第9話「子供だから」
重たくなった籠を背負い、アイは街を出ようと急ぐ。
籠の紐が肩に食い込む、その感覚が妙に誇らしい。
(そろそろラミウが帰ってくる頃だ。僕も急いで帰らなくちゃ)
大勢の人々と話をして、心身ともに疲れていたが、隠れ家へ帰る足取りは軽い。
こんなに長く、沢山の人と会話をしたのは、生まれて初めてのことかもしれない。
(けど……帰る前に何か飲みたいな。井戸で水を飲んで行こう)
ずっと喋っていたせいか、アイの喉は酷く渇いていた。
地下路を目前に方向を変え、街にひとつだけある井戸を目指す。
しかし、寄り道を決めたアイの判断は迂闊そのものであった。
どんなにアイが街の人間と打ち解けても、アイの存在を良く思わない者は必ずいる。
ラミウの叔父――
井戸番の大男ダルシットが、まさにそのひとりであった。
「よう、アイザーク。ラミウはどうした。一緒じゃねぇのか」
ダルシットは井戸の上に腰掛け、井戸桶を渡さんとアイを阻む。
「ラミウはいない。僕だけだ。喉が渇いたから水を汲ませて」
「余所者に水はやれねぇよ。毒を入れられるかもしれんからな」
余所者という言葉の棘が、アイの胸に深く刺さる。
アイは眉間に皺を寄せ、ダルシットの顔を臆せず見つめた。
「飲むのは今日が初めてじゃない。それに、僕は毒なんて持ってないよ」
「だから信用ならねぇんだよ。ラミウがいれば、水を汲ませてやれたんだがな」
「それなら井戸には近づかないから、おじさんが桶に水を汲んでよ」
ダルシットは舌打ちをすると、井戸桶を高く振りかぶり、アイに目掛けて投げつけた。
井戸桶はしたたかにアイの肩へと命中し、アイは痛みに低く呻く。
「生意気なクソガキが! この俺がっ、お前のために水を汲めだとぉっ!?」
「おじさんは意地悪だ。ああ言えばこう言うで、おじさんは何も聞いてくれない」
「はっ、この期に及んでまだ歯向かうか……いい度胸だ。徹底的に躾けてやるよ!」
ダルシットはアイの腹や背中を狙って、何度も蹴りや拳を繰り出す。
アイの細く薄い身体では、成人男性の力に抵抗できない。
されるがままのアイは、遠巻きに見つめる人々を見て必死に叫び、助けを求めた。
「痛いっ! お願いっ、誰か助けて!」
しかし、誰もアイを助けようとはしてくれなかった。
先ほどまで楽しく物々交換を交わした者も、アイと目が合うなり逃げるように去って行く。
「誰でもいいから、お願いだから……誰か僕を助けてよ……!」
アイの願いは誰にも届かず、伸ばした手は空を掴む。
結局ダルシットが飽きるまで、アイは無抵抗に殴られ続けた。
痛みを自覚しないよう心を無にし、ほとぼりが冷めるまで、貝のように蹲る。
そうして、自身でも気付かない内に気を失って――
アイが再び目覚める頃には、すっかり日が傾いていた。
「……ううん、身体中が痛いよ……っ……」
天窓から差し込む強い西日が、アイの傷をジリジリと焼く。
アイは四肢に力を込めて、なんとか再び起き上がった。
「はぁ……はぁ……帰らなきゃ……ラミウがきっと心配してる……」
痛む身体を引き摺りながら、帰路に就こうと歩き始める。
スラム街を出るために、アイは帰巣本能のまま暗い地下路を延々と歩いた。
外出して、どれ程の時間が経っただろうか――
一方のラミウは川から地下路へ戻っており、もぬけの殻の隠れ家を見て絶句する。
「アイ……どこへ行っちゃったんだろう……!」
慌てて探して行き違いでもしたら、更に大事になりかねない。
ラミウは石段に腰掛けて、アイを信じて帰りを待った。
やがて、地下路の果てから微かに足音が聞こえてくる。
ラミウはすぐに立ち上がり、足音の方へ顔を向ける。
「――アイ……?」
ラミウの瞳が、地下路の暗闇の奥を捉えた。
そこには、覚束ない足取りでこちらへと歩いてくるアイの姿があった。
「ラミウ……ただいま……」
ラミウの姿を見て安心したアイは、膝から地面へと倒れ込む。
「……アイっ!」
ラミウはすかさず駆け寄り、倒れたアイを全身で抱き留めた。
アイの重さでバランスを崩し、ふたりはそのまま後ろへと倒れる。
「アイ、一体何があったの!? 体中あちこち傷だらけだよ!?」
「遅くなってごめんねラミウ。街に行って、物々交換をして来たんだ」
「物々交換……? アイ、まさかひとりで街に行ったの?」
アイは背中から籠を降ろすと、中から小さな包みを取り出した。
ラミウはそれを受け取り、包みを開いて中の種を手のひらに出す。
「お婆さんが薬をくれたよ……お腹が痛い時に飲むと良いって」
「この薬を私のために? 気にしなくていいのに……病気じゃないもの……!」
ラミウの言葉を聞いているのか、いないのか――
アイは籠から交換した品を次々と取り出し、ラミウの前に広げて見せる。
「服が作れるくらい大きな布も、ナマズの捕り方も教わった。みんな意外と優しくて、僕はとっても嬉しかった」
「落ち着いて、さっきから言ってることがおかしいよ……! どうして怪我をして帰って来たの!?」
血で濡れたアイの口元を、ラミウは指でそっと拭う。
ラミウの指についた赤い血を見て、アイは改めて自らの状況を顧みた。
服は破け、血に濡れ、皮膚のあちこちが裂けている。
自身の惨めさと悔しさに、アイの瞳から涙が零れた。
「……ダルシットおじさんにやられたんだ。余所者は井戸を使っちゃ駄目って、水を汲ませてもらえなかった」
「おじさんが……!? そんな……っ、なんて酷い事を……!」
「酷い……本当に酷いよ。誰も助けてくれなかった。みんなが僕を見ていたのに」
熱い涙に濡れた頬を、アイは強く、ラミウの胸へと押し付ける。
「薬をくれて、布もくれて、ナマズの捕り方も教わったのに――
どうしてだろう。僕が余所者だからかな。僕らが子供だからかな」
僕らが子供だからかな――
アイが吐露した悔しさに、ラミウも共感して嗚咽を漏らした。
「ごめんねアイ……私がアイと川へ行くのを断ったから……!」
「ラミウのせいじゃないよ。僕が自分の判断で、勝手に街へ行ったんだ」
「それでも、私に責任があったよ……。アイに見られて恥ずかしいものなんて、ひとつもないはずなのに……!」
ふたりは互いに強く抱き合い、声を出してむせび泣く。
アイという存在が現れて、彼と共に暮らす内に、ラミウはすっかり勘違いしていた。
大人たちに搾取され続ける理不尽さと、抗う事の出来ない無力さは、アイが傍にいても変わらない。
そして今日、叔父の脅威はラミウのみならず、アイにも向けられていることを痛感した。
「ねえラミウ、たとえ僕が余所者でも……ラミウは傍にいてくれる?」
そう小さく問いかけながら、アイの瞳は不安と恐怖に揺れていた。
ラミウは熱い決心を胸に、アイを強く抱き締める。
「大丈夫……私はアイの傍にいるよ。必ず傍で、アイのことを守るからね……!」




