カーテンコールを待たずに
第13話 カーテンコールを待たずに
二月二十七日の朝。
中央線の始発で荻窪に戻り、自分のアパートで数時間眠った。
目が覚めたのは午前十時だった。体中が痛い。頭の奥に、まだ薬品の甘い匂いが粘りついている気がした。
スマートフォンを確認する。落とした衝撃で画面のひびは増えていたが、通知は読めた。
佐藤からLINEが三件。
朝六時。『無事。まだカプセルホテルにいる』
朝八時。織田が会社に出勤しているか確認するため、同僚に連絡する。
朝九時。織田、今日休みだって。無断欠勤。
無断欠勤。
犯行が失敗した翌日に無断欠勤。逃走したか、あるいは次の行動を準備しているか。
俺は刑事に電話した。昨夜名刺をもらっていた。杉本という名前の五十代の刑事だ。
「杉本さん。河瀬です。昨夜の件で追加の情報があります」
「何でしょう」
「容疑者として挙げた織田圭吾が、今日の会社を無断欠勤しています」
「承知しました。織田圭吾の住所は佐藤さんから聞いていますので、確認に向かいます」
「俺も行きたいんですが」
「来ないでください。捜査の妨げになります」
そう言われると従うしかない。
だが、じっとしているのは苦痛だった。
佐藤に電話した。
「佐藤。今日は会社に行くな」
「行かないつもりだ。有給を取った。でも、このままホテルにいるのもな」
「俺の家に来い。場所は教える」
「わかった。向かう」
午前十一時。佐藤が俺のアパートに来た。
狭い部屋でコーヒーを飲みながら、昨夜の出来事を手短に話した。ドア下から薬品が流し込まれたこと。練炭が持ち込まれそうになったこと。
佐藤は黙って聞いていた。コーヒーカップを持つ手が小刻みに震えている。
「俺のせいだ」
「何が」
「お前を巻き込んだ。無事だったのは運が良かっただけだろ」
「巻き込んだのは犯人だ。遺書を俺に届けたのも犯人だ」
「でも」
「佐藤、聞け。俺が遺書を受け取ったのには意味がある。犯人は俺に読ませたかったんだよ」
佐藤は首を横に振った。
「わからない」
「犯人の自己顕示欲だ。自分が書いた台本がどれだけ精巧か、誰かに見せびらかしたかったんだ。推理小説の犯行声明と同じだ。トリックを解ける可能性のある相手に、わざわざ手がかりを送る」
「それがお前だったと」
「フリーライター。オカルトと未解決事件が専門。犯人は俺の仕事を知っていた可能性がある」
佐藤の顔色が変わった。
「織田が、前にお前のことを聞いてきたことがある」
「何を聞いてきた」
「お前が何の仕事をしてるかって。大学時代の友達でフリーライターがいるって話を、飲み会でしたことがあるんだ」
「俺の名前も?」
「名前は言わなかった。でも、ネットで調べれば俺のSNSから辿り着ける。俺のプロフィールに大学名が書いてあるし、お前の書いた記事にも大学名が出てることがある」
犯人は俺のことを調べていた。佐藤の友人で、フリーライターで、オカルトに詳しい人間。台本の読者として適任だと判断したのだろう。
だが、犯人は誤算を犯した。台本を読んだ俺がトリックを解読し、犯行を阻止した。
スマートフォンが鳴った。杉本刑事からだ。
「河瀬さん。織田圭吾のアパートに行きましたが、不在でした」
「逃げたんですか」
「部屋の中は整理されていました。荷物が減っている形跡があります。出張や旅行の準備というよりは、必要最低限のものだけ持って出た、という印象です」
「逃走準備ですね」
「そう判断しています。現在、周辺への聞き込みと、交通機関の利用記録の確認を進めています」
「遺書は証拠として使えますか」
「筆跡鑑定が必要ですが、佐藤さんの筆跡と一致すれば、偽造の疑いが生じます。また、昨夜の侵入行為については、住居侵入罪が適用できます。お持ちの遺書と赤い紐は、本日中に署まで届けていただけますか」
「すぐに持っていきます」
電話を切った。
佐藤を連れて三鷹警察署に向かった。
遺書の便箋十三枚と赤い紐を証拠として提出した。杉本刑事がすべてをビニール袋に収め、番号を振って記録した。
事情聴取は二時間に及んだ。
俺と佐藤が別々の部屋で聴取を受けた。遺書が届いた経緯、佐藤との関係、織田圭吾との接点。トリックについての俺の推理も詳細に説明した。
聴取が終わったのは午後三時だった。
警察署を出ると、二月の午後の日差しが眩しかった。
「腹が減った」
佐藤がぽつりと言った。
「同感だ」
近くの定食屋に入った。佐藤が生姜焼き定食、俺がサバの塩焼き定食を頼んだ。食事が来るまでの間、二人ともほとんど口を開かなかった。
食事が来て、黙々と食べた。
佐藤が箸を置いたのは、ご飯を半分残した時だった。
佐藤が箸を置いたのは、ご飯を半分残した時だった。
「なんで織田がこんなことをしたのか、わかるか」
「異常な独占欲だろうな。お前を手に入れられないなら、誰にも渡さないという類の」
「友達だと思ってたのに」
「友達だと思っていたのはお前だけだったんだろう」
佐藤は味噌汁の椀を見つめていた。
「犯人は見つかるだろうか」
「見つかる。逃走しても、この時代にいつまでも隠れ続けるのは難しい。クレジットカードの使用履歴、防犯カメラ、交通ICカードの記録。足跡はどこかに残る」
「見つかったら、俺はあいつに何を言えばいいんだ」
「何も言わなくていい。裁くのは法律だ」
佐藤は頷いたが、納得している風ではなかった。
定食屋を出て、駅に向かう。
スマートフォンが鳴った。杉本刑事からだ。
「河瀬さん。織田圭吾を確保しました」
「どこで」
「新宿のネットカフェです。身分証を使わずに入店しようとしたところを、店員が不審に思って通報しました。所持品から練炭と粘着テープが見つかっています」
俺と佐藤は顔を見合わせた。
終わった。
「佐藤さんにも伝えてください。しばらくは捜査が続きますが、身の安全は確認されましたので、ご自宅に戻っていただいて構いません」
「ありがとうございます」
電話を切った。
佐藤に伝える。
「織田が捕まった。新宿のネットカフェで」
佐藤は立ち止まった。目を閉じて、深く息を吐いた。
「終わったのか」
「ああ。終わった」
佐藤の目が赤くなっていた。泣いてはいなかったが、泣く一歩手前だった。
「河瀬」
「何だ」
「ありがとうは前にも言ったけど、もう一回言わせてくれ。ありがとう」
俺は何も言わず、佐藤の肩を叩いた。




