罠の夜
二月二十六日。日曜日。
金曜、土曜と警戒を続けたが、犯人は現れなかった。
そして日曜の朝。
床に敷いた布団で佐藤がまだ眠っているのを確認し、俺は静かにベッドを抜け出した。三時間しか眠れなかったが、頭は妙にさえていた。
コーヒーを淹れながら、今日の計画を頭の中で組み立てた。
佐藤にはできるだけ遅くまで外にいてもらう。その間に俺は佐藤のアパート付近で待機する。犯人が現れたら、即座に警察に通報し、同時に佐藤の部屋に駆けつける。
問題はいくつかある。
1つ目。犯人がいつ現れるかわからない。夜だろうとは思うが、確証はない。昼間に行動する可能性もゼロではない。
2つ目。犯人が俺の存在に気づいている可能性。俺が佐藤のアパートを訪れたことは、犯人が近くで監視していれば把握しているだろう。
3つ目。一人で対処する限界。俺は素人だ。格闘の経験もないし、武器も持っていない。犯人が凶器を持っていた場合、対抗する手段がない。
午前中、俺は準備をした。
まず、ボイスレコーダーを用意した。古いICレコーダーが引き出しの奥にあった。電池を入れ替えて動作を確認する。犯人と遭遇した場合、会話を録音できるように。
昼前、佐藤が目を覚ました。
「今日の夜、お前の部屋の鍵を貸してくれ」
佐藤は顔を洗ってから、不思議そうにこちらを見た。
「鍵? なんで」
「お前が外にいる間、俺は部屋の中で待機する。犯人が外からサムターンを回そうとしたら、内側から阻止する」
少し考えてから、佐藤が自分の鞄から鍵を取り出した。銀色の鍵が一本。キーホルダーには何もついていない。
「はい」
「ありがとう」
「河瀬」
「何だ」
「本当に一人で大丈夫なのか。俺も一緒にいたほうがいいんじゃないか」
「お前はターゲットだ。部屋にいたら危険が増す。外にいてくれ。繁華街で時間をつぶすでもいい。とにかく明日の朝まで、部屋にもここにも帰るな」
「明日の朝まで?」
「犯行時刻がわからない以上、夜通し警戒する必要がある。お前がどこかで朝を迎えてくれれば、犯人には機会がなくなる」
「カプセルホテルにでも泊まるか」
「それがいい。場所は教えるな。俺にも。万が一俺の携帯が奪われた場合に居場所がバレる」
佐藤は眉を上げた。
「お前、そこまで考えてるのか」
「最悪のケースを想定するのが癖だ」
午後一時。佐藤より先にアパートを出て、中央線に乗った。三鷹で降り、佐藤のアパートに向かう。
午後二時過ぎに到着した。アパートの周囲を確認する。不審な人影はない。二階への階段を上り、佐藤の部屋のドアの前に立つ。
鍵を挿し込み、回す。ドアが開いた。
部屋に入ると、昨日と同じ室内が広がっていた。カーテンが閉まっていて薄暗い。エアコンは切られている。寒い。
ドアを閉め、内側からサムターンを回して施錠する。
エアコンをつけようとして、やめた。部屋に人がいることを外から察知されるのを避けたかった。エアコンの室外機の音は案外響く。
コートを着たまま、窓際の壁に背中をつけて座った。
窓の外は住宅街の屋根が並んでいる。向かいの家のベランダに猫がいた。三毛猫だ。黒猫ではない。
時間を潰す必要がある。犯人が来るとすれば夜だろう。昼間は人目が多すぎる。
スマートフォンで時間を確認する。午後二時十五分。夜まではまだ長い。
待ちながら、遺書の内容をもう一度頭の中で整理した。
犯人の手順を俺が理解している以上、俺が部屋の中にいれば犯行は阻止できる。サムターンを外から回そうとしても、俺が内側から押さえれば回らない。
だが、犯人が部屋の中の異常に気づいたら?
例えば、ドアの前に立って気配を感じ取ったら。あるいは、窓から覗いて俺の存在に気づいたら。
犯行を中止して逃走する可能性がある。そうなれば、犯人を現行犯で押さえる機会を逃す。
犯人が逃走した場合、また別の日に犯行を試みるかもしれない。台本のXデーは今日だが、計画が失敗すれば新しい台本を書く可能性がある。
つまり、今日の夜で決着をつけなければならない。
午後三時。
外が少しずつ暗くなり始めていた。二月の日没は早い。五時には暗くなる。
午後四時。
スマートフォンの電池残量を確認。八十四パーセント。充電器は持ってきていない。節電モードに切り替えた。
午後五時。
窓の外が暗くなった。街灯がぽつぽつと点き始める。向かいのマンションの窓に明かりが灯る。
俺は暗闇の中で座っていた。部屋の電気はつけない。
午後六時。
佐藤からLINEが来た。
これから同僚と飲みに行く。織田は誘ってない。そのあとカプセルホテルに泊まる。
了解。気をつけろ。
午後七時。
腹が減った。何も食べていないことに気づいた。昼にコンビニのおにぎりを食べたきりだ。水もない。
仕方がない。今さら買い出しに行くわけにはいかない。
午後八時。
静かだった。部屋の中は完全な暗闇で、外の街灯の光だけがカーテンの隙間から細く差し込んでいる。
午後九時。
そろそろだろうか。佐藤が帰宅する時間帯だ。犯人は佐藤が帰宅してから行動するつもりだろうが、 Xデーは過ぎたが、織田が計画を修正してきた可能性がある。安心はできない。
佐藤にはカプセルホテルに泊ってもらっている。俺が代わりに佐藤の部屋で待っている。
午後十一時。
ドアの向こう側から、微かな音がした。
金属の擦れる音。ピッキングだ。犯人はドアの鍵をこじ開けようとしている。
俺はドアの前に立ち、息を殺した。
ピッキングの音が止んだ。代わりに、ドアの下の隙間から何かが差し込まれた。
液体だ。刺激臭がした。
エーテル系の揮発性の液体が、ドア下の隙間から流れ込んでくる。薬品を染み込ませた布を押し込んでいる。揮発した薬品の臭気が狭い部屋に充満した。
意識が薄れ始めた。これが犯人の新しい手口だ。薬品で意識を奪い、その間に練炭をセットする。
慌ててタオルを口と鼻に押し当て、急いで窓を開けた。冷たい二月の空気が流れ込んだ。
スマートフォンを探した。だが、頭がふらついていたために、ポケットから落としてしまった。画面にひびが入った。
朦朧とする意識のまま一一〇番に通報した。
「佐藤大輝さんのアパートです。何者かが薬品を使って侵入を試みています」
警察が来たのは十五分後だった。その頃には犯人の姿はなかった。
現場に来たのは、先日警察署で会った杉本刑事だった。改めて詳細な事情聴取を受けた。
「何かあったらすぐに連絡してくださいと申し上げたはずです。無事でよかった」
俺はその夜、佐藤の部屋で窓を開けたまま眠った。頭の鈍さが残っていた。




