第10話「大人になっても」
ラミウがアイと出会い、共に暮らしはじめてから、あっという間に一年の時が経とうとしていた。
亜熱帯で蒸し暑かった密林にも、短い乾季が訪れる。
「ねぇラミウ、いつもより風が涼しいね。なんだか空も高い気がする」
「うん。この時期は風が気持ちいいから、何かと外に出たくなるよね」
ラミウが暮らす地下路とスラム街を含む居住区域は、自然の檻と呼ぶに等しい断崖絶壁に囲まれている。
湿気のこもる此の地では、涼しい乾季は年間を通して一番穏やかに感じる季節だ。
昼下がりは暖かく、乾いた風が木々を揺らして密林を軽やかに吹き抜ける。
ラミウとアイは衣服を籠に詰め込み、洗濯をするために川へと出かけていた。
ふたりは横並びになり、同じ行き先を目指して歩く。
アイが怪我をして帰って来た日から、ラミウはダルシットに対する警戒を強めていた。
「見て、ラミウ。お空の薔薇が僕らを見つめて笑ってるよ」
アイはラミウの肩を叩き、細い指で真上を指差した。
空には今日も、大地を監視するかのように、巨大な青い薔薇の花が揺蕩っている。
「……そうかなぁ? 笑ってるようには見えないけど?」
「花弁の中心をよく見て、光の涙を零していない。きらきらと輝く涙も綺麗だけど、笑ってる薔薇も朗らかで好きだ」
青い薔薇から零れる光の粒子は、雨に混ざって大地へと降り注ぎ、生命に強い力を与えるという。
「ねぇアイ……強き者の私があの薔薇のせいで、とっても醜い怪物になったら―― その時、アイはどうすると思う?」
「ラミウが怪物? そんなの想像できないよ。僕がどうするかなんて……きっと今と変わらないんじゃないかなぁ」
密林を跋扈する〈獰植物〉や、膨大なセルエネルギーを有するラミウのような〈強き者〉は、青い薔薇から降り注ぐ粒子の影響で進化した存在だと言われていた。
強き者の中には特殊な能力を得る者も多い。
ラミウの持つ〈兎のような跳躍力〉も、強き者として備わった特殊能力の一部だろう。
「今日の薔薇はさ、ニコニコ笑うアイみたいだね。乾いた風が気持ちよくて、薔薇も機嫌が良いんだろうな」
「ラミウだって薔薇に似てるよ。雨の日は頭が痛いって、涙を零してベソをかくんだ」
「うるさいなぁ。頭痛持ちじゃない人には、あの辛さなんて分からないよ」
多くの人は、薔薇が零す光の粒子を〈慰めの女神が流す涙〉と例えるが、その正体を知る者はあまりいない。
ラミウとアイもまた、青い薔薇の存在を数ある神話の延長として受け止め、特別に気に留めることなく暮らしてきた。
「アイ、知ってる? ここよりずっと上流にある、都会の栄えた街ではね、水晶灯は何もしなくても勝手に灯ってくれるんだって」
「そうなの? ラミウみたいな〈強き者〉が、灯して回らなくてもいいってこと?」
「そう。大地を流れるセルエネルギーを吸ってるんだって。バオバブにアッシュ、白檀の木も、夜になれば自然と光を放つんだよ」
バオバブにアッシュ、白檀の木――
どれもセルエネルギーをよく吸い、強い力を発する木々だ。
セルデバイスの原料である暗黒星石よりも入手が容易なため、時に暗黒星石の代用品として用いられることがある。
硬い岩盤に囲まれたこの地では、エネルギーの流れが滞っているため、草木が自発的に輝くことは滅多にない。
「そっか……。僕もいつかラミウと一緒に、輝く大地を見てみたいな」
「無理だよ。他所へ行こうにも地下路は崩れて通れないし、ここら辺一帯はグルリと崖に囲まれてる」
自然の檻から抜け出す為には、昼の内に崖を登りきらなければならない。
どんなに装備を整えようと、日が暮れれば凶暴と化した獰植物たちの餌食となってしまう。
子供ふたりで逃げ出すなど、到底無理な話だ。
ラミウは視線を上げ、轟々と流れ落ちる滝を見上げる。
「逃げ出そうとして崖を登って、滝つぼに落ちた人を何人も見たよ」
アイはフルリと身を震わせ、怯えた様子でラミウに訊ねた。
「怖いよ……。滝つぼに落ちたらどうなっちゃうの?」
「浮かんでこれた人を見たことがない。それでもここから逃げ出したくて、崖を登る人が絶えないんだ」
ラミウは目を閉じ、滝つぼに向けて祈りを捧げる。
アイもそんなラミウに倣って、滝つぼに向けて手を合わせた。
「それにしても、アイはよく岸まで辿り着けたね。アイもあの滝を通って、ここまで流れて来たんでしょう?」
ラミウの問いに対し、アイは視線を泳がせる。
「どうだったかな。ラミウと出会う前のことは、あまり覚えていないんだ」
いつも素直な物言いのアイが、はぐらかすようにそう言った。
これ以上その話はしたくないという意思表示だろうか、アイは逃げるように浅瀬へと向かう。
