遺書のコピーを渡した。原本は念のため手元に残してある。
杉本刑事が遺書を読む。丁寧に一枚一枚めくり、内容を確認している。
「赤い紐というのは?」
紐を見せた。ビニール袋に入れて持ってきていた。
杉本刑事が紐を袋越しに眺めた。
「これがサムターンを回すのに使われると」
「はい。実際に試しました。この紐をサムターンにかけて、外側から引くことで施錠できます」
「実験したんですか」
「はい。被害者のアパートのドアで」
杉本刑事が少し目を見開いた。
「あなたは随分と詳しいですね」
「必要に迫られました」
杉本刑事がメモを取り続ける。
「容疑者として考えている人物は?」
「二人います。一人は被害者の上司で織田圭吾。もう一人は被害者の元恋人で矢島理沙」
「根拠は?」
織田の経費不正、車のナンバー、前職での問題。矢島の合鍵、ミステリー編集者としての知識。すべてを説明した。
杉本刑事は黙って聞いていた。表情からは判断しかねた。
「河瀬さん」
「はい」
「気持ちはわかります。友人を守りたいんですよね」
「はい」
「ただ、現時点では事件性を認めて捜査を開始するのは難しい状況です」
予想はしていた。
「遺書が届いた、というのは確かに不気味です。練炭が送られてきたのも物騒です。ですが、実際に被害が起きていない以上、警察としては動きようがない」
「しかし——」
「今後、具体的な危害を加えられたり、犯人が特定できて実行の準備行為が確認されたりすれば、すぐに対応します。それまでは相談記録として残すだけです」
「つまり何かが起きてからでないと動けないと」
杉本刑事は少し間を置いた。
「そうは言いませんが、あなたが集めた情報は状況証拠であって、決定的なものではない。経費の不正は別の問題ですし、車のナンバーの一致も偶然の可能性を排除できない」
「この紐を鑑識に回せませんか。指紋や繊維——」
「正式な被害届がない段階では難しいですね」
俺は唇を噛んだ。
「被害届を出します」
「何の被害届ですか」
「脅迫罪。遺書という形で殺害を予告する文書が届いた。これは脅迫に該当しませんか」
杉本刑事が少し考えた。
「遺書の内容が脅迫に該当するかどうかは、文面の解釈によります。直接的な殺害予告の文言があれば脅迫と認定しやすいですが、拝見した限り、内容は自殺を装った形式です。犯人の意図を推定しなければならず、立証が難しい」
「でも受理はできますか」
「受理はできます。受理した上で、調査を行います。ただし、すぐに逮捕や捜索に繋がるかは保証できません」
「お願いします」
被害届の書類を書いた。佐藤の名前、住所、被害の概要。俺が代理で記入し、後日佐藤本人が署名する手はずだ。
杉本刑事は最後にこう言った。
「自分で探偵の真似事をするのは危険です。相手が本気なら、邪魔者も消しにかかる。何かあったらすぐ一一〇番を」
「わかりました」
警察署を出た。
被害届は受理され、記録は残った。だが、それだけだ。
焦りが胃の底にある。警察が動くまで、おそらく犯人は待ちの姿勢を取らない。計画を修正し、再び動くはずだ。
俺に何ができる。
考えながら歩いていると、スマートフォンが鳴った。佐藤からだった。
「河瀬。大変だ」
「何があった」
「織田さんが休みを取った。今日、突然の有給だって。朝、総務の人に聞いた」
有給休暇。Xデーから四日も経っての有給。
「理由は聞いたか」
「体調不良だって。でも昨日は元気だったのに」
嘘だ。体調不良は口実で、別の目的がある。
計画を修正するための時間を作っている可能性がある。犯行の準備を整え直すために。
「佐藤。今日は絶対に一人で部屋に帰るな。俺の部屋に来い」
「わかった」
夕方、佐藤が荻窪のアパートに逃げ込んできた。
二人でコンビニ弁当をつつきながら状況を共有する。
「警察には相談したし、被害届も出した。だが、すぐには動かない」
「そうか」
「自分たちで証拠を固めるしかない。決定的な証拠が一つあれば、警察も動く。たとえば、織田が練炭を買ったレシートや、筆跡鑑定の結果、あるいは自白だ」
「自白なんて取れるのか」
「追い詰めれば、ボロを出す」
佐藤が弁当の蓋を閉じた。半分も食べていない。
「俺さ——親のところにでも行ったほうがいいのかな。実家は長野だから、遠い」
「それも手だ。だが、逃げ続けるのは根本的な解決にならない」
「じゃあどうすればいい」
「犯人を捕まえる」
佐藤が俺を見た。目の下の隈が深い。だが目つきには、消えかけた火がまだ残っていた。
「お前を信じる」
「信じろ。明日から仕掛ける」




