トリックの証明
二月二十八日。
杉本刑事から電話があったのは朝の九時だった。
「河瀬さん。本日中に署まで来ていただけますか。織田の供述が出ました。トリックについてもお聞きしたい」
「わかりました。午後でもいいですか」
「結構です。二時にお待ちしています」
佐藤にも連絡した。
「今日、三鷹署に呼ばれてる。お前も来るか」
「行く。俺も聞きたい」
午後二時。三鷹警察署のロビーで佐藤と落ち合った。佐藤は前日より顔色が良かった。眠れたのだろう。
受付で名前を告げると、杉本刑事が迎えに出てきた。角張った顎に昨日と同じ無精髭。目の下の隈が深い。こっちは眠れなかったらしい。
「お忙しいところすみません。こちらへ」
面談室に通された。パイプ椅子の座面はひんやりしている。机の上には段ボール箱が1つ置かれていた。
「まず、現状の報告をします」
杉本刑事が手帳を開いた。
「織田は昨日の確保後から取り調べに応じています。最初は黙っていましたが、所持品から練炭と粘着テープが出たことを告げると、一部で口を割りました」
「自白したんですか」
「部分的にです。佐藤さんの部屋に行ったことや薬品を使ったことは認めた。だが殺意は否認しています。練炭で部屋を温めるつもりだった、と」
「温める?」
佐藤が声を荒げた。
「練炭で部屋を温めるやつがいるか。粘着テープの言い訳はどうするんだ」
杉本刑事がなだめるように手を上げた。
「ええ、もちろん我々もそう考えています。供述の矛盾点は引き続き追及中ですが、現時点での容疑は住居侵入と傷害止まり。殺人未遂の立証にはまだ材料が要ります」
「遺書の筆跡鑑定は」
「進行中です。佐藤さんの筆跡と照合し、偽装の痕跡が確認されれば計画性の大きな裏付けになります」
杉本刑事が段ボール箱に手を伸ばした。
「これは織田の部屋から押収したものです」
箱の中からビニール袋に入った紙の束が出てきた。
「織田の自宅を捜索した際に発見した書類です。ベッドの下の引き出しに隠されていました」
ビニール越しに見えたのは、便箋だった。俺に届いた遺書と同じ罫線の入った便箋。だが、ところどころに赤いボールペンで訂正が入っている。
「遺書の下書きです」
杉本刑事が言った。
「三枚あります。日付や文言が微妙に異なっている。清書する前に、何度か書き直した形跡です」
下書き。完全犯罪を企てる人間にしては、あまりにも致命的なミスだ。だが、佐藤の筆跡に似せて書くためには、何度も練習するしかなかったのだろう。清書後に燃やすつもりが、逃走のドタバタで忘れたか。
「これで計画性は証明できませんか」
「大きな証拠です。動機と計画性の両方を裏付ける強力な物証になる」
佐藤が黙ってビニール袋を見つめていた。同僚が、上司が、自分を殺すために何度も文章を書き直した。その事実の重さは、俺が想像できる範囲を超えている。
「もう一点。河瀬さんに確認したいことがあります」
「何ですか」
「サムターンのトリックについてです。以前お話しいただいた、赤い紐を使って外側から施錠する方法について、もう少し詳しく聞かせてください」
俺は立ち上がった。
「説明するより見せたほうが早い。サムターンのモデルがあれば再現できます」
杉本刑事が少し考えてから、席を外した。五分後、ドアノブを取り付けた木の台を持って戻ってきた。
「これは防犯講習で使う模型です。サムターンもついています」
俺は上着の内ポケットから赤い紐を取り出した。予備として持っていた同じ素材の紐だ。証拠品として提出したものとは別のものだった。
「この紐をサムターンにかけます」
輪になった紐をサムターンのつまみに被せるように置く。紐の両端を模型の隙間に通す。
「ドアが閉まった状態で、外側からこの紐の両端を引きます」
紐を左右に引きながら、ゆっくりと下に力をかける。サムターンが回転した。
カチ。
施錠の音がした。
「施錠されました。後は紐の片方を引っ張って回収するだけです」
紐の片方を放し、もう片方を引く。紐がサムターンから外れ、隙間からスルスルと抜けてきた。
「紐は犯人の手元に戻る。外側から施錠したのに、内側から鍵をかけたようにしか見えない。これで密室の完成です」
杉本刑事がメモを取り終え、顔を上げた。
「よくわかりました。これも調書に記載します。鑑識にもサムターンの傷痕の確認を依頼しています」
「傷痕があれば、紐を使ったトリックが実際に行われた、あるいは少なくとも練習された証拠になります」
「はい。実は、佐藤さんのアパートのサムターンに微細な擦り傷が確認されています。紐の繊維と一致するかどうかを分析中です」
証拠が1つずつ積み上がっている。下書き。サムターンの傷。練炭と粘着テープ。薬品の成分分析。そして遺書そのもの。
杉本刑事が手帳を閉じた。
「最後に1つだけ。動機について、織田は何か語っていますか」
「これはまだ供述段階ですので、正式なものではありませんが」
杉本刑事が声を落とした。
「織田の供述は、ある種の異常な執着です。『佐藤は自分が面倒を見てきた』『自分がいなければあいつは何もできない』……。そんな思い込みの中で、佐藤さんが別の部署への異動を検討していたことを知り、裏切りだと受け取ったようです」
「異動?」
佐藤が声を震わせた。
「俺、一度だけ総務に相談したことがある。織田さんの経費のことが気になって、別の部署に移りたいって。でもそれは正式な話じゃなくて、ほんの少しの……」
「その情報が織田の耳に入った。織田は自分の不正を嗅ぎ回っている人間を総務経由で探っていた形跡があります」
パズルの最後のピースが嵌まった。
織田にとって、佐藤の異動相談は二重の脅威だった。不正発覚の恐怖と、自分のもとを離れるという裏切り。
自殺に見せかけて殺す。完全犯罪によって不正を隠し、同時に佐藤を永遠に支配下へ置く。台本は、そのための設計図だった。
面談室を出ると、廊下の蛍光灯が白く目に刺さった。
「佐藤」
「何だ」
「あの台本には、犯人の歪んだプライドが詰まってた。自分の計画を見せびらかしたくて、俺に送った。それが命取りになった」
「お前が読んでくれたから」
「お前が見せてくれたからだ。あの夜、お前が居酒屋に遺書を持ってこなかったら、何も始まっていなかった」
佐藤は何か言いかけて口を閉じ、代わりに深く息を吸った。
「帰ろう」
「ああ」
警察署を出た。二月の終わりの空は曇っていたが、風は止んでいた。