(何も慌てて逃げなくてもいいのに)
アイは時折、ラミウの問いに答えず逃げることがある。
誰にでも、答えたくないことの一つや二つはあるものだ。
ラミウもそれを理解して、それ以上深く追及するのをやめた。
先を歩くアイに向けて、ラミウは大きく声を張る。
「アイー! 先に川に入ってていいよー! 今日も私が洗濯をするからー!」
「わかった。すぐに洗濯できるよう、桶に水だけ入れておくね」
アイは浅瀬に到着するなり、大きなタライに水を汲み始めた。
ラミウが使っていた小さな木桶よりも大きい物で、二人分の衣服を洗濯するのに重宝している。
容量が大きい分、水を入れれば重くなるため、普段は二人で協力してタライを岸に運んでいた。
だが、今日のアイはいつもと違った。
小さな身体のどこにそんな力があるのだろうか、アイは水の入ったタライを胸まで軽々と抱え上げる。
一部始終を見ていたラミウは、信じられないという様子で目を見張った。
「うわぁ、とっても力持ちだね。どこからそんな力が出るの?」
「ラミウが分けてくれるセルのおかげさ。やる気を出すと、力がグッとみなぎるんだ」
アイはそう言いながら全裸になると、脱いだ服をラミウに手渡した。
「岩場に籠罠を仕掛けてくる。ナマズがいっぱい獲れるといいな」
「気を付けてよね。姿が見えなくなる所までは行かないでよ」
アイは笑って頷くと、休むことなく籠罠を抱え、上流に向かって歩いて行く。
ラミウも服を全て脱ぎ、水の張ったタライの中へと放り込んだ。
ムクロジの実を入れてしっかりと泡立て、皮脂汚れや泥を浮かしていく。
(はじめこそ、汚れ物を見られたくないからって理由で引き受けた洗濯だけど……私って意外と物を洗うのが好きみたい)
得意な仕事を分担すれば、午後にはだいたいの仕事が終わる。
洗濯をするラミウに対し、籠罠を使った川での漁は、力のあるアイの担当だ。
スラム街で教えてもらった漁のやり方は、ふたりの生活を大いに助けていた。
ナマズが多く捕れた日などは、日に干して保存食にすることで、外に出られない日でも飢えを凌げる。
隠れて暮らしているからこそ出来る、ふたりならではの生活は、ラミウにとって掛けがえのない大切なものとなっていた。
(こうしていつまでも、ふたりで仲良く暮らしていければいいな)
ラミウは心の中で、祈るように呟いた。
ふたりでの生活はラミウにとって、幸せ以外の何ものでもない。
「さぁ、汚れもだいぶ浮いたことだし、汚い所を擦ろうっと」
ラミウは服を目の前に掲げ、汗染みや泥汚れなどをくまなく探す。
そして、ふと手を止めて服を太陽の光に翳した。
「生地が伸びて薄くなってる……引っ張ったら今にも破れそう」
アイの服の裾が不自然に傷んでいることに気付いたからだ。
すかさずラミウは、川で泳ぐアイに向かって声を張った。
「アイ、服の裾を引っ張ってる? 生地が伸びて駄目になるよ?」
ラミウの声に気付いたアイも、声を張り上げて返す。
「だっておヘソが出ちゃうから。僕の服、前よりも小さくなってるんだ」
籠罠を仕掛け終えたアイが、慌てた様子でラミウの元へと戻ってくる。
「アイ、ちょっとそこに立って見せて」
ラミウはアイの前に立ち、頭の先から足の先まで、全身をくまなく観察する。
言われてみれば確かに、アイは以前よりも成長していた。
薄かった胸が厚みを増し、身長も顕著に伸びている気がする。
「布を継いで足してもいいけど……いっそのこと新しい服を作っちゃおうかな」
「僕の服よりラミウの服を作りなよ。ラミウだって、ずっと同じ服を着ているでしょう?」
ラミウの身体は凹凸が目立つばかりで、身長はあまり伸びていない。
たまに破れたりほつれたりはするものの、裾や丈は十分に足りている。
「私はいいよ。まだ代えもあるし、困ってないもの」
「それじゃあ、僕がラミウのお下がりを着るよ。ラミウは新しい服を着れば……」
「それは絶対に絶対にヤダっ!」
ラミウは桶からムクロジの実を拾い上げると、アイに向かって投げつける。
アイは片手で実を受けると、勝ち誇ったように歯を見せて笑った。
「なにさ、アイったら! あからさまにニヤニヤしちゃって!」
「だって……なんだかとっても嬉しいんだ。大きくなって、ラミウの背に近づけたから」
「はぁっ!? アイは全然小さいからね! 身長だって、私の方がまだまだずっと大きいもん!」
「でもこの調子で大きくなれば、すぐにラミウを追い越せるかも」
ラミウは頬を膨らませ、アイの背中を手のひらで叩く。
「変なこと言わないで! そんなにすぐに大きくならないっ!」
「変じゃない。なるかもしれないって言っただけだ」
「アイは私と同じものを食べてるんだから、私の背を越すことなんて絶対にないよっ!」
アイは口をへの字に曲げ、眉をひそめてラミウを睨む。
そして、先ほどのお返しとばかりにムクロジの実を拾い上げ、ラミウに向けて投げつけた。
「へっ、当たるもんか!」
ラミウはそれを軽やかに躱し、棍棒を拾ってアイの尻を軽く叩く。
「うあっ、痛いよラミウっ。道具を使って叩くなんてズルい」
アイはラミウに背を向けて、川の中へと慌てて逃げ込んだ。
「ああっ、コラ! 戦いの途中で逃げるなぁっ!」
ラミウもすぐにアイを追いかけ、背後から両腕を回して羽交い絞めにする。
浅瀬の砂利によろけながら、ふたりは飛び込むように川の中へと転がり込んだ。
「――ぷはっ、あははっ! 水が冷たくて気持ちいい!」
まるで小さな子供のように、ラミウは無邪気に潜って笑った。
川底に尻もちをついたアイは、勢いよく浮かび上がり、両腕を抱いてブルブルと震える。
「ううっ、深い所は冷たくて寒いや……! ラミウの方は寒くないの?」
「大丈夫。寒いなら私にくっついて、セルを流して温めてあげる」
アイは素直に頷くと、ラミウの背に手のひらを回し、正面から抱きつくように胸を合わせた。
たちまち、ラミウを通じて温かいセルがアイの胸へと流れ込む。
「どうかなアイ……あったかい?」
「うん。お湯が身体に入ってくるみたい。気持ちよくて眠っちゃいそう」
ふたりは互いに見つめ合い、水の中で抱擁を交わす。
やがて沈黙に飽きたのか、アイが唐突に口を開いた。
「ねぇラミウ……ラミウは、僕が大人になるのが嫌?」
「嫌じゃないけど複雑な気分。少なくとも私は、もう少し子供でいたいかな」
「僕は早く大人になりたい。大きくなって強くなれば、虐げられることもなくなると思う」
アイの言葉を聞いて、ラミウは唇を軽く噛んだ。
「私だって、少し前までアイと同じことを考えてたよ。でも今は……大人になることに不安しかない」
「不安……大人になるのが心配ってこと?」
「心配じゃなくて怖いんだ。私を見つめる周囲の目が、変わっていくのが分かるから」
呟きながら、ラミウは自身の胸を見下ろす。
アイと同様に平らだった胸は、ふっくらと柔らかく膨らみ、先端が淡く色づき始めていた。
(どんなに服を重ねても、身体の変化を隠しきれない時が必ず来る……)
劣悪な環境のスラム街では、ほとんどの子供が大人になる前に死んでしまう。
ラミウのような健康な少女はスラム街でも珍しく、貴重な存在だった。
そして、思春期を迎えたラミウは、本能的にすべてを理解していた。
街の大人たちに、邪な劣情を向けられていることを――
「アイ……出来ることなら、私はずっと子供でいたい。こうしてギュッと抱き合っても、誰も変に思わないもん」
「言ってる意味がわからないよ。どうして僕らを変に思うの? 大人になったら、僕らは抱き合っちゃいけないの?」
アイの問いに対して、ラミウは思わず言葉に詰まった。
純粋なアイを傷つけそうで、説明自体に悩んだからだ。
ラミウの返答を待たず、アイが再び口を開く。
「ラミウ、怖がらなくても大丈夫だよ。大人になろうが僕らは何も変わらない」
「変わっちゃうよ。何も変わらないなんて、そんなの絶対に有り得ないもの」
「信じてよ。大人の僕もラミウのことを大切にするし、ラミウのことが大好きだよ」
ラミウのことが大好きだよ――
アイの純粋な言葉を聞いて、ラミウの頬が意図せず熱を持ち、紅潮していく。
「ありがとう、アイ……だけど私は……っ」
大好きという言葉は既に、思春期を迎えたラミウにとって、心を刺激する棘でしかなかった。
「――アイの言葉で心が揺れる、自分自身が大嫌いっ……!」
大人たちに邪な感情を向けられるのが、嫌で堪らないはずなのに。
ラミウは自らの胸を刺す、切ない痛みに心を乱されてしまう。
「アイ……ごめんね。私、少しだけ身体が冷えちゃったみたい」
アイの身体をゆっくり押し退け、ラミウは逃げるように岸へと上がった。
「ほら、やっぱりラミウも寒いんだ。少し早いけど今日は隠れ家へ帰ろうよ」
アイもラミウを追いかけて岸へと上がり、干していた服を慌てて纏った。
大きなタライを頭に被り、左手に小さな桶を抱えて、右手をラミウの前に差し出す。
しかし、ラミウはアイの手を取ろうとしない。
「……ラミウ?」
ラミウの呆然とした表情は、いかにも心ここにあらずといった様子だ。
アイは手を繋ぐことを諦め、ラミウの隣をトボトボと歩いた。
※第10話の挿絵はアルファポリスで掲載しているものに修正を加えたものになります。
修正内容:全裸から着衣差分の追加




